第55話 そらいろ




 高等教育を受けていない鳰利におりには、再来のウサギ伝説とはただの御伽噺でしかなかった。王太女の公衆伝達を聞いてすら、ウサギという言葉自体何かの隠語だと思っていた。人の形をして実在し、こうして目の前に現れた今でさえ驚きを超えて現実感が沸かない。


「普通の少女に見えるわね。まあ随分、見目は可哀想だけど」


 設計図を広げ、鷲一郎の要望を書き込んでいく。事態を完璧に飲み込んだ訳では無かったが平行線のまま長く居座られるのは得策とは思えなかった。


「その見目を変えてやりゃあ、牡丹を見付けられる奴は居なくなる。ウサギの力が目覚めるまで匿って、もう一方のウサギは『鯨』に居ると言いふらしゃ西街と北街で勝手にドンパチ始める筈でい」


 長い睫毛を伏せ、少しも楽しそうには見えない顔で、鷲一郎は設計図に描かれた牡丹の長い耳に横線を書き込んだ。常人の長さにするには三分の二は切り取らなくてはならない。飛との約束を破るのは心が痛むが、これは牡丹を守るためでもあった。ダチュラを仕込まれ毒姫と化した牡丹を、また利用せんとする者が出るかもしれない。王になりたい者からだけではなく大瑠璃を含めたあらゆる思惑から隠す為に鷲一郎は迦楼羅へ来たのだ。


「耳介が小さい人間に作り足した事はあるけど、切り取る手術はしたことが無いわ。特にあの子の場合、切ってしまうことで聴力や平衡感覚にも支障が出ると思う。整形手術の域を超えてるわよ」


 鳰利が書き込まれたその線を消そうとする。その手を鷲一郎が強く掴んだ。


「分かるわよ。あの耳が何よりもウサギを物語ってる。制空会の話では王宮育ちのウサギでも耳までは隠せなかったんでしょう? それを知ってる人間が大勢居るなら、白髪や赤い瞳は細工されているかもしれないから耳の長さで確認しようと誰もが思うわよね」


「……そこまで理解ってんなら」


「でも虐待よ」


 鳰利が静かに窘めても鷲一郎の手は外れなかった。思い詰めた顔で小さく頭を振る。


「アイツの為なんでい」


 合わさった掌の隙間から汗が垂れる。挑む様な視線のまま


「頼む」


 と頭を下げた。今この時も外で様々な勢力が牡丹を探して彷徨いていることを考えると無責任に追い出す事も出来ない。ここで説得するしかないと、鳰利は溜め息を吐き、繋がれた手を軽く払って立ち上がった。


「あの小さな子供に壮絶な痛みと恐怖を植え付けることになるのよ? それが本当にあの子だけの為なの? 髪の塗料やコンタクトレンズは外せるけど、切り取った身体は決して元には戻らない。あの子の一生を決める権利がアンタにある訳? それとも一生かけて責任を取るつもりなの?」


 鳰利の心の中には手術を終えた亜栗鼠の泣き顔が浮かんでいた。鷲一郎が言い返そうとしたその時、ギィ、と音を立てて扉が開いた。長く待たされて疲れた顔をした牡丹の手を引いた鶉が、困った顔で入室する。


「してあげてください、手術」


「鶉、あっち行ってろ」


 鷲一郎が優しく牽制する。鶉にも牡丹にもこんな会話を聞かれたくなかった。だが鶉はそのままゆっくりと鳰利の前に立ち、またあの泣きそうな顔をして笑った。


「ずっとこのまま生きていくのは、きっと辛いから。この南街で、鷲一郎さんの隣に立つなら、美人でなくちゃ、きっと上手くいかない」


「……アンタみたいに?」


 鳰利が鶉の安物の鬘のくるりと巻いた毛先に視線を置きながら訊くと、


「そう。アタシたちみたいにです」


 と、鶉も答えた。鷲一郎や生まれつき美しい胡蝶屋の女郎花たちにはきっと見抜けない鳰利の武装された外見の奥の瞳を、鶉もまた見ていた。見目に劣等感を抱く者が皆行き着く美的感覚や加工の方法を二人は言葉無しに共感すし合っている。


「……確かにそうね。この街では、醜いことは悪だわ」


 先程の勢いは消え、鳰利は諦めた様に、もう一度設計図に向き合い始めた。


 そこから数時間かけて設計図を完成させ、夜遅くに手術が終わった。ウサギと分からない外見でありながら身体の正常な機能を残せる様、鳰利は知恵を振り絞った。


「考えもしなかったが、確かに隠れ蓑としちゃ悪くねえ」


 術後の牡丹に対面し、鷲一郎は何処か感慨深そうに呟く。完成した新しい牡丹の外見は、鳥種にしか見えなかった。

 

 鳰利の案はこうだ。長い耳を首の幅に合わせて束ねる様に縫い、項に隠す。この方法ならば耳を切らずに済み、束ねる場所は耳穴を邪魔しない為、聴力に問題は出ない。髪には人工毛を編み込む事で長さを出し、首の分厚さを隠す。鳥種らしい明るい色合いであれば元々の白髪と編み込んでも違和感は無かった。

