第57話 さるべき業縁のもよおさば



 先ほどまで自分たちと同じ様に強制労働をさせられていた囚人が車で走り去るのを見て遠巻きに様子を見ていた庭の住人たちが俄かに騒ぎ出した。

 一体何の取引をして鯉市りいちを懐柔したのか教えてくれと懇願する者や、ここを出ても獅子王ししおうが倒された世の中では我々貴族の生きていく場所など無いと口汚く恨み言を飛ばす者が、まるで水を得た魚の様に活気に溢れ監視役たちを困惑させた。枷をしていても大勢で詰め寄る力を抑えるには人手があまりにも少ない。少しずつ圧し負け、あっという間に鯉市と青猪あおいの周りは庭の囚人で溢れ返った。

「なんだお前ら! 持ち場に戻れ! おい、言う事を聞かせろ!」

 罵声に紛れながら鯉市が金切り声を上げる。監視役たちも必死で警棒を振り下ろすが最早暴動に近い形で混乱は強まっていく。

 その集団の中から、ふと子供の手がにゅっと伸びてきて青猪のボロボロに擦り切れた袖を引いた。

「おにいちゃん、うちのおとうちゃんも、逃がしてあげて」

 驚いて思わずその赤ん坊の様な小さな手を取る。ぐいっと引っ張り出すと、子供はほんの五歳くらいの魚種の男の子だった。反対側の手で兄弟たちと手を繋いでいたらしく少年ばかりが全部で五人、数珠繋ぎにどんどん出てきた。一番大きな子供は、ちょうど再兎さとくらいの大きさに見える。皆ガリガリに痩せ、裸足だった。

「来て下さい。王宮の人からもらった金時計があります」

「それをあげますから、お父ちゃんを助けてください」

 小さな兄弟たちが口々に青猪に訴えながら頭を下げる。

「王宮の金時計だと? 笑わせるな。魚種がそんな物どうやって手に入れるっていうんだ」

「魚種の貧乏人らしい間抜けな嘘だ。それより私なら本物の金時計を差し上げますよ! ここから出たらまだ隠してある財産がある!」

 周囲に群がる獣種の貴族たちが馬鹿にした声を上げて罵る。一人一人が警棒で殴られ大人しくなるまで、青猪は掴んだ子供の手を離さなかった。

「青猪さん、この子供たちは貴方が何と言っても逃がせません」

 物言いたげな青猪の口を塞ぐ様に鯉市は首を振った。

「こいつらは、ウサギを邪気寄席に入れた張本人の古背ふるせという男の子供たちです。ボクも叔父貴も散々話を聞きましたが頑なに口を割らない強情な男で、金時計の話など初耳です。どうせ口から出まかせでしょう。貴方の様な方が会いに行く価値は無い」

 それを聞いて青猪は余計に興味が沸いた。ウサギを邪気寄席に入れた目的や、誰から依頼されたのか、その出所が分かればこちらのウサギが悪のウサギだという確証が得られるかもしれない。再兎を生かす希望になるかもしれない。何よりも、王宮の金時計という言葉が気になった。子供が想像でそんな物の存在を言い当てられるだろうか。金時計を与えられる役職の人間は王宮内でも限られた者だけだ。

「王宮に縁のある僕なら、何か聞き出せるかもしれません」

 青猪はそれだけ告げると未だ群がる無数の囚人を掻き分け、子供たちの手の引く方へ歩き出す。鯉市は面倒そうな顔をしながらも渋々その後をついて行く。囚人たちはまだ諦められずに食い下がったが、監視役に殴られて次々に倒れる者たちの様子を見て段々とまた諦観の様相に戻っていった。獣種の貴族たちから吐き出される魚種への差別的な悪態を、監視役たちは感情の無い顔で聞き流し、ただ暴力を与え続けた。

 子供たちに連れてこられたのは、洞穴の様に深く庇を作る塞がれた坑口だった。青猪と犀太郎が労働を強いられていた場所よりもずっと深い場所にあり、鉱山独特の臭気が強く空気が淀んでいる。その坑口の奥の暗がりに、赤黒い顔色の魚種の男が横たわっていた。子供たちは青猪の手をパッと離し、父親に駆け寄っていく。

