第56話 庭


(十)


 その日、鯉市りいち太刀たちの見送りに顔を出さなかった。こんなことは鯉市を引き取ってから初めてだったので、太刀は不機嫌になるどころか怪訝な顔をした。

「鯉市のヤツはまだ寝込んでいるのか」

「はあ。なんでも腹を下して、飯も食えねえそうです」

 下っ端の一人がぺこぺこ頭を下げながら首を傾げる。亜海鼠が息絶えてからというもの部屋に籠っている様子から察するに、心因性のものだろう。随分人間らしい心を持っている邪気寄席ざけよせ次期頭領に憐れみすら覚える。

「丁度いい。暫く放っておけ」

 それだけ吐き捨て、揚々と車へ乗り込む。太刀の心はそれどころではなかった。これから嬲る者たちに向けて嗜虐心で満たされ、鯉市への執着は一時彼方へ消えていた。

 倉庫番の下っ端たちや門番を除いた殆どの手下を引き連れて行った為、最後の車が走り去ると邪気寄席の内はしんと静まり返った。音がしなくなったのを見計らい、鯉市はそっと私室の扉を開ける。それから外套を着込み、ポケットに亜海鼠あこのシリコンバッグを忍ばせて出て行った。

 邪気寄席に残った下っ端たちがすれ違いざまに嘲笑する息遣いを感じる。以前はそれが苦しくて虚勢を張っていたが、今はむしろ軽視されていて良かったと思う。

「兄さん、どちらに行かれるんで?」

 邪気寄席の敷地を出ようという辺りで、門番の屈強な男が低い声で引き留めてきた。鯉市が振り向きもせずに「医者に行ってくる」と答えると、馬鹿にした様に鼻で嗤い、

「女に騙されない様になる薬がありますかねえ!」

 と周囲に聞こえる大声を上げる。他の門番たちがそれにまたドッと沸き、鯉市は逃げる様に外へ出ると、一目散に海へ向かった。


 埠頭を必死に走る小太りの鯉市の身体は、寒空の下だというのに湯気が立つ程上気して、あっという間に汗だくになった。貧者が多く暮らす海沿いで鯉市の良い身なりは目立ち、小舟に乗った漁師や海藻を浜辺で乾かす女たちが、その真っ赤に染まった子供の様な顔にジロジロと不躾な視線を寄越した。

 海岸線の奥には砂地の貧民窟があり、更にその奥に、太刀の庭はある。

 黒い岩に囲まれた内は開けており、硫黄に似た独特の臭気が辺り一面に立ち込める。黒松が海から隠す様に生い茂り、時折有毒ガスが吹き上がる採掘場で多くの生きた屍たちが目的の無い労働に従事させられている為か、湿度が抜けずに年中そこだけ空気が淀んでいるのだ。

 奇異の目に晒されながら長距離走を終え、ようやく採掘場に到着すると、鯉市は肩で息をしながら苦しそうに地面に転がった。すぐさま監視役が気付き、こちらへ寄ってくる。馬鹿にしている態度を隠しもせずに薄ら笑いを浮かべている。

「こりゃ兄さん。こんな墓場まで、何か御用で?」

「あの、こないだ入ったばかりの、獣種はどこだ? ほら、貴族の」

 息せき切って唾を飲み込みながら喋る鯉市を可笑しそうに見ながら、監視役は

「貴族の獣種ったって、ゴマンと居ますぜ」

 と気の無い返事をする。邪気寄席との取引で太刀の逆鱗に触れた者や人身売買で身を持ち崩した者など、庭では獣種の貴族は珍しくない。

「ひと月ほど前に入った若い二人組の男だよっ! さっさと連れてこいっ!」

 鯉市は出したことの無い様な金切り声で叫んでいた。あまりの剣幕に死んだ目をした奴隷たちが一斉にこちらを向く。監視役は普段の気弱さとは様子の違う鯉市に気圧されて、ただ何度か頷くと慌てて庭の内へ走っていった。

 怒りで肩が震える。自分の感情の導火線がほんの僅かしか無くなっているのを鯉市は感じた。心の中が抑制出来ない気持ちで溢れ、綯い交ぜになり、自分でも正体の分からないどす黒い塊を内包した何かに変化している。

 施設から引き取られた子供時分から、太刀の元では決して開かなかった箱の、その中身が飽和量を超えて全身を蝕んでいく。

 ゆっくりと身を起こし、土を払う。

 自分はこれから夢を捨てるのだ。太刀の跡を継ぎ、この街の王に君臨するというたった一つの自分の価値を捨てるのだ。恐怖と興奮で掻いた汗が急速に冷めていく。眼前の両手が震えるのを戒める様に、何度か強く握り、腿を打った。

