第53話 迦楼羅




 その店は大通りから大分離れた生活区の近くにひっそりと建っている。かといって闇商売ではない。各街の金持ち相手に大繁盛している南街の大店・迦楼羅カルラは、最先端の設備と優秀な技術者の揃う美容整形専門店だ。西街の上級貴族にも人気で、亜栗鼠も話には聞いたことがあった。獣種の人間は黒髪を高貴な者の証と考えているため染髪をすることは無いが、年老いて弛んだ肌や身体のラインを美しく整えてもらうらしい。


「うちは会員制ですので……。申し訳ありませんがご紹介の無い方はお引き取りください」


 鹿錬貴邸の使用人服に酒場で宛てがわれたエプロンを身に着け、開店前に店の戸を叩いた亜栗鼠を、受付係は上から下までジロジロと無遠慮に嘗め回し、迷惑そうに告げた。亜栗鼠はあまり使いたくない手だったが自分は王宮関係者で、ある上級貴族から大切な言伝てを預かって来たという作り話を伝えた。俄かには信じて貰えないかもしれないと祈るような気持ちでいたが、受付係は想像よりもずっと慌てて態度を変え、すぐに奥へ通してくれた。


 店主は、鳰利におりという名前の初老の鳥種だった。男にも女にも見える中性的な外見を持ち、一本一本が違う色なのではないかと思わせるほど複雑な組み合わせで染められた長い髪は光に当たると螺鈿色に輝く。目には左右それぞれ違う色のコンタクトレンズが嵌めてあり、右は銀で左は金だった。


「とても王宮の人間には見えないけど、まあ別に良いわ」


 鳰利は受付係とは違い、亜栗鼠の全身を眺める様なことはしなかった。しっかりと目を見て静かに言葉を紡ぐ。


「ウチではね、お金さえあればどんな人間でも自分の望む姿に変われるわ。あなたは? 何がお望み?」


 亜栗鼠は襟元から手を突っ込み下着に縫い付けてある自分の全財産を取り出した。王宮を出るときに持参した大金と鹿錬貴邸での給金、僅かだが酒場で稼いだ小銭まで合わせた。


「これで、……これで、私の身体を、魚種に変えてください」


「魚種に?」


「……はい」


 心を決めた筈なのに、いざその時になると断ってほしい気持ちで一杯になる。弱い自分が言葉を違えぬ様に震える唇を噛みしめ、それでも耐え切れずに視線を床に落とした。鳰利は暫く黙って考えていたが、やがて小さく頷き亜栗鼠の出した金の勘定を始めた。


「安心しなさい。あなたの身の上は一切記録に残らない。手術はアタシがやるわ。誰にも他言しない。それでいい?」

 

 札束を弾きながら、鳰利は亜栗鼠の返事を待ってくれた。亜栗鼠は随分長い間を空けて、身体の震えが収まるまで黙って立っていた。


「……大丈夫。とびきり美人の魚種にするから」


 金を揃えて帳面に書き留めた後、鳰利は亜栗鼠の肩を年相応に皺のある手で軽く撫でた。それから指で目元を掬われて、亜栗鼠は自分が怯えて泣いていることに漸く気付いた。


「お金は充分よ。すぐに始めるから、何か要望があれば教えて」


「要望……。一つだけ、あります」


 亜栗鼠は身体の何処かに暗号を刻んで貰うことに決めた。死ぬまで分からない場所にその秘密を閉じ込めて、いつか誰かに見つけて貰える一縷の望みを託した。


「この場所じゃ、誰にも気づかれないわよ?」


 鳰利が設計図の胸部をペンで指しながら困った様に首を傾げた。金持ち相手に阿漕な商売をしているのかと勝手に想像していたが、客の理想の身体の為に細かい所まで話し合って決める丁寧な接客に亜栗鼠の心は随分救われていた。


「いいんです。でもいつか、死んで土に還った後で、誰かに暴いて貰えるかもしれないから」


 鳰利は、二十代の若い獣種の女が自分の死後に何かを残そうとしている事に衝撃を受けていた。王宮の人間だということが真実かは分からないが払った金額を鑑みれば貴族であることは間違いない。王都で貴族として何不自由無い生活をしてきただろう若い娘が何故被差別種族に身を落とし、内臓に秘密を隠さなければならないほどの危険を冒すのか。


 迦楼羅では、どんな客の事情にも首を突っ込まないのが決まりだ。口出しせず、受け取った金の分だけ成りたい姿に変えてやる。鳰利が作った決め事だ。それでも、震えながら自分の身体に入れるメスの場所を指定してくる亜栗鼠が不憫で、同情せずには居られなかった。


「本当に、誰にも伝えなくて、いいのね?」


 説得の意思を込めて、最後に確認する。その日入っていた予約は全て他の技師に任せ、鳰利は亜栗鼠の為にたっぷりと時間を使ってくれた。亜栗鼠はそのことに感謝しながら、最後は笑顔で大きく頷くことが出来た。


