第50話 戦友




 呆然としたまま太刀の邸宅から逃げ出し、当所も無く進む犀太郎せいたろうの後を、ただ、ついて歩いた。

 

 太刀たちの元にもうウサギが居ないことは確認できたが、それ以外の情報が多すぎて青猪あおいは混乱していた。

 

 辺りはすっかり夕方になっていて、橙の夕陽に照らされた街並みは影を落とし、邪気寄席ざけよせだけが白々と浮かび上がっている。


「おい」


 少し先を黙って歩いていた犀太郎が突然立ち止まった。


「尾けられてるぞ」


 振り向かずに、それだけ呟き走り出す。

 

 何のことか咄嗟に理解出来なかった青猪は、罵声と追ってくる足音を背後で感じてから、慌てて犀太郎に続いた。

 

 悪路の多い小径へ入り、泥だらけの裏路地を縫うように走る犀太郎はどんどん遠くなっていく。それでも時折背後を気にするように顔を向けてくれるのを励みに、青猪は必死に付いていった。

 

 革靴のウイングチップに皺が寄り、彼方此方にぶつかって痛む。だがそれよりも貧弱な身体の体力の無さの方が辛い。鍛え抜かれた革命戦士はエンジンでも付いているかの様で、勇ましかった。

 

 暫くは追っ手の気配を感じたが、邪気寄席から随分離れ、生活区の住宅の様が寂れてきた辺りでようやく巻いた。しかし犀太郎は、自分が『木天蓼マタタビ』の人間だと勘付かれた以上、一刻の猶予も無いと感じていた。


 潜入は失敗した。


 ウサギの行く先についての情報は得られず、自分の正体を割られ、おまけに盗人女の仲間だと勘違いまでされている。


「すぐに『木天蓼』本部へ帰還する」


「えっ?」


 踵を返そうとする犀太郎の元へ、青猪が駆け寄る。


「まだ西街へは戻れません。あの子はこの街に囚われているんです」


 青白い顔で覗き込んで来る大きな漆黒の瞳。この脆弱な身体の何処にそんな力があったのかと思うほど、強く、犀太郎の腕を掴んでぎりぎりと爪を立てる。唸り声でも上げそうな顔で、青猪は犀太郎に縋り付いた。全身で食い止めようとしているのが分かった。 


「僕を利用して太刀に会ったんだ。貴方には再兎を取り戻しに『クジラ』へ来てもらいます」


「だから……それは『木天蓼』にウサギを奪還してから」


「そんなの、待っていられません」


 いつでも振り解けると思いながらも犀太郎は身動ぎ出来ずに居た。

 

 脆弱な貴族の腕。土を触ったことも無い細い指。艶のある髪、白磁の頬。

 

 しかし青猪の瞳の奥には深く、昏く、憎しみと怒りの赤が灯っている。

 

 この目は犬遊けんゆうと同じだ。この子供じみた男の中に自分の焦がれて止まない強さを感じ、犀太郎は怯んでいた。


「この街に、すぐ近くに、あの子が居るんです。いつ殺されるか、いつ偽王が立つか分からない状況で何もせず放っておくのですか? どちらのウサギも東狐様に捧げると言うのなら、貴方にとっても無駄な行動じゃない筈だ」


「言っただろ、俺たち二人で何が出来る。あいつらは夜府座よふざに押し入って占拠した様な奴等だぞ。お前のウサギを強奪するなら『木天蓼』の総力を挙げて攻め入らなけりゃ無理だ」


「……本当にそれだけが理由ですか?」


 青猪の細い指先が深く犀太郎の筋肉に沈む。犀太郎はそれを緩く振り払い青猪から顔を背けた。


「そもそも僕は、もう一匹のウサギが太刀の様な残虐な人間の元へ向かったことが不思議でなりません。僕だけじゃない。誰にも予測できなかった筈です。貴方が話していた邪気寄席にウサギが入った情報を掴んでいた者というのは、憶測ではなく事実を把握していたのではありませんか?」


「何が言いたい」


「つまり、作為的に太刀の元へウサギを送り込んだ当事者ということです」


「馬鹿か。太刀みたいな野郎を王に据えたいのは北街の、それもほんの一握りの富裕層だけだ。俺は魚種サカナとも金持ちとも馴れ合う趣味はない」


「そうです。貴方は太刀に自分が『木天蓼』の人間だと感付かれたから今すぐ本部へ帰りたいんだ。それを伝えたい相手は魚種でも富裕層でもない。『木天蓼』の人間です」


 青猪に核心を突かれ、犀太郎は一拍の後深く息を吐いた。

 

 獅子王の悪政を断じる傍らで残虐非道と名高い太刀にウサギを渡していた理由は分からない。犬遊から聞かされていない。今この場でその正当性を貴族に訴えられない情けなさが身を蝕む。

 

 むしろ俺が聞きたい位だ、と笑みさえ浮かぶ。

 