 

 設計図を作っている間、よく理解出来ずにただ座っていた牡丹が唯一反応したのが髪の色についてだった。鷲一郎と鳰利が何色が妥当か話し合うのに割り込み、短く


「そらいろ」


 と答えたのだ。白髪と混ぜる為、濃い青は使えなかったが、代わりに金春色

を使った。大瑠璃と同じ髪の色だ。運命の皮肉を感じたが鷲一郎は黙って牡丹の希望を叶えた。これと同じ色のコンタクトレンズを嵌めれば、元々の顔立ちも相まって美しい鳥種の少女が完成した。


「いつか隠れなくても良くなったら、編み込みを外して抜糸すれば元通りよ。その時は好きな姿で生きられるわ」


 鳰利が完成した牡丹を連れて来た時、鶉はワッと顔を綻ばせた後で、小さく「いいな」と呟いた。鷲一郎はそれを背中で聞きながらいつか邪気寄席で太刀に言われた言葉を思い出していた。

 

 同じ種族でありながら鳥種は醜い見目で産まれた者を差別し貧困に追いやっているのだ。それは今、鶉に金を出してやって整形させることで解決する問題ではなかった。自分が王になるとしたら、南街のこの腐敗した価値観を正していかなくてはならない。自分の様に恵まれた外見の者がそれを先導する難しさを考えると、今から怖気づきそうだった。

 

 切らずに済んだ事で牡丹の痛みは殆ど無く、三人はすぐに迦楼羅を去ることにした。提示された料金よりも随分多くの札束を渡そうとした鷲一郎に、鳰利が目を吊り上げて余計な分を突き返す。


「馬鹿な真似は止めなさい。家を出たならお金は何よりも大事にしなくちゃダメ。恰好つけてる余裕なんか無い筈よ」


「なんでい、お前さんらしくねえ……」


 怒りの理由が分からず驚く鷲一郎の肩を掴み、鳰利は真面目な顔で迫る。


「強かになりなさい、坊や。優しさなんかじゃ世界は変えられないわよ」


 金と銀の華やかな瞳に見つめられ、鷲一郎はまた一つ背負う物が増えるのを感じた。鳰利の協力に報いることを心の中で誓い、静かに頭を下げる。


 迦楼羅を出ると夜は深く人通りは無かった。王権無き今、夜間警察が働いているのか定かではないが、解禁夜以外の夜間の外出や店舗の利用は取り締まりの対象だ。もう隠さなくて大丈夫だと分かっていても、鷲一郎は牡丹にほっかむりをさせて守るように歩く。

 

 だから背後から誰かが尾けてくる気配を感じた時は、身体がビクッと飛び上がるのが分かった。隣の鶉も強張った顔で視線だけをこちらに寄越してくる。牡丹は疲れから足取りも重く、とても走れそうにない。どうする……一度立ち止まってやり過ごすか、迦楼羅に戻るか、と焦りで心臓が口から飛び出そうなのを堪えていると


「……鷲さん」


 と、背後の人物が小さく声をかけてきた。それは待ち望んでいた男のものでは無かったが、懐かしい聞き覚えのある声だった。ギギギ、と音が鳴りそうな程ゆっくりと振り向く。


「鴒次」


 案内役の昼行灯が夜の暗闇に色白の顔を浮かび上がらせて、そこに立っていた。


「……まさかおめぇに居場所を嗅ぎ付けられるとはな。まあ、ウサギを返してくるって嘘を吐いて出たのは謝るが、俺ぁ胡蝶屋に戻るつもりはもう」


「鷲さん」


 バツが悪そうに頭を掻く鷲一郎の言い分を遮る鴒次の声は震えていた。常ならば、やいのやいのと騒ぎ立てる呑気さが鳴りを潜め、臙脂色の案内役着に染みた汗と汚れは何日もの間鷲一郎を探し回った苦労を物語っている。


「……血相変えてどうしたんでい」 


「旦那様が……大瑠璃様が、『木天蓼』に捕らわれました」



***




 鷲一郎が牡丹を連れて出て行ってから一週間が経とうとしていた頃、あまりにも戻らない若旦那の身を案じて鷹助は居ても立ってもいられなくなっていた。世の乱れから客足の落ち込んだ昼営業が終わった後、思わず大瑠璃の部屋へ押し掛ける。


「鷲さんは、昔のこともあり邪気寄席には近づかないと仰ってましたが、そもそも制空会に入っていた様な方が王太女の元へ向かうとはやはり到底思えません。意地になって出て行かれたものの行先が無く帰る機を逃しているとしたらお迎えに上がった方が良いかと」


 鷹助は鷲一郎に付いていかなかったことを今更後悔していた。どうしても大瑠璃に歯向かえなかった自分が言える立場ではないが、過保護な大瑠璃が鷲一郎に護衛を付けないとは露ほども思っていなかったのだ。


