第52話 遺言




「そうですね、聞かなくちゃ……分からないことは」


 鯉市りいちは踵を向け、壊れたスピーカーの様にもう一度呟いて地下室の扉を閉じた。部屋中の牢から聞こえる様々な雑音を避ける様にもう息するのをやめた亜海鼠あこの牢へ入る。

 亜海鼠が捕まってから初めての二人きりの時間だ。何度も人を嬲り殺しにしているからか、この牢は特に臭う。亜海鼠とはこんな汚い部屋ではなく、もっと素敵な場所でデートがしたかった。

 ふと思い返してみると、亜海鼠は遠出をしたがらない女だった。間者だったからだろうか。それとも自分のことを愛していなかったからだろうか。分からないことは聞いてみなくては。

「亜海鼠……」

 項垂れた肢体に寄る。饐えた臭いはここから発していた。鯉市は悲しかった。自分がやっと手に入れた唯一の宝物が、破壊されて、潰えようとしていた。

「君は、組織の命令で邪気寄席ざけよせに潜入した間者かもしれないけど、でも僕とのことは嘘じゃなかったんだろ?」

 美しかった髪の毛は所々禿げ落ちて血の塊がこびり付いている。染粉ではなく脱色を繰り返したらしき毛髪は、茶金色のままだ。その頭を撫でてやると、見えない顔が微かに微笑んだ気がした。

「僕のことを愛してしまったから、逃げずに捕まって戻ってきたんだろ?」

 カサついて水分の無い唇が、うん。と甘えた声を出す。

「僕のプロポーズを受けてくれた時、確かに僕を愛してたよな?」

 亜海鼠はいつもの調子で、当たり前でしょ? と唇を尖らせた。馬鹿ね、言わせないでよ。悪戯っぽく上目遣いで照れる。嘘のはずがない。真実だった。やっと手に入れた、たった一つの、僕だけの、真実の愛だったのに。どこで間違った――

「亜海鼠、僕を置いていかないでくれ」

 髪から頬へ、撫でる手を下ろしながら、ゆっくりと冷たさに気付いていく。それでも鯉市は亜海鼠を撫で続けた。暫くそうした後、項へ手を回し、造り物の鱗を丁寧に引き抜いていく。

 一枚一枚剝ぐ毎に、亜海鼠の身体から汚物が消え去っていく様で、自分の身体にも同じものが付いているにも関わらず、不思議と痛そうには感じなかった。本来の姿かたちに戻してやりたかった。

 亜海鼠が間者だとして、何を成そうとしていたのか、鯉市には最後まで解らなかった。先ほどの『木天蓼マタタビ』は仲間ではないと言ったが、もう一方の貴族はどうだろう。太刀と『木天蓼』が言い争っている時、あの貴族が牢に近づいて亜海鼠を見つめていた。太刀の陰になってよく見えなかったが、亜海鼠が微かに動いた様にも見えた。もしあの二人が通じているとするならば、亜海鼠は王宮の人間なのだろうか。

 王都西街に貴族として暮らす獣種が、魚種に化けてまで遂行する重大な任務となれば、それは当然王権に関わること、つまりウサギを確保するために邪気寄席で何年も待ち構えていたということだ。

 何故、そんな博打の様なことが出来た?

 太刀がずっと以前から密かにウサギを探していたことを知るものは少ない。自分を含め、恐ろしい太刀の報復を知っている邪気寄席の関係者からそれが外部に漏れることは考えにくい。ましてや、そのウサギの使い道・・・を知っている者は僅かだ。


 鱗を全部抜き終わると、雑草を毟り終わった地面の様に首の後ろは穴だらけになった。そこから浸出液が染み出し、微かに生の名残を見せる。そのことすら嬉しかった。

 切り取った耳先はどうしてやることも出来ないが、裂いた口角は後で縫ってやるつもりだ。閉じられた瞼の奥の黒い瞳を思い出しながら、吊るされた首の錠も外してやろうと持ち上げて遊びを作る。すると、亜海鼠の脇に小さな縫い目が出現した。

 それは小さな皺に見えた。

 だがよく確認すると両脇の同じ位置にあり、豊胸手術の痕だとすぐに解った。借金の形に売られてくる貧相な娘たちは客を取る段になって乳房だけが立派になっていることがよくある。北街の雑な縫合とは比べ物にならないが位置は同じだ。

