第49話 バトン
北街は王の崩御など自分たちの暮らしには無関係だという顔をしていた。
西街の様に異様に静まり返ることもなく、市場で買い物をする者や漁を終えて浜で休む者たちが粛々と生活を続けている。
すれ違った何人かは貴族然とした獣種の
「真の王が世を統べれば差別に苦しむ人間も救われる。……
青猪の顔色に気付いた犀太郎が、隣で静かに囁く。青猪は、自分との約束すら守れなかった東狐にそんなことが成し遂げられるだろうかと空虚な気持ちになった。
そこだけ浮き上がる様に光り輝く漆喰塗りの
「俺は邪気寄席では下っ端だ。お前らの言う
それだけ言うと振り向きもせずに男は
「貴族が何のつもりで『木天蓼』なんかと連んでんのか知らねえが、何を企んでも無駄だ。あの御方を出し抜くことなんか絶対に出来ねえ」
と捨て台詞を吐いて出て行った。その声の最後が少し震えていて、掃除用具や幟の押し込まれたこの小部屋に陰を落とした。
「聞こえてたのかよ、
「……よしませんか」
「何を?」
「その蔑称」
犀太郎は少しも愉快そうではない歪んだ顔で
「止めるさ。アイツらが
と苛立った様に笑った。
何日かここに軟禁されてこちらの出方を試されるかもしれないと覚悟していた犀太郎の思惑とは裏腹に、半時もせずに他の男が戸を開けた。
先ほどの屈強な下っ端たちとは違い、小太りで背の低いその男は
「お話は伺っております。王宮にお勤めの方々をこんな場所にお通ししてしまい申し訳ありませんでした。なにぶん街境警備に立たされている理由すら聞かされていない者たちでして……勘弁してやって下さい」
鯉市の穏やかな口調が場の空気を弛緩させていく。
彼は自分にカリスマ性が無いと嘆いているが、獣種の貴族たちとの商談の場に太刀が鯉市を付き合わせるのには後継者というだけでは無い理由があった。やくざ者には持ち得ないその裏表の無い態度は、自然と相手の警戒心を解いてしまう。
「太刀の私邸へご案内致します」
裏社会の頭領と言われる太刀が正体不明の客人を早々に迎え入れたことに対する警戒心を奪われ、青猪と犀太郎は鯉市に導かれるまま邪気寄席の隣にある御影石の大邸宅へ入った。
途中横目に見えた幾つもの蔵がまるで聳え立つ要塞の様で、邪気寄席がどの様な社交場なのか深くは知らない青猪にも薄気味悪く思えた。
一方の鯉市の心は沈んで何事にも揺らがなくなっていた。
かつての心の支えであった
どんなに大事な商談相手でも私邸には立ち入らせなかった太刀が、この胡散臭い王宮の使者を招いた理由は明確だ。地位ある獣種に自分の残酷さと強さを、誇示する為だ。
「叔父貴、お連れしました」
鯉市の声は震えていた。太刀の上機嫌の返事を受けて開けた扉は応接室ではない。
太刀の自慢の地下牢の扉だ。
「これはこれは。王宮の方々。ようこそ我が屋敷へ」
扉が開かれた途端、糞尿と腐敗と血液の混ざった悪臭が噎せ返り、青猪と犀太郎を襲った。
思わず顔を背ける獣種の姿を、太刀は愉悦に満ちた表情でじっとりと眺めている。まるで甘露を舐めしゃぶるかの如き笑みを浮かべる叔父の姿を、鯉市はまだ僅かに残る人の心で悲しく見つめた。
暴れる奇形動物や涎を垂らしながら僅かに息をする奴隷たちの入った牢が部屋をぐるりと取り囲む様に並び、太刀の前にある牢には拷問を受けた女がぶら下がっている。
「……何なんだ、この部屋は」
名乗ることも忘れ、犀太郎が震える声を絞り出した。
邪気寄席が人身売買などの違法行為を行っていることは情報として知って居たが、目の前の現実は噂話など目ではない。
『木天蓼』武闘派として闘うとき、勇気や戦意は獅子王に対する怒りを焚べればいくらだって燃やせた。しかし憎しみも怒りも無い相手の残忍さを前に、革命戦士の皮を剥がれたただの男は恐怖に慄いている。
「折角北街までご足労頂いたが、ここにはもうウサギは居ない」
「もう……?」
「納得いかんだろう。だからこうして、証人を捕獲しておいた」
太刀が薄ら笑いを浮かべながら正面の牢を顎で示す。口と鼻を両手で覆い、ギュッと目を瞑っていた青猪が、恐る恐る牢の中へ目を凝らす。
錠を嵌めた首に鎖を繋がれ、つま先立ちでやっと届く高さに吊るされた女は、汚らしく酸化した金メッキの様な髪から覗く瞼を薄く開いていた。
目の周りや頬や鼻、至る所が青や赤や茶色に染まった顔に表情は無い。引き裂かれた服の残骸と下着が大きすぎる胸を支え、両手はだらりと力無くぶら下がる。何も身に着けていない下半身には乾いた血と体液と尿がこびりつき、筋肉は疲弊して今にも脱力しそうに震えている。