 暫くすると、庭の奥から急かす様な大声が聞こえ、やがて先ほどの監視役がペコペコと頭を下げながら走ってきた。

「兄さん! お待たせしました!」

 後方から首手枷を付けたボロボロの洋装姿の男が二人、ゆっくりと近づいてくる。監視役が何度か振り向き怒鳴り声を上げるが、全く覇気が無く、特に後ろを歩く痩せた男はふらふらと足元が覚束ず、今にも倒れそうだ。

「オラ、早く来い! もう一発殴られてぇのか!」

「ああ、お前はもういい。仕事に戻ってくれ」

 何か言いたげな監視役の視線を無視し、鯉市は枷の鍵だけ受け取って他の監視役たちも纏めて人払いをさせた。物見する元気がまだある者たちが牛の様に追い立てられながら庭の奥へ押し込まれていく中、二人の男――青猪あおい犀太郎せいたろうは、邪気寄席で売られる奴隷たちの様に鯉市の眼前に並んだ。

「……随分、参ってますね」

「御託はいい。用件を言え」

 犀太郎が低く唸る。額には乾いた血が点々と黒くこびり付き、重たい瞼に濃い疲労が見えた。後ろの青猪は背を丸め、顔面は蒼白で立っているのがやっとの様子だが、鯉市を見返す眼差しはまだ確かだ。気は触れていない。

「牢に居た女の話で訊きたいことがあります」

 鯉市は懐から亜海鼠のシリコンバッグを取り出し、二人の前に差し出す。だがそれを一瞥もせず犀太郎がウンザリした顔で溜め息を吐いた。

「こんなトコにぶち込んでおいて、まだそれか。本当に知らねえよ、あんなイカレた女」

「では貴方はどうですか。何か、牢で、話していませんでしたか?」

 呆れた顔で踵を返す犀太郎を押しのけ、鯉市が青猪に迫る。青猪は急に距離を縮められ、面食らって仰け反った。

「何か言伝でも預けられませんでしたか? 何でも良いんです。亜海鼠は、最期に何か言ってませんでしたか?」

「あ、アコ……?」

 シリコンバッグを両手で握りしめ、鯉市は一縷の望みを託す気持ちで青猪の胸にそれを押し付けた。採掘と汗や垢で汚れきった身体に触れるのを気にも留めずに縋りつく。

「あの娘の名です……本当の、獣種の名前は分かりません。ボクたちは恋人だったのに、名前も、素性も、何も分からないんです」

 このひと月、自室でこの暗号とひたすら向き合ってきた。邪気寄席の顧客や太刀の取引先の獣種の貴族たちの名簿はもとより、奴隷として飼われてきた獣種の女たちの素性まで調べられる所までは漁ったつもりだ。

 だが、亜海鼠との関連や動機は全く見つからず、当然シリコンバッグに遺された文字の意味も分からなかった。

 鯉市には最早、青猪しか居ない。同じ獣種で、牢で亜海鼠が何かを託した男。隠れて庭へ来る為に、太刀や邪気寄席の多くの者が留守をする今日を待っていた。明日になれば自分の行動は明るみになるだろう。それでも、鯉市は亜海鼠が何者なのかを知りたかった。何を遺したのかを分かってやりたかった。

「これを見てください。亜海鼠の最期のメッセージなんです。獣種の貴方がたなら何か分かりませんか? どんな小さなヒントでもいい。よく見て下さい」

 鯉市に押され、痩せこけた青猪の身体はドスンと尻もちをついて倒れた。驚いて振り向いた犀太郎が、上に圧し掛かり更にシリコンバッグをぐいぐいと押し付ける鯉市の首根っこを掴み、乱暴に引きずり下ろす。

「黙って聞いてりゃ好き勝手言いやがって、いい加減にしろ。恋人だったか知らねえが、それが俺たちに何の関係がある? 何の得があって邪気寄席の人間に協力すんだよ」

 青猪は目を白黒させて事の成り行きを見守っていた。カマーバンドに挟んだままの記憶媒体のことは犀太郎には明かしていない。この庭から脱出する頼みの綱だったが、ここで鯉市に渡すことが正しいのか判断出来なかった。何しろ中身を見ていないので、アコというあの女性がどちら側の人間なのかも分からないままだ。