「苦しかっただろ。これももう、取ろうな」

 鯉市は懐からナイフを取り出し躊躇なく脇から肋まで下着ごと切り裂いた。この作業は何度も経験がある。邪気寄席ではシリコンバッグを死んだ女から取り出して新しい売り物に再利用するのだが、太刀の私邸に飼われている性奴隷には鯉市がその作業を担っていた。

 それは太刀が自分の飼う女達に対外的な美しさを求める反面、母性の象徴である裸の乳房を直視出来ない矛盾を抱えている為だ。

 剝き出しになった乳房の横から勢い無く流れ出す血液に指を突っ込み慣れた手つきで袋を引き出す。重く沈む袋を両脇から取り出し床に投げ捨てる間、鯉市は汗一つ掻かず機械的に動いた。

 亜海鼠を元の姿に戻してやりたい一心だったが、終わってみれば亜海鼠の身体は側部がぱっくりと開き凄まじい血の匂いで辺りを埋め尽くす凄惨な姿に成り果てていた。

 口角のついでにここも縫合してやろうと頭の片隅で手順を考えながら、べちゃりとコンクリート床に張り付いたシリコンバッグを拾おうと屈む。これは再利用される前にせめて何処かに捨てたかった。完治まで程遠い鼓膜が、下を向くと酷く痛む。思わず肩を竦めると、血塗れの袋の一つに、何か黒い物が浮いて見えた。

「何だ、これ」

 未だかつて取り出したシリコンバッグに文字が書いてあることなど一度も無かった。しかしその小さな黒い物は紛れもなく文字だった。文字が、袋の中のシリコンに浮かんでいるのだ。

「……d u x / W Q / G R  N」

 辛うじてそう読めた。意味は見当も付かない。けれどもこれが亜海鼠の残した最後の秘密だということは分かる。

 鯉市はわなわなと震えながら床に膝をつき、その血塗れの袋を抱きしめて頬ずりした。もう枯れたと思っていた心に再び感情の濁流が押し寄せて彼の頬に滂沱の涙となって溢れ出た。

「……分かったよ、亜海鼠、僕が叶える。君の遺志は、僕が継ぐ」

 奇形動物たちが上げる鳴き声に紛れ、鯉市は啜り泣いた。亜海鼠に裏切られた時よりも、亡くした時よりも、自分の心が壊れていくのが分かる。

 見上げると自分が滅茶苦茶に切り裂いた亜海鼠の身体が急に知らない化け物の様に見えた。鯉市にはこのシリコンバッグが亜海鼠の本体であり魂であり心臓である様に思えてならなかった。

 それだけを大事に抱えてふらふらと牢を出ていく。口角や脇を縫うことなど最早頭になかった。血塗れの汚れた形のまま、鯉市はその場を立ち去った。



***



 三年前、鹿錬貴カネキ邸から逃げ出した亜栗鼠は、街境にある南街の集落へ避難していた。

 本音ではもうウサギの捜索を辞めてすぐにでも王宮へ戻りたかった。しかし何の成果も無く馬綾の元へ帰ることは出来ない。それに太刀に一瞬でも顔を見られている以上、自分が話を立ち聞きしていたことで邪気寄席の人間に追跡されないとも限らない。

 街境の例に漏れずこの集落も貧しい者や破落戸の溜まり場で、不特定多数の獣種と鳥種が入り混じって行き来している。ほとぼりが冷めるまで身を潜めるには丁度良かった。

 適当な酒場で働き口を見つけ、取り敢えずの日銭を稼いで暮らしていたある日、亜栗鼠は一人の客と出会った。その客は見るからに貧しい身なりをした鳥種の男だったが羽振り良く高い酒を飲み続け、強かに酔っていた。

「お兄さん、もうその辺にしておいたら?」

 亜栗鼠が水を注いでやると、男は一気にグラスを空け「もう一杯」と、また酒を注文した。

「オレはもう少しで大金持ちになれるトコだったんだ。呑まなきゃやってらんねえ」

 頭をぐらぐらさせながら亜栗鼠を見る目は据わっている。酔っぱらいの相手などしたことのなかった貴族の亜栗鼠は面食らいながらも平民らしく相槌を打ってやる。

「何処の誰がアンタの邪魔をしたの?」

「きったねえナリした獣種の乞食だ! 母ちゃんの雇い主の使いだとか言ってオレらの飼ってたガキを二束三文で買い取りやがった。けど北街の邪気寄席に持ってきゃもっと高く売れたらしいんだよ。ちくしょう、そんな価値のあるガキだって知らなくてよお」