「鳰利さん、私の本当の顔を、どうか覚えていてください」


 もう鏡を見ても自分には会えなくなるから。鳰利は立ち上がり、優しく抱きしめてくれた。


 気休め程度の部分麻酔を打ちながら、手術は深夜まで及んだ。耳先、口角、項、そして胸。壮絶な痛みに何度も嘔吐し、意識を飛ばしながらも、亜栗鼠の心には馬綾が居た。馬綾を太刀の毒牙から守らなくてはならない。たとえもう二度と会えなくなるとしても、気付かれなくなるとしても、この役目は自分に与えられた使命だと思えば耐えられた。


 それでも、術後一週間ほどして初めて包帯を取るとき、亜栗鼠は馬綾ではなく、神に祈っていた。鏡を見るのが恐ろしく目を開けられずにいると、鏡との間に鳰利が来て、短く切って脱色した髪と同じ色のコンタクトレンズを入れてくれた。


「大丈夫、とっても美しいわよ」


 鳰利が脇に退くと、初めて見る知らない人間と目が合った。真っ赤に充血した瞳に涙を湛え、震える唇の端は横に広く、絶望で青ざめている。


「ごめんなさい……お姉ちゃん……」


 こうするしかなかったの。亜栗鼠は、亜栗鼠の神様に何度も何度も謝罪した。神は十毛未の顔をして、何も言わずに静かに微笑んでいた。



***




 王政崩壊から一ヶ月、迦楼羅の客は急減していた。富裕層の殆どは西街の貴族もしくは獅子王政権の元で甘い汁を吸って成り上がった者たちだ。同調圧力で喪に服していることは勿論、先行きの不安から服飾や美容にかかる金は削られやすい。一時的なことだとは思いたかったが、次の王を決めるウサギとやらが見つからない件については毎晩流れる公衆伝達で鳰利も知っている。仕事以前に街の治安が悪くなっていくことが不安だった。


「あの、鳰利さん、新規のご予約が一件入ったのですが……」


 部屋に入ってきた受付係が浮かない顔で報告してきたのを見て、鳰利は眉を寄せた。


「めでたいことじゃない。どうしたって言うの?」


「それが……ご紹介ではない方で」


「まあ、今は選り好み出来る立場じゃないわ。今までも例外はあったでしょう」


 軽くあしらわれて受付係が更に困った顔をする。


「いえ、そうなんですが……。とても注文の多い方で、その日は貸し切りにして誰も店に入れないでほしいそうで。それがお客様だけではなく私たち受付や他の技師にも立ち入りは遠慮してほしいと」


 怪訝な顔で暫く沈黙した後、鳰利の頭に三年前の亜栗鼠の顔が浮かんだ。


「予約を取りに来た方、女性だった?」


「はい。金髪の女性でした」


 あの子が自分を頼ってきてくれたのかもしれないと鳰利は慌てて部屋を飛び出した。まだ店の近くに居るかもしれない。あれからずっと、鳰利は亜栗鼠のことを気に病んでいた。


「ねえ、待って!」


 迦楼羅の華やかな薔薇の彫刻が施された扉を勢いよく開け、思わず叫ぶ。大きな音に驚いて、若い金髪の女が遠くで振り向く。鳰利が駆け寄ろうとすると、それよりも早く女は踵を返し、慌てて走り去ってしまった。


 予約当日、迦楼羅には三人の客が訪れた。その金髪の女が人違いだったということは、すぐに判った。まず鳥種であり、亜栗鼠よりもずっと若く、何よりその金髪は人工毛で出来た安価な鬘だった。


「……なによ、胡蝶屋の坊やじゃない」



 指示通り人払いした店で一人、鳰利は肩透かしを食っていた。現れた三人の内の一人は同じ街で商売をしている顔見知りだったからだ。胡蝶屋の女郎花は迦楼羅を利用する者も多い。だが何より社交場として商売人を纏めている大店の、誰もが羨む美貌の持ち主であるこの若旦那を南街で知らない者は居ない。


「坊やはよしてくれ、俺ぁもう三十路を超えてんだぞ」


 鷲一郎は珍しく胡蝶屋の紋入り羽織を着ていなかった。左脇に過日の金髪の女、そして右脇に小さな少女を従えている。少女は美しい柿色で染められた正絹の首巻でほっかむりをしており、髪はおろか顔も口元しか見えない。紺地に朝顔の模様が入った季節外れの浴衣を着ており、その上から男物の大きすぎる羽織も着せられていた。


「お前さんの腕を見込んで、急ぎで頼みてえ施術があるんでい。貸切って悪ぃが、ちょいとばかし力を貸してくんねえかい」


「……揉め事は御免よ」


「大丈夫でい、親父は俺が迦楼羅に来てることは知らねえ」


 それが一番の揉め事の種なんでしょうがと頭を痛めながら、鳰利は鷲一郎の話を取り敢えず聞くことにした。旧知の店の予約をわざわざ他人に取らせ、ここまで慎重に訪ねてくるのには何かとてつもなく大きな理由があるのだろう。そしてこの店に鷲一郎が来た時点で、既にその大きな何かには巻き込まれているのだ。ならばせめて交渉の場で自分に掛かる火の粉を減らしておきたい。渋々頷いた鳰利を見るなり鷲一郎は金髪の女に声を掛ける。