 庭へ来てひと月、無意味な採掘や運搬の労働を繰り返すだけの生活だった。持ったことも無い重さの岩や砂袋を担ぎ、湿った空気と共に粉塵を吸い込む。爪の中に入り込んだ黒い汚れを気にしていたのは最初だけで、すぐに全身が垢まみれになった。

 塩茹で豆を潰しただけの一日一度の食事を、その汚い指で搔き集めて口に入れながら、青猪は死んでしまいたいと何度か考えた。初めは口も聞かなかった犀太郎が、時折他愛もない話を独り言の様に零してこなければ、とても正気では居られなかっただろう。

 ナイフや銃はもとより所持品は全て没収されたが、悪趣味なことに衣服はそのままにされた。庭に一番多いのは仕立ての良いスーツやイブニングコートを着た獣種だ。

 生気の無い顔をして碌に動けない老人も多く、監視役の男たちが怒鳴ったり足蹴にしたり、中には泣いて嫌がる者を縛って坑道の奥へ無理やり連れて行かせることもあった。

 鳥種や魚種も居るが粗末な服を着ている者が殆どで、そういう者たちは比較的人間らしい扱いを受けていた。食事も獣種よりはマシな物が出され、若い人間も多く、監視役に上手く取り入って煙草や酒を分けてもらう者さえ居た。庭のヒエラルキー構造は世間とは真逆なのだ。

 夜に流れる公衆伝達で馬綾の声を耳にする時だけ、旧知の人間の記憶に僅かながら心が慰められたが、毎夜ウサギを捕まえろと急かす言葉に徐々に苦しさが増していった。

 再兎さとを想わない日は無い。ウサギを逃したという牢の女から受け取った物は、再兎を救い出す為に使えるかもしれない。この鯉市という男に渡して、万が一にでも太刀の元へ戻る危険は避けたかった。

「……得なら、ありますよ」

「何だと?」

 犀太郎が鯉市を見る。鯉市はのそりと身を起こし、犀太郎を冷めた目で見返した。

「明日にでも邪気寄席が『木天蓼マタタビ』を襲撃します。先ほど一団が出立しました」

 犀太郎が何も言えず後退りした。手枷がガチャリと揺れ、息を飲んだ喉仏が首枷を上下した。目を見開き、二の句が継げずに居る。

 鯉市は差別を受けずに生きてきた魚種だ。

 何処へ行くにも邪気寄席の取り巻きが同行し、太刀の後継者として異種の客たちからは畏れられてきた。北街の最高権力者の庇護の元、豊かな暮らしをしてきた特権階級だ。劣等感が無いので太刀の様に愉悦を感じることも無い代わりに、同情や憐れみを感じることも無い。

 鯉市にとって獣種の貴族たちは嫌われ者の金持ちたちという記号でしかないのだ。だからこそ、臆せず交渉が出来た。

「叔父貴はもう年ですから、西街へ赴く際はいつも途中で何度か休憩を挟むんです。今から車を飛ばせば、先回りして『木天蓼』へ報せることが出来ますよ」

「……なんだと」

 犀太郎はもう、自分の身元を隠さなかった。力んで飛び出しそうな目をしながら食い入るように鯉市を見つめた。冷静さを取り戻した鯉市は青猪に向かって

「貴方には関係の無いことかもしれませんが、相棒の為にも一肌脱いでくれませんか」

 と、シリコンバッグを差し出す。犀太郎がバッと青猪を振り返る。縋りつく様な視線は出会ってから初めて受けるもので、それは思いの他、青猪の心を不快にさせた。

「……別にそれならそれで構わないのです」

 柔らかなそれを掌に受け取りながら、青猪はふと呟いていた。

「『木天蓼』は、僕にとっては家族の仇ですから」

 汚い砂塗れの手の上で小さな文字が揺れている。これは何だろうかとじっと見つめる。dux/WQ/GRNと、確かに読める。

「……これ、ドゥクスではないですか?」

「ドゥクス? それは何ですか? どういう意味ですか?」

 鯉市が再び覆い被さる様に近づく。自分の体臭が気になって、青猪はそれを避ける様に仰け反りながら説明した。

「公爵という意味の古語です。高等教育を受けている者ならば読めます」

 鯉市は何度も公爵、公爵と呟きながら思い当たる節を考えだした。公爵家に関する何かだとすれば、WQも比較的すぐに理解った。

「続けて、女性の使用人が使う詰所の名前だと思います。屋敷内の侍女部屋のことでしょう」

 馬綾と二人でWQと書かれた部屋の前で待ち構えたことが何度もある。遠い昔の記憶だ。侍女の仕事を終えた亜栗鼠が、休憩になると遊んでくれるのが楽しみだった。別件で王宮から離れていると馬綾に聞かされているが、そういえば亜栗鼠は今何処にいるのだろうか。