 男は土色の髪を搔きむしりながら心底悔しそうにテーブルを叩く。

「あんた知ってるか? 北街の太刀って男。人買いの元締めで、売り物にならねえ様な不細工を高値で買い取るらしいんだよ」

 太刀、という言葉にドキッとして亜栗鼠は飛び上がりそうになった。急いでグラスにまたなみなみと酒を注ぎ、強い酒の匂いと饐えた体臭も構わず顔を近く寄せる。

「その、太刀って人は、なんでわざわざ不細工を買うの?」

「わかんねえ。けど獣種に安く売っちまってから仕事で北街の近くに行ったとき聞いたんだよ。太刀は間の子とか奇形とかを自分用の奴隷にすんのが好きな変態野郎で、それよりもっと何の種族かわかんねえほど変わった見た目のヤツを探してるって」

「ふぅん。アンタの飼ってた奴隷ってそんなに変わった外見だったの?」

 男は深く頷いて、またグラスを煽る。顔色が赤黒く、今にも意識を飛ばしそうだ。

「そりゃもう、とびっきりだ。髪が白くて目ん玉が赤くて、耳なんか長くて垂れ下がっててよ。痩せっぽちで今にも死にそうなガキだった」

 ガヤガヤと騒がしい酒場でそこだけすっぽりと刳り抜かれた様に亜栗鼠の耳に男の言葉の一言一句がハッキリと届く。

「ちくしょう、死にかけの不細工なガキだけど女だから邪気寄席で買い取ってもらえるかもしれねえって話までは出てたんだよ。けど、その乞食から渡された額が想像より多かったから……売っちまったんだ。クソ、きっとあの野郎の主は太刀の噂を知ってやがったんだ。今頃オレたちから買い取った額の何十倍で太刀に売りつけてるに決まってる。あんなガキ他に売るとこなんか無えもんなあ! クソクソクソ! 最初から邪気寄席に持ってきゃよかった!」

 一気に叫ぶと男はついにテーブルに突っ伏して寝てしまった。

 亜栗鼠は収まらない動悸を堪えながら宿命の様なものを感じていた。こんな場末の、貴族時代には来たことも無い場所で、一瞬でも再来のウサギを所持していた人間と巡り合うことが出来たのだ。

 一年以上費やした鹿錬貴邸での調査では掴めなかったウサギの行方がようやく進展し、震えるほどの興奮で胸が一杯だった。この手掛かりを辿り、やっと潜伏生活を終えられるのだという喜びで満たされた。

 だが無視できない疑問がある。

 太刀が鹿錬貴邸を襲撃したことを鑑みれば駱仁らくとの元にウサギが居たことまでは揺るがない事実と見ていいだろう。その駱仁が何処にウサギを預けていたのかという疑問だ。

 西街の上級貴族は皆、獅子王陛下に忠実だ。甘い汁を存分に吸い何不自由ない暮らしをさせてもらっている。歯向かう理由が無いのだ。とすれば陛下から極秘に預けられたウサギを匿う協力者など居ないだろう。かといって事の重大さを理解出来ない(再来のウサギを知らない)平民や貧民に預けることは出来ない。つまり獣種に預け先は無い筈だ。

 だからといって獅子王からの預かり物を他種族の支配する街に渡せば反逆罪だ。また太刀から隠していたとすれば、その存在を知られている施設の子供たちに紛れさせることも不可能だ。

 駱仁が何処にウサギを隠していたのかは判然としない。

 分かっていることは、どこからかウサギは逃げ出し、あるいは攫われ、この鳥種の男の元へ渡り、更に乞食らしい獣種に渡ったということだけだ。この乞食の主が上級貴族で、ウサギであることに気付き、すぐに獅子王陛下へ献上してくれれば問題ない。

 だが男の言う通りウサギの価値も分からない人間で、一番高く買い取ってくれる邪気寄席に売り渡す可能性の方が遥かに高かった。

 命辛々逃げ果せたあの恐ろしい太刀の元へもう一度行くには途方もない勇気が要る。それでも鹿錬貴公爵の人体実験を太刀が継いでいたとしたら、そして冗談でなく太刀がウサギを使って王を傀儡化しようと考えているのだとしたら、どうしても行かねばならない。

 次の王は馬綾まあやであるからだ。

 たとえ太刀が王になる気が無いとしても、そのウサギを渡してはならない。馬綾の世を汚させてはならなかった。

 一晩、悩むには短過ぎる夜が明ける頃、亜栗鼠は南街で整形手術を受けることを決心した。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る