第51話 愛



(五)


 逃げた獣種の背中を縋りつく様な目で見送る鯉市の姿を見ながら、今度清純そうな女でも宛がってやろうと太刀は考えていた。太刀の気に入りの美女たちを侍らせてやろうが、取り巻きたちと共に店に連れて行ってやろうが、以前から鯉市は居心地悪そうにするだけで全く女遊びをしなかった。随分奥手で心配していたが、蓋を開けてみれば単純な話で、鯉市の好みは、もっと純朴で健気で素人っぽい娘だったのだ。だから亜海鼠の様な演技の上手い危険な女に付け込まれた。

可哀想な奴だ、と憐れむ真似も、太刀は自分自身にしてみせる。次はもっと気を付けてやらねば、と。

こういうことを考えている時、この世の誰とも心通わせていない自分にも、寄る辺が生まれた様に感じる。広い海にただ一人で浮かぶ孤独に気が狂いそうな日も、鯉市の世話を焼いたり頼りにされたりすることでそれは一時的に解消する。

鯉市は太刀の一番の愛玩動物だ。

どんなに美しい異種の女たちにも、どんなに醜い奇形動物たちにも満たせなかった太刀の人造人間としての劣等感を、『家族』という名前で満たす。

「……行かせてしまって良かったのですか」

 ようやくこちらを向いた鯉市は朱色の癖毛を汗で張り付け、涙ぐんでいる。

「王宮を騙る『木天蓼』の人間とは滑稽な奴らだったが、儂は忙しい。暫く庭で飼ってる内にまた何か吐くだろう」

 庭というのは、スラム近くにある北街の採石場のことだ。太刀に歯向かった者や用済みになった者は殺されるかこの庭で奴隷として労働力となる。労働といっても大した鉱物は取れないが、稀に有毒ガスが噴き出すことがあり、太刀は、飼い殺しにしているお気に入りたちが泡を吹いて痙攣したと聞くと、駆け付けて今際の際を眺めるのが好きだ。

「儂の所にウサギが来たことを知っているということは、亜海鼠の仲間かと思ったが、違ったな。つまり『木天蓼』は邪気寄席の奴隷共にウサギを紛れ込ませた張本人で、亜海鼠はそれとは別の組織の人間ということだ。『木天蓼』の若造は儂が王に選ばれたとの報せが届かず探りを入れに来たのだろうが、何故か本物の貴族と一緒だった。あれは恐らく王宮の人間だろう。何故かは分からん。分からんことが多すぎるなあ」

 太刀はつまらなそうに小首を傾げ鼻歌でも歌いだしそうな心持ちで歩き出し、そのまま隣の部屋の扉を勢いよく開けた。

「分からんことは、分かる人間に聞かなきゃならんよなあ、鯉市」

 部屋の中には亜海鼠よりはマシな姿をした魚種の女が吊るされていた。青ざめた顔で壁を見つめている。

「……そうですね、……叔父貴」

 その壁には子供の靴が飾ってあった。幼児用の靴、少し大きな子供用の靴、片方ずつ五足掛かっている。どれも朽ちて穴が開いており貧しい暮らしが透けて見えた。

 靴の色は全て黒かった。真っ黒に粉を吹いていた。それは酸化した血液の色だ。

 太刀の嬉々とした背を見つめながら鯉市はゆっくりと扉を閉める。自分には少しの休憩が必要だと思った。どうしても次の拷問に立ち会える気分ではない。

 鯉市がひっそりと亜海鼠の拷問部屋へ戻るのを黙認しながら、気にも留めず太刀は新しい玩具に向き合った。魚種の女に性的興奮を感じることは無いが、消えたウサギの行方の手がかりとあれば話は別だ。

「氷魚といったか」

 名を呼ばれ、女はビクッと顔を向けた。恐怖の奥に憎しみが溢れている。

「二日ほど待たせたか? 儂も色々と忙しくてな。餌やりにも来れず悪かったなぁ」

 上から下まで品定めする様に氷魚をねめつける。氷魚はその暗い視線に気圧されながらも、掠れ声を振り絞る。

「あ……あの人は、どう、してますか」

「ほう。泣きながら命乞いするかと思ったが……。一言目が旦那の心配とは随分殊勝な女じゃないか」

 少し驚いた様に太刀が感心した。

「古背はなあ、長い間勤めてくれている大事な搬入番だ。儂はアイツを信頼して仕事を任せていた。なぁに、死なせたりしないさ」

 そう簡単には。という真意が分かる口調に、吐き気を催す。太刀は事が起こるまで夫の顔なんか知らなかったんじゃないだろうかよ氷魚は思った。古背は四十を超えても下っ端も下っ端の小間使いで、搬入番といったって、仕入れられた大量の見世物を車から蔵へ、蔵から邪気寄席へ、運び入れるだけの烏合の衆の一人だ。

「さあ、お前たち夫婦がどうやって再来のウサギに関わったのか、教えてもらおう」

 簡単に踏み潰せる虫を前に余暇を愉しむ太刀が悠然と腰掛ける。

背後に飾られた子供たちの血塗れの靴を眺めながら、氷魚は牡丹に懺悔していた。あんたをこんな恐ろしい場所へ一瞬だってやるんじゃなかった。金のために、何も考えずに、見捨ててごめんよ。

 氷魚は口を開いた。

 自分の命よりも、子どもたちの命が大切だったからだ。

「牡丹は……三年ほど前に知らない獣種の男が連れてきました。商売女として売れる様に仕込んで、言われるがまま、あの人が邪気寄席へ紛れ込ませました」

「牡丹?」

「……私の付けた、名です」

「知らない獣種だと? やはり『木天蓼』か?」

 熊の様にウロウロと歩き回りながら自問自答を繰り返す太刀の声を聴きながら、氷魚はいつしか気を失った。正直にPの名前を出すことも一瞬考えた。だが、邪気寄席から逃げ果せたらしい牡丹が、Pを頼って西街へ行っているかもしれない。氷魚にとって牡丹は我が子を引き合いに出されても売れない存在となっていた。飯を食わせ商売へ行き川で洗ってやり頭や身体を撫でて育てた。赤ん坊から乳を飲ませた我が子に変わりないのだ。

 縛られていた縄を解かれた瞬間の衝撃で再び気付いた時、氷魚の前にはもう太刀の姿は無かった。

「起きろ。太刀様がお呼びだ」

 ヤクザ者の取り巻きたちに取り囲まれ、氷魚は恐怖で身を縮こませながら、覚束ない足で部屋を出た。壁に貼り付けられた子供たちの血塗れの靴もいつの間にか外されている。応接間へ通されると、先ほどの取り乱した様子は鳴りを潜め、何を考えているのか分からない恐ろしい支配者の顔に戻った太刀が悠然とソファに腰かけていた。

「氷魚よ、お前とお前の家族が生き延びる方法が一つだけある」

 大男たちに背中を押され、氷魚は細い身体で太刀の前へ躍り出る。その顎をグイっと力任せに掴まれ、歪んだ頬の上に太刀の醜い顔が迫る。

「ウサギは現在『鯨』に居る。そしてお前はウサギの母だな? 懐柔して、何としてでも儂の元へ連れてこい」

 空にかかる雲の様に太刀が覆いかぶさり、氷魚は息も出来なかった。幼いころに絵本で読んだ伝説を必死に思い出そうとしながら、ただ、何度も何度も頷く。太刀は満足そうに顔を歪め、身を起こして取り巻き達に向き直ると

「では我々は、狐狩りの準備といこうか」

と、笑った。

 

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