「公爵家の侍女部屋! そうか、そこに何か亜海鼠の伝えたいことがあるんだな! だが、一体何処の公爵家だ……西街にはそんなもの、いくつもあるぞ……」

 鯉市は青猪の一言に一喜一憂しながら汗を拭っている。

「それで、最後の言葉はどういう意味なんです?」

何にせよ、これを解読して庭から解放されれば今度こそ『鯨』へ向かえる。鯉市に急かされ、青猪は最後の単語について知恵を振り絞った。だが全く見当がつかない。少なくとも上級貴族の使う言葉ではない。

「それは、色だ」

 黙り込んだ青猪の隣から、いつの間にか犀太郎が覗き込んで低く呟いた。

「……色?」

「そうだ。これはGREEN、つまり緑の略語だ。西街の下級貴族は武官の要職に就く家が多いが、犬遊けんゆうの家もそうだったらしい。アイツは今でもこの書き方をする」

 傍らに立つ自分よりも屈強な男が、打ちひしがれ青い顔をして立っている。青猪の心の中に蜘蛛の巣が絡まった毛玉の様な感情が溜まっていく。それは硬くなって喉を塞ぎ、今にも飛び出しそうだった。

「つまり、これは公爵家の侍女部屋にある、何か緑のもの、という意味なんですね?」

 鯉市が目に涙を浮かべながら、愛おしそうにシリコンバッグを抱きしめる。その異様な様子に、遠巻きに様子を伺っていた監視役たちが顔を見合わせている。

「約束です。早く錠を解いて解放して下さい」

ざわつき始めた周囲の視線を避ける様に、青猪が早口で鯉市に耳打ちする。しかし鯉市はもたもたと鍵を取り出しながら

「しかし何処の公爵の屋敷のことか、心当たりはありませんか?」

 と、ごねだした。青猪は苛立たしいのを堪えながらまくし立てる。

「ではそれは僕が一緒に考えますから、先に犀太郎さんに車を」

 隣で犀太郎が息を飲むのが分かった。青猪が見ると、見つめ返す。何故だと顔に書いてあった。

「急がなければ『木天蓼』は皆殺しです」 

「……けどお前、俺たちに家族を殺されたって……」

 青猪の返答に満足した鯉市に首の鍵を外されながら、犀太郎はまるでショックを受けたとでも言うような表情だった。そのしおらしい態度は青猪の心の醜い感情を刺激し、喉につかえた毛玉を吐き出させた。

「貴方がたは人殺しです。僕の大切な人は『木天蓼』に殺された。でも、この旅の初めに貴方は言ったじゃないですか。僕だって陛下の恩恵を受けながら間接的に誰かを虐げて生きてきたじゃないかと。そういう意味で、僕は『木天蓼』と同じく罪人だ」

 首の錠がガシャンと大きな音を立てて外れた。それでも犀太郎はじっと青猪を見たままだ。

「だから『木天蓼』を赦すのか」

「まさか!」

 青猪は破顔した。犀太郎は初めて青猪の笑った顔を見た。

「赦せる訳がない。一生恨みます。十年経った今でも、彼女を喪った瞬間と同じ感情のまま憎いです。それでも……」

 ガシャンガシャンと音を立てて、両手枷が外された。鯉市が遠くに居る監視役の一人に声を掛け、車を借りに行く。それでもなお、犀太郎は青猪から目を離さなかった。

「それでも、再兎を生かすためには再来のウサギを神の遣いだとして庇護する人が居なければ困る。東狐様が動けば『木天蓼』の信徒を再兎奪還の為に使える。僕は決めたんだ。再兎を救えるなら、出来ることはなんだってやる」

 心の澱を吐き出して、青猪の瞳からは涙が溢れていた。理由は分からなかった。十毛未の仇に与してでも再兎を取り戻したいのだ。最早プライドは無かった。プライドの無い生き方は怖くて堪らなかった。

「……理解った」

 犀太郎は土と血で汚れた黒い顔を拭い、まるで挑む様な顔をした。

「これは借りだ。必ずお前のウサギの救出に協力する。今度は嘘じゃねえ。犬遊が何を言おうが『木天蓼』は俺が動かす。……約束する、青猪」

 それだけ言うと、踵を返して鯉市が運んできた土砂運搬用の車に飛び乗った。古ぼけて錆びた車体は唸り声を上げながら、猛スピードで庭を飛び出していった。

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