「何故お一人で行かせたのですか」


 苛立ちから責める口調になる鷹助を叱責もせず、大瑠璃は静かに窓から外を見ていた。


「店の者と連れ立って行けば、いずれ胡蝶屋ここへ戻されるだろう」


「……どういう意味ですか? 旦那様は、まさか鷲さんを、胡蝶屋から縁切りされるおつもりなんですか?」


「そうじゃない」


 気色ばんで掴みかかる勢いの鷹助を往なし、窓際の籐の椅子からゆっくりと立ち上がる。振り向いた大瑠璃は老いてなお美しい顔に蠱惑的な微笑を浮かべていた。


「胡蝶屋を守るためだ。私はいつでも、そのことだけを考えて生きている」


 階下が騒がしくなったと思ったら、あっという間に大勢の足音の波が部屋の前まで迫ってきた。何事かと慌てて大瑠璃の前に身を挺した鷹助の眼前には小銃を構えた武闘派三十名を従えた『木天蓼』の犬遊が立ちはだかる。


「随分遅かったじゃないか」


 鷹助を手で制し前に出た大瑠璃が不遜に笑った。


「大旦那殿、来た理由は分かっている様だな」


 犬遊は怒りを湛えた瞳で睨みつける。上背の高い獣種が聳え立つ壁になり、鳥種の中ではかなり背の高い鷹助でさえ圧倒される迫力だ。慌てて追いかけてきた胡蝶屋の面々は皆怯え、静まり返って見守るしか無い。


「獅子王を斃した後、ウサギはこちらで貰い受ける約束だ。何処へやった」


「ウサギの預け先はそちらで選んだ人間だろう。例えばだが、貧しい魚種が金目当てに人買いにでも売り飛ばしたのだとしたら、それはそちらの管理不足じゃないのか」


 大瑠璃の白々しい挑発にも全く表情を動かさず、犬遊は後ろに並ぶ男たちに「連れていけ」と低い声で指示した。屈強な男たちに囲まれ大人しく拘束される大瑠璃の姿に、何も知らない従業員たちから悲鳴が上がる。傍らに立つ鷹助も主人の額に銃口を向けられては身動きが出来ない。


「あの愚策を実行して邪気寄席に運んだことまでは掌握済みだ。Pをどうやって懐柔した? 居場所を知ってるなら教えろ。命だけは助けてやるぞ」


 麻縄で縛られ両脇を担がれた大瑠璃に近寄り、犬遊は射殺す様な視線でねめつける。


「企鵝は『木天蓼』の人間だろう。それこそ管理不足だな、革命戦士よ」


「Pは王太女と逃げている。だが毎晩垂れ流されてる公衆伝達ではウサギの一匹を掌握したとは報じられない。太刀が腹上死してたらPがさっさと回収してる筈だ。つまり、作戦は失敗し、太刀は生きている。ウサギは邪気寄席に囚われたか行方知れずかのどちらかだ。どちらにせよアンタは真の王誕生を妨害した。東狐が治める新たな世で、逆賊として裁かれる覚悟は出来てるんだろうな?」


「ふ、逆賊か。気の早いことだ」


 獅子王が斃れようが東狐が王になろうが、大瑠璃にとってそんなことは大した理由にはならない。一番恐ろしいのはウサギ欲しさに鹿錬貴邸を襲撃し、その場の無抵抗な人間までをも掃討した太刀なのだ。社交場の治める多額の税という、獅子王にとっての重要な存在であるというだけで胡蝶屋は首の皮一枚繋がっていた。それが革命で獅子王が崩御したとなれば首輪の無くなった太刀は即座に胡蝶屋を第二の鹿錬貴邸とすることは目に見えていた。あの時、革命決行日に邪気寄席にウサギを存在させることは胡蝶屋を守る上で何よりも必要なことだったのだ。


 そしてそれを遂行したのはPという『木天蓼』の人間だ。つまり太刀がウサギの行方を追って掃討するとしたら、その対象は胡蝶屋から『木天蓼』へ取り替わったのである。


 自分の命一つでそれが成し遂げられるならば安い物だ。そのことに気付きもせず怒りのまま胡蝶屋へ乗り込んできた犬遊に同情すら覚える。 


 廊下に立ち並んだ胡蝶屋の従業員たちが捕縛され銃を突き付けられた大瑠璃の姿を見てざわめき始める。その人混みを掻き分け、案内長の鴒次が大瑠璃の部屋へ飛び込んできた。


「お待ちください! 事情は分かりませんが、質として連れていくのならば私を代わりにお使い下さい!」


 見目の悪い自分を責任ある役職にまで就かせてくれた大瑠璃に恩義を尽くすのに、理由は要らなかった。細い身体を振り絞り、鴒次が大声を上げると、『木天蓼』武闘派の一人がチラリと振り向いて犬遊に伺いを立てた。犬遊は鼻で笑う。


「随分慕われてるじゃないか。流石社交場の大旦那殿だ。だが、だからこそ身代わりを連れていく訳にはいかねえな。罪は、犯した者が贖うものだ」


 顎をしゃくり出ていこうとする『木天蓼』の隙間から視線を寄越し、大瑠璃は鷹助を一瞥した。胡蝶屋を守るということはつまり、自分を贄に鷲一郎を新たな大旦那に据えて存続するということだ。大瑠璃はここまで予期してウサギを太刀へ送ったのだと鷹助は漸く理解した。


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