第54話 南街の星




 鷲一郎は制空会時代以前から王宮を毛嫌いしている。無論ウサギを王太女に献上するつもりなど毛頭無い。そんなことにも気付かぬ鷹助に落胆し、そしてまだ忠臣に期待している自分に気付いて自嘲的に笑った。


 目立たぬ様に真夜中を選んで訪れたのはかつての盟友、制空会総長の夕鶴の元だ。居住地の九割を占める大きな車庫は、普段は車の整備士として働く彼の職場であり、その奥にある四畳半ほどの小上がりが彼のねぐらだ。鷲一郎は勝手知ったる顔をして、薄暗い明かりの灯るアルミドアをノックもせずに開ける。


「邪魔するぜい」


 夕鶴は部屋の真ん中にある卓袱台に突っ伏して寝ていた。部屋中に酒の空き瓶が転がり、籠った匂いが充満している。


「はあ……おめえ、またコレか。変わってねえなぁ」


 鷲一郎はウンザリした顔で寝ている牡丹を背負い直し、部屋を片付け始めた。鷲一郎が総長を務めていた時代から夕鶴は思い通りに行かない事があると自暴自棄になり、浴びるほど酒を呑まないと居られない性質だ。現在は副総長を務めている燕と二人、酔っ払って手が付かなくなった夕鶴をよく介抱したものだ。


「おい、おい起きろ。頼みがある」


「あぁ? だれだ……? 鷲……?」


 酔っ払いの丸まった背中を爪先で小突きながら、牡丹を下ろす場所をようやく確保する。酒の所為で反応の薄い夕鶴は、それでも驚いた様に目を見開いた。


 『木天蓼』本部で待ち伏せしウサギを奪取する策を講じたとき、自分はとんでもない名案を思い付いてしまったと高揚し悦に入っていた。これでやっと、いつになっても消えない元総長の影を超えられると思ったのだ。だが現実は全くの逆で、格下の魚種に手柄を奪われ、あろうことか脅され、指を咥えて眺めていることしか出来なかった。仲間たちはどんな目で自分を見ただろうか。そう考えると悔しさと憎しみで平静を保てず、ここ数日誰とも会わずに酒浸りの生活をしている。 


「あんだよ、テメェの後釜の情けねえ面を、わざわざ嘲笑いにでも来たのか……」

 

 無言で渡されたコップの水を一気に飲み干し、夕鶴は据わった目で吐き捨てた。鷲一郎が寄せられた酒瓶の側で眠る牡丹を一瞥し夕鶴に視線を戻す。夕鶴は暫く状況が把握出来ずにぼんやりとしていたが、やがて腑に落ちてハッとした様に牡丹と鷲一郎を見比べた。


「まさか……ウサギ……なのか? いや違う。こんな格好じゃなかった……」


「あん? どういうことでい?」


 解禁夜の制空会の動きを知らない鷲一郎が首を傾げるのを尻目に、夕鶴は牡丹に這い寄る。染粉の剥がれた白黒の髪も西街の貴族の服も無く、聖堂で見たときよりも遥かに痩せていて顔色が悪い。だがほっかむりから飛び出た耳は確かに奇妙に長く、『鯨』に持って行かれた手柄に似ていた。


魚種サカナのガキと別れた後、俺らは『木天蓼』でウサギを待ち伏せしてた。だが同じく『鯨』が張ってやがった。アイツら卑怯な手を使いやがってウサギを確かに連れ帰った筈だぜ。……それがなんで、お前の所に」


 驚きで酔いが覚め、青褪めた夕鶴が怪訝な顔で呟く。独り言の様なそれに今度は鷲一郎が驚く番だった。


「『鯨』だぁ? もう一匹のウサギは、あの差別撤廃なんかをやってる北街の『鯨』に居んのか?」


 お互い開いた口が塞がらず顔を見合わせていると、ゆっくりと牡丹が薄く目を開き、その赤い瞳を露わにした。細い身体を起こそうとする一挙手一投足をまんじりともせずに見つめ、夕鶴はごくりと生唾を飲み込む。


「あ、お、お前……コイツは、ウサギで、間違いねえんだよな? お前は王に選ばれたってこと、なのか?」


 きょろきょろと不思議そうに部屋を見渡す牡丹から目を離せずにしどろもどろで訊かれた質問に鷲一郎は首を振った。


「いや。こいつは確かにウサギだが、俺ぁ王に選ばれた訳じゃねえ。他所に居たのを胡蝶屋へ連れてきちまった奴が居てよ。詳しい事情は省くが、とにかく今はコイツと隠れられる安全なヤサが要るんでい。どっかに当ては無えか」