「お父ちゃん、さっき庭から一人逃がしてもらえたんだ」

「おとうちゃんも逃がしてくださいって、おれが頼んだんだよ!」

 意識があるのかも怪しい男に、口々に話しかける様子は必死で、努めて明るい声を出しながら皆が父親の命の灯が消えない様に気遣っている。憮然とした表情で入口から動かない鯉市を置いて、青猪も男の傍へ腰を下ろした。微かだが苦しそうに息をしている。

「この獣種、王宮の人なんだって」

 今まで一言も声を発しなかった一番大きな子供が、古背に向かってそっと呟いた。その声は高く柔らかな少女の声で、青猪に静かな驚きを与えた。間近で見ると線が細く長い睫毛をしているが、薄汚い身なりと痩せた胸、労働で真っ黒になった顔では分からなかった。何より髪の毛がかなり短く刈り込まれているのだ。

「僕は王宮でサライの大使を務めていた上級貴族の青猪と言います。誰の命でウサギを邪気寄席へ連れて行ったのか教えて下されば、お子さんたちと一緒にここから出られる様、僕から鯉市さんに頼んで差し上げます」

 青猪が鯉市に聞こえない様、早口で囁くと、古背はゆっくりと腫れあがって変色した瞼を開けた。

「……あざみ

 掠れた吐息に名を呼ばれ、長女は小さく頷くと徐に下穿きに手を突っ込んで、中から小さな金時計を取り出した。それは隠し持っていたからか随分汚れていて、薊は服の裾で何度も拭いてから静かに青猪の掌に乗せた。表面には王家の紋章が刻印され、見る者が見れば一目で恩賜の品だと分かる代物だ。

 震える手で時計を裏返す。そこには一文、獅子王より執事Pへ賜与す、と彫られていた。

「まさかそんな……」

 思わず零した青猪の脳裏に、馬綾にピタリと張り付くあの不気味な瞳が過ぎった。犬遊が金で雇った王宮側の間者ということだろうか。あんなに王族に近しく仕える者が王の寝首を掻く為に画策していたのかと思うと背筋が凍った。

 だが疑問が残る。

 社交場解禁夜、Pは頑なに再兎の夜府座入場を足止めし、またテロの後は一転して『木天蓼』から再兎を逃がした。『木天蓼』と協力関係にあるのなら東狐を玉座に就かせることは取引条件だった筈だ。再兎を避けたりもう一匹のウサギを邪気寄席に入れたりする理由が分からない。

 黙ってしまった青猪の前で薊が膝をついた。 

「父は王宮の人から頼まれて牡丹ぼたんを預かったんです。獣種から金を貰ってたなんて知れたら太刀様に殺される。でも、あなたは王宮の人なんでしょ? Pの仲間なんでしょ?」

 助けてください、と震える頭を深々と下げる。骨の浮き出た小さな身体を折り畳み、泥と血で汚れた指を揃えて土に並べる。同じ年頃の再兎の姿が重なり吐きそうになる自分を必死に抑えながら青猪は自分のカマーバンドに金時計を隠した。

「……鯉市さん、誰の計略か聞き出しました。この者たちはもう用済みでは?」

 後ろを振り向き、鯉市を呼ぶと、薊以外の小さな子供たちは怖がって古背の身体から飛び退いて青猪の周りに群がった。鯉市が訝しげに奥へ来るのを制し、青猪は古背たちと鯉市の間に立ちはだかる様に立ち上がった。

「先程も言いましたが、そいつらを放つことは出来ませんよ。誰の謀か聞き出したのなら尚更、古背に待つのは死のみです」

 鯉市は小太りの身体を苛立たしそうに揺すりながら肩を怒らせ近づいてくる。

「そいつが蔵にウサギなんて入れなければ、亜海鼠あこは死ななかったんだ」

「そのアコさんの遺言を確かめに行くには僕の力が必要な筈です。この者たちを解放すると約束するなら首謀者の名も明かしましょう。恐らく貴方がたの想像とは違う人物だ」

「……『木天蓼マタタビ』では無いと? それが真実だという証拠は?」

「金時計は確かに恩賜の品で間違いありません。信憑性は高いです。これは王宮の人間しか手にすることの出来ない物ですし、名も刻まれていました。ウサギを邪気寄席に潜り込ませた理由はその当人に訊けば良い。金で雇われただけの憐れな貧民を殺してほしいと思わないでしょう。貴方の恋人は」

 恋を知らない青猪の精一杯の啖呵だった。握りしめた拳から汗が落ちる。鯉市は穏やかな人相だが体重は青猪の二倍はありそうだ。力任せに体当たりされる前に口八丁で引いてもらうしか道は無い。