 赤錆で覆われたトタンの外壁が立ち並ぶ貧しい家々から、時折何事かと住民が顔を出しては獣種の姿に驚いて引っ込んでいく。その魚種の民たちに浮かぶ恐怖と劣等感は獅子王の悪政のせいだ。

 

 それでも自分の中に魚種を見下す心が蔓延している。獅子王を否定しながらその最も負の部分に同調している自分が居る。

 

 『木天蓼』東狐の教えでは、三種族すべての人間が平等な権利を得るべきとある。しかし犀太郎の中には幼い時分から「普通」だった西街の人間の考えがこびり付いて離れない。否、そのことに何の呵責も無いのだ。革命家が聞いて呆れる。

 

 犬遊を殺させまいと必死になっている今の自分に一体何の大義があるのだろう。

 

 犀太郎は貧民の増えた西街に懺悔する様に天を仰いだ。


***




「……東狐様を王にしたい貴方がたがどうして邪気寄席にウサギを送り込んだのか、僕には分かりません」


「俺にだって……!」


 もう言い訳が浮かばない。犀太郎には自分でも納得していないことの正当性を訴え続けられなかった。


「俺にだって、分からない。知らされてないんだ。今の犬遊の考えは、俺にはもう、何も分からない……」


 あのオニキスのピアスをした男の名を告げられ、青猪は背筋が逆毛立った。獅子王と『鬼』を殺した男だ。十年前のあの夜、信徒を扇動し十毛未を殺した男だ。


「俺は相棒だと思ってた。犬遊の心を理解できるのは、十年前の聖戦で生き残った僅かな人間しか居ないんだとな。相棒だ。唯一無二の。だからこそ同じ温度でもう一度革命を起こせると思っていた」


 犀太郎は苦しそうに下を向いた。


「でもアイツにとって俺は、他の信徒と同じくただの駒だったのかもな」


「……駒」


「それでも東狐様を王にしたいのは、俺もアイツも同じだ。方法が違っても目指す場所が同じなら構わない。俺は俺のやり方でウサギを東狐様に献上するだけだ」


「それすら他の目的の隠れ蓑という可能性もあるのでは」


「それはない」


 犀太郎は顔を上げて青猪を真っ直ぐ見据えた。


「東狐様は、犬遊の全てだ」


「……ああ。恋人なのですか」


 青猪の間の抜けた呟きが、犀太郎の癪に障った。すぐにまた瞳は侮蔑の色を含んで牙を剥いた。


「おめでたい頭だな、お坊ちゃん。『木天蓼あそこ』には、そんなものは無い」


 貧者の暮らしに、そんな余裕は無い。そんな感受性は、そんな明るい気持ちは、そんな夢の様な味は、暮らしに余裕のある者にしか訪れない。


「……すみません」


 青猪は小さく謝ったが、真意は理解出来ていなかった。『木天蓼』の革命戦士に色恋沙汰の様な不潔な発想は無いのだ、とでも犀太郎は言いたいのだろうと誤解したまま口を噤む。


 その時だ。


「オラッ!」


 突然、ゴッという鈍い殴打音と共に青猪の目の前に血飛沫が上がる。ゆっくりと倒れていく犀太郎の背後から、先ほど巻いたはずの邪気寄席の下っ端たちが現れた。

 一番先頭の男が血液らしき汚れが付着したコンクリートブロックを投げ捨て、不敵に笑っている。


「コイツは縛ってから運べ」


 魚種特有の横に広い口角を吊り上げ、体格の良い男たちが筋肉の詰まった犀太郎の身体を二人がかりで担ぐ。頭から流れる血が逆さまにされた犀太郎の顔面を塗り潰し、口に小さな呼気の泡を作っている。


「こっちの貴族様は殴るまでも無ェな」


 残りの三人はニタニタと小動物を甚振る様な下卑た笑みを浮かべながら青猪に迫る。


「諦めてコッチ来いよ。何も殺すワケじゃねえんだ」


 青猪は咄嗟のことに息も出来ず、慄いて後退るが、気付かぬ内に背後にも男たちが立ち並んでいた。振り向くと、街境にいたあの灰髪の男が、暗い眼差しで見返してきた。


 


「太刀様に歯向かった者は、報いを受けるのが北街の決まりだ」


 先ほど怯えて隠れた魚種の民が再び粗末な家から覗き見ている。壁の穴、戸の隙間、塀の内、四方八方から好奇の視線を感じる。獣種の貴族が魚種の破落戸ごろつきに痛めつけられている様は、彼らに獅子王の死を現実のものとして印象付けていた。


 夕闇に包まれた北街は潮と錆びた金属の香りがする。


 背中にナイフを突きつけられながら促されるままに歩き、やがて海の見える場所まで出た。横目に見えた古びたモルタル製の建物には小さな木看板が掛かっており、カビが生えて痛んでいる。


 あの牢の前で咄嗟に受け取ったチップはカマーバンドの奥に隠した。


 何の記録かは分からないがあの女性の必死さから見て太刀の弱みであることは確かだ。


 これだけでも気づかれない様にしなければと、青猪は行く末の分からない真っ暗な道を絶望と共に進んだ。


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