 頼む、と頭を下げられたことに夕鶴は混乱した心の終着点を見付けた。いつだって鷲一郎には敵わなかった。何をしても自分より上を行く男に追いつきたくて肩肘張って生きてきた。その男が今こうして頭を下げて頼ってきたのだ。


「……分かった。俺に任せろ」


 ウサギを手に入れたかった理由は、鳥種が三種族の頂点に立つ為だ。その王は鷲一郎以外で想像したことは無い。鷲一郎の右腕。ここが自分の戻りたかった場所だ。


「まだ志はあるんだろ? 鷲」


 夕鶴に訊かれ、少しの逡巡の後、鷲一郎は頷いた。制空会を辞めてからも自分は胡蝶屋若旦那として鳥種の雇用を守り南街を盛り立ててきた。この街を王宮の圧政から解放したい気持ちは今でも変わらない。


「だったらこのウサギを使って王になれ。鳥種の未来を救えるのは、お前しか居ねえ」


 王という言葉に反応して、牡丹の赤い瞳が二人を交互に見た。それから鷲一郎の方を向き、痩せた手で鷲一郎の汗ばんだ拳に静かに触れた。驚いて牡丹を見た鷲一郎の顔は怯えて白んでおり、いつも雄弁な口から振り絞ったのは小さな戸惑いだった。


「……待ってくれ、俺ぁ……」


 二の句が継げず、押し黙る。夕鶴が言う通り南街が王権を取るとしたら社交場の長が適任だ。大瑠璃には任せられないと思うのなら自分がやるしかない。しかし鷲一郎はまだその覚悟が出来ずに居た。何より、自分は北街の魚種や西街の獣種について何の知識も無い。三街を支配したいという野望も無い。ただ市井の暮らしを今よりも良くしていきたいだけなのだ。


 王になるということは、鷲一郎の望みでは無かった。


 牡丹は怖気づいた鷲一郎から手を離し、気怠そうにまた畳に横たわった。鷲一郎が謙遜しているのだと勘違いした夕鶴が見当違いの励ましを必死で送る声が夜の小部屋に虚しく響いた。



***




 制空会には元々女性の構成員が少なく、紹介されたうずらはまだ十六歳だった。


「男と住んでる奴ばっかりでよ、一人暮らしは燕か鶉しか居ねえんだ。昔の女の家に転がり込むのも気ィ遣うだろうし、我慢してくれや」


 牡丹が少女の姿をしていることを考慮して女性の家を宛がってくれる辺り、夕鶴の繊細な性格が伺えた。呼び出されて慌てて飛び出して来た様子の鶉は、自分にとっては伝説のウサギよりももっと重要な伝説の総長を前に緊張で頬を赤らめている。


「初めまして! 鶉といいます! せ、狭い家ですけど、自由に使ってください!」


「おう、悪ぃな。暫く世話になるぜい」


 鷲一郎が頭を下げると慌ててそれを制し、首をぶんぶんと横に振る。


「ゆっ……夢みたいです。あの鷲一郎さんが家に来るなんて」


 鶉は働き先を言わなかったが朝早くから夜遅くまで家には居らず、顔を合わせることはなかった。偶の休みは鷲一郎が目覚める前に髪のセットや濃い化粧が済んでおり、絶対に先に休まない。鷲一郎はその美意識に感心すらした。


 鶉の家は職場が借り上げた長屋の一室で、本当に狭く、夕鶴の工場の小上がりに毛が生えた様なものだった。夜は銘々隙間を見付けて雑魚寝をしたが、昼間は牡丹に布団を明け渡し、ひたすら静養させた。何週間かそうして静かに過ごしている内に、牡丹は日中起きていられるまで回復し、言葉も少しずつ戻った。だが胡蝶屋に来た夜の様な拙い言葉に混じって、時折別人の様な口調で何か早口に呟くことが増えた。それは寝言や寝起きの半覚醒の時に出ることが多く、牡丹自身は覚えていなかった。