「そこまで隠すとは……その金時計は、もしかしてご自分の物なんじゃないですか? 『木天蓼』と共に行動していた王宮の人間。考えてみれば十分怪しい。王太女の遣いというのは真っ赤な嘘で、獅子王を斃し世の中を攪乱する為にウサギを無関係な邪気寄席に一時的に隠し、その為に亜海鼠を捨て駒にした。そう考えれば合点がいく」

 坑口へ注ぐ逆光が迫る鯉市の顔に暗い影を落とす。筋の通った仮説を立てられ、青猪は怯んだ。この憐れな子供たちを解放する駆け引きにPの名前を使いたかったが、鯉市とでは踏んだ場数が違った。貴族の付け焼刃ではとても太刀打ちできない。

「この人じゃありません!」

 青猪の脇に立ち上がり、枯れ枝の様な身体で薊が叫んだ。

「Pという人です。Pが何年か前に赤ん坊を連れて来たんです。気付いたら私と同じくらい大きくなってて、社交場解禁夜の前日に、その人に頼まれて父が邪気寄席に連れて行きました。本当です。知ってることはこれで全部です」

 殆ど食べていないのだろう。薊は青い顔をして肩で息をしている。観念した青猪は黙ってカマーバンドから金時計を取り出し、鯉市に見せた。暫く黙って刻印を見つめていた鯉市は、やがて静かに

「用済みだ。何処へなりと好きな所へ行け」と告げた。

 鯉市がさっさと出口へ歩きだしたので、青猪は懐の紙幣をあるだけ掴み、薊の手に握らせた。庭では金など使う場所が無かったが、この一家が受け取ったであろう報酬が金時計だけなのだとしたら手ぶらで帰すにはあまりにも忍びない。

「なるべく早く北街を出た方が良い。街境ならば異種でも暮らしやすいでしょう」

 青猪がそれだけ言って立ち去ろうとすると、古背が再び目を開け、首を横に振る。

「母ちゃんが太刀様に連れて行かれたままなんだよ!」

 青猪の周りで子供たちが騒ぐ。太刀の好色ぶりは西街にも届いている。男の恰好をさせて薊だけ何とか守るのが精一杯だったのだろう。だが青猪に出来ることはこれ以上無い。鯉市と共に行動するとなれば邪気寄席に助けに行くことは不可能だ。

「貴方がただけでも、どうか遠くへ」

 施した分だけ貧民は欲深く縋りついてくる。中途半端に情けを掛ける姿を、ここに犀太郎が居たら嘲笑っただろう。それでも青猪は薊に金を渡した。

似ている所など一つも無い、年頃が同じだけの薊に、再兎の面影が重なり堪らなかった。ただ只管、見返りなく、誰かに愛を与えたかったのだ。

「……待て」

 子供たちの手を振り払い出口へ向かおうとする青猪の背中に、古背が声を掛けた。

「鯉市様と動くつもりなら、ひとつ、教えといてやる」

「何でしょう」

「牡丹を、蔵に、入れた後……俺は、会ってるぞ」

「……どなたに」

「亜海鼠に」

 洞穴の奥深く、振り返った先の古背は最早屍の様で、その呪いの様な遺言は青猪の背筋をぞくりと冷やした。

「あの女、あんな真夜中に、酔い覚ましだって笑ってたが……今思えば、見られてたんだ」

 青猪は生唾を飲み込んだ。あまり遅くなればまた鯉市からあらぬ誤解を受ける。そう分かっているのにそこを動けない。

「檻の中は、奴隷ばっかで目立つからよ……牡丹を泥で汚して、愚図愚図してたからだ、クソ。何の恨みがあって……逃がしやがった」

「……何故それを、鯉市さんに伝えないのですか」

 青猪の震える声が面白かったのか、古背は笑う様な喘鳴を上げた。

「殺されんのが……早まる、だけだ」

 子供たちが一塊になって守るように古背の傍に寄っている。この邪気寄席の下っ端は、金時計一つでこんな目に遭う様な危険を冒さなくては生活出来なかった。家族一緒に生きられなかったのだろう。

 それ以上何と声を掛ければ良いのか分からず、青猪は一礼だけして踵を返した。背後から聞こえた諦めの色をした吐息は、小さく妻の名を呼んでいた。


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