「鶉、牡丹を頼んだぜい」


「は、はいっ!」


 鶉と呼ばれた鬘の女は濃い化粧を施した顔で何度も頷いた。それから傍らの少女の手を取り愛想笑いをしたが、少女はぼんやりとして無反応だった。


 奥の部屋に入るなり、鳰利は鷲一郎を問い詰めた。


「大瑠璃さんに秘密で来たってことは、これは胡蝶屋若旦那としてじゃなく、アンタの個人的なお願いなのかしら?」


「ああ。金なら持ってきた。なるべく早く頼む」


「どっちの子?」


「ガキの方でい」


 こういう頼まれ事は初めてでは無かった。胡蝶屋の女郎花や男郎花の中には客と親密になり過ぎて危険な目に遭う者が稀に居て、安全に避難する為に髪色や顔を変えることがある。だが子供の施術をした経験は長くこの商売を続けている鳰利にも無い。


「一体どういう事情なのか知らないけど、あんな十かそこらの子供に何をしようって言うの? アンタの隠し子か何か?」


 鳰利が呆れた様に肩を竦め、ジロリと鷲一郎を睨む。最近は真面目に店を回している様だが制空会に入って暴れ回っていた頃から知っている身としては下卑た邪推もしてしまう。だが鷲一郎は、軽口に一切笑みを零さなかった。


「迦楼羅は客の事情を探らねえ店だろ」


「アンタは客じゃない」


 鳰利は正面からキッパリと言い放った。


「アンタはこの街の長になる人間よ。この街の未来を担う人間の人生に大きく関わる事なら、同じ街で商売をしている者としてきちんと話して貰わなくちゃ困るわ」


 暫く睨み合いが続いた。鷲一郎は固い表情を崩さず何かを思案している様子だったが、やがて観念して溜め息を吐くと、いつもの柔和な商売人の顔で笑った。


「……わかった、わかった。あんまり多くを巻き込みたくねえと思ったんだが、そんじゃまあ、腹括って聞いてくれ」


 解禁夜が明けた後、鷲一郎はすぐに牡丹を連れて胡蝶屋を出ようとした。しかし表門には帰る客と見送りの従業員で溢れ返り、裏口では事情を知る者が集まって飛を見送っている。牡丹もまだぐったりとしており意識が無かった。


 そこで、数日後に大瑠璃の言いつけ通り牡丹を元居た場所へ戻すという体で堂々と出ることにした。


「邪気寄席へ行くのは危険です。ウサギを逃がした飛は因縁のあるお椋の息子です。何より鷲さん自身、昔のこともあるでしょう。ここは俺に任せて下さい」


 鷹助が部屋の前に立ち塞がり、一歩も出さないという顔で迫る。牡丹はお椋や女中たちが交代で看病し、ようやく意識が戻ったが、何時間か毎に寝てしまう。


「馬鹿正直に邪気寄席に行く必要は無えだろ。親父が言いてえのはなあ、結局胡蝶屋にウサギが居てもらっちゃ迷惑ってことだけでい。出ていきゃ何処だって構やしねえんだ」


「……そうは言っても、じゃあ何処に連れていくつもりなんですか。王太女が流している公衆伝達の言いなりになって、みすみす獣種にくれてやるんですか?」


「おめえはどっちの味方でい」


 大瑠璃に賛同し二番手の街に甘んじようとしていた癖に、と鷲一郎は呆れた声を出す。


「ウサギの呪いは受けたく無え。けど貧しい街にもなりたく無え、だろ? 強いモンに巻かれて割りに合わねえ税金を納めて、そこそこの幸せで平和に暮らす。魚種ほど酷くも獣種ほど豊かでも無え生活を未来永劫続けていきてえんだろ、おめえは」


「それは……」


 鷲一郎に少々恨みがましい言い回しで詰られ、鷹助は怯んだ。自分が世の安寧や発展よりも胡蝶屋存続を優先したことに変わりは無い。王宮への不満は当然あるが、では他の何処かにウサギを預けるとなれば胡蝶屋がウサギ争奪戦の渦中へ巻き込まれるのは必至だ。良い代替案は無い。


「ですが獅子王から預かっていたウサギを隠匿していたとあれば獅子王の娘が許さないでしょう」


「公爵家の係累はお取り潰しかもしれねえが、胡蝶屋はウサギを献上するんでい。王太女も無下には出来ねえだろ」


 尚も食い下がる鷹助を尤もらしい言葉で丸め込むと、鷲一郎はその夜さっさと胡蝶屋を去った。大瑠璃には鷹助から伝わる筈なので顔も合わさなかった。胡蝶屋の跡を継ぐという約束を反故にすることにはなるが、今やお椋の女郎花としての地位は盤石だ。今更自分が去った所で問題は無い。


 小さな女の子と連れ立って歩いた経験など無い。時折力尽きて寝てしまう牡丹を、飛を真似て背負いながら夜の道を歩いた。

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