 鷲一郎は長い一人の時間、夕鶴に言われたことをずっと考えていた。牡丹を連れて胡蝶屋を離れたのは、単純にダチュラという劇薬を仕込まれた牡丹の身体が憐れでならなかったからだ。だが何処へ連れていくかまでは考えていなかった。王になるということは呪いを受けるということだと大瑠璃は言っていたが、邪気寄席の太刀に擦り付けようと思う程にその呪いは恐ろしい物なのだろうか。それを自分が引き受けるのは御免だと思う一方で、誰かに押し付けるのはもっと御免だった。


『鯨』に居るもう一匹のウサギは、王宮で飼っていたのならば恐らく悪のウサギだ。そちらで偽王が立てば魚種の天下となるだろう。獣種と魚種が入れ替わるだけの世で、鳥種はまた厳しい徴税と闘うことになる。それが百年続く。とても耐えられない。考えは堂々巡りで結論は出なかった。それでも、いつまでも牡丹の存在を隠し通せはしないと理解していた。


 鶉は鷲一郎に一切家事をやらせなかったので、休みの日は牡丹を鶉に任せ、市場で値の張る食材を買ってきて振舞った。


「夢の様です」


 と、鶉はよく口にした。その日は鷲一郎が作った簡単な鍋料理を囲んでいて、湯気で温まった部屋の中、頬を赤くして噛みしめる様に呟く。あまりにも些細なことでそう言うので、鷲一郎は可笑しくなった。


「おめぇさんは本当に感激屋だな。小せぇ事で大喜びすんのは生まれつきの性格かい」


 黙ってゆっくりと皿の中のキノコや肉を咀嚼する牡丹が見上げると、鶉はへへ、と情けない顔で笑った。


「小さくないです。全然。だって、鷲一郎さんが作った料理を食べるなんて……」


「世話になってんのは俺の方でい。当然だろ。それに今は制空会総長でも胡蝶屋若旦那でも無えんだ。風来坊の作ったメシなんざ有難いかねえ」


 肩を竦めてお道化てみせた鷲一郎の笑顔に見惚れた後、鶉は静かに箸を置いて泣き出しそうな顔をした。


「……アタシ、小さい頃から制空会の走りを見てました。先頭で風みたいに走っていく鷲一郎さんは、本当に綺麗で格好良かった。何にも持ってないアタシにとっては……光だったんです」


 ふうふう、と息を吹きかけながら皿の中の物を平らげていく牡丹を今度は鶉が見つめ、垂れた耳に、ちょん、と触れる。醜い形を慈しむ様な仕草が鷲一郎には不思議だった。


「光?」


「はい。肩書なんて、どうだって良いんです。あのとき星より遠く思えた憧れの人に、今こうして会えただけで、人生の運ぜんぶ使い果たしちゃったと思うくらい、夢みたいな事なんです」


 鶉はニコッと笑って恥ずかしそうに俯いた。そして静かに後頭部を掻いた。


「コレ、鬘なんです」


 鷲一郎はすぐには何のことか分からなかった。鶉が泣きそうな顔のまま今度は牡丹の小さな背に抱き着く様にして顔を隠した。牡丹は頓着せずにまだ肉を食んでいる。


「誰にも見せた事ないけど、アタシ顔も髪色も生まれつき不細工で、これ全部作り物なんです。化粧を全部落として見せられたら格好良いんでしょうけど、それが出来ないくらい、不細工なんです」


「不細工っておめえ……」


 ズッと洟を啜りながら、鶉が顔を上げる。目元を擦らない様に自分の袖を小さく当てて涙を吸わせる。


「でも、貴方が居たから。この街には鷲一郎さんが居たから。だからアタシみたいな人間でも夢を見られました。いつか鳥種が王権を掴む日を夢見て、制空会のみんなが闇の中でも走っていられるのは、鷲一郎さんっていう光が、希望はあるんだと示し続けてくれているからです」


 湯気の向こうで鶉が笑っている。泣いたせいで化粧が崩れ、目の周りが黒くなり鼻は赤い。その言葉の重みが腹に溜まっていくのを感じながら、同時に鷲一郎の心は固まっていった。


「この街のみんなが鷲一郎さんに憧れています。いつか自分も大店に勤めて金持ちになりたい、あんな風に美しくなりたいと誰もが目標にして日々生きています。貴方は、南街の星なんです」


 目の前の人間を救う。鷲一郎の矜持だ。鶉一人の為だけにでも、自分は王になる価値があると思った。三街の民全てを幸せに出来るかどうかは正直自信が無い。それでもその時、自分の手の届く範囲の人間を裏切る理由には足りないと思ったのだ。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る