露出した肌全てが顔同様に擦過傷と打撲痕と血液に彩られ斑らだが、首の後ろの所々剥がれた鱗や俯いた奥にある横長の口角で、辛うじて魚種だと判別できた。
「……まさかこの女はウサギを盗んだのか?」
「如何にも」
鷹揚に頷きながら太刀は、上級貴族の真似を失念した犀太郎や、震えて牢を確認する子供の様な青猪を、旨そうな獲物を見る目で眺め続けた。通常の魚種の二倍は裂けた口から覗く歯を何度も舌で拭う。
「この女を捕まえたとき、ウサギは一緒に居なかったのか?」
「居ないどころか何処へやったのか、誰の差し金か、どれだけ殴っても何も吐かん。だが、一つだけ分かっていることがある」
「……何です」
漸く青猪が口を開いた。太刀は青猪に向き直り、きっかり視線を合わせて笑った。
「この女は、魚種じゃない。魚種に化けた獣種だ」
嘔吐を堪えていたのも忘れ、青猪は思わず牢に一歩、また一歩と近づく。そんなことがあるだろうか。誰が何の目的で、どんな方法で、その全てが疑問で一つも共感出来ない。信じられなかった。
犀太郎も眉を顰める。
「魚種にしか見えないが」
「身体をな、隅々まで、よぉく調べたんだよ」
太刀が犀太郎と青猪に場所を譲る様に牢の前から離れ、なあ? と戸の近くに棒立ちになっている鯉市へ笑いかける。鯉市は、小さな声ではいと返した。
掠れていたが、奇形の動物の唸り声と奴隷たちの呻き声の合間を縫って、女の耳に微かに届く。女が口を少しだけ開き、息を吐く。
饐えた臭いの立ち込める小部屋に貴族の青年が入り、何人もの女が死んだ牢を覗き鉄格子に触れる。
太刀は大声を上げて笑いだしたい気分だった。
邪気寄席は西街の金持ち相手に人身売買や闇取引をしている。身に着けている物の値打ちや所作で青猪が爵位を持つ上級貴族だということはすぐに判った。
だが獅子王の崩御以降、行方を晦ませ身を隠している王太女が遣いを出すというのは俄かに信じられない。
使者が捕まり拷問されて口を割れば我が身が危ない。使者を送るにしても、せめて書状を書き、それ相応の財産や権利を譲るという様な一筆を寄越すなりするだろう。
そもそも太刀がウサギを手にし新たな王になることを約束されているならば、最早地位を失った権力者に協力する価値など無い。それは王太女ならば痛いほどよく理解している筈だ。
とすれば、この者たちは何者か。ウサギが邪気寄席に来たという情報を知って居る者たち。それは即ち、この牢の女、亜海鼠の仲間ということではないか。
太刀の思い違いは奇妙な合点で一本の線に繋がり、益々気持ちを高揚させた。
亜海鼠は社交場解禁夜に邪気寄席にウサギが来ることを知って、ウサギを奪うために潜入した。時を同じくして『木天蓼』の夜府座襲撃が起こり、獅子王と王宮のウサギは斃れた。
「お前……『木天蓼』の人間か?」
太刀がふと呟く。
僅かに肩を上げたのは犀太郎一人。青猪は僅かに犀太郎を向き、亜海鼠は微動だにしない。
「俺たちは王宮の遣いだ」
絞り出された犀太郎の震える声を無視して太刀が続ける。
「どういうことだ? 益々分からん。王宮の人間と『木天蓼』が手を組んでるのか? 夜府座のテロは王宮内の人間が『木天蓼』を使って起こしたクーデターということか?」
「何のことだ。それより、ウサギが居ないのならばここにもう用は無い。失礼する」
地下室のあまりの有様に怖気づいていた犀太郎が、組織の名を出され正気を取り戻す。牢の女が獣種だと言われ、茫然と覗き込んでいる青猪を小突き、足早に出口へ向かう。
「儂が一番知りたいことはなあ、この邪気寄席に、誰がウサギを紛れ込ませたのかってことだ」
自分の横を通り過ぎようとする犀太郎の腕を掴み、太刀は覆い被さる様に凄んだ。上背は獣種の方があるが、太刀の巨体はそれを忘れるほどの圧迫感を持つ。
安物の布越しに感じる鍛えられた筋肉。太刀は犀太郎が貴族の格好をした『木天蓼』武闘派だと確信した。
「この儂の、城に、儂が長年探していたウサギをいとも簡単にぶら下げて」
力を込めると筋肉がはち切れそうな感触だ。犀太郎が睨みを利かせてくるのを額が付きそうな程近くで見つめながら、太刀はずっと愉快だった。
「儂が姿を見る前にまた盗んで何処かにやったんだ。こんなに馬鹿にされたことは産まれて初めての経験だ」
犀太郎の脳裏に犬遊の顔が浮かぶ。この場を上手くやり過ごし一刻も早く『木天蓼』本部へ戻るという明確な使命感が再び犀太郎の心を勇敢にしていく。
「……っ知らねえよ、俺たちは王宮の、王太女馬綾殿下の遣いだ」
「儂を、邪気寄席を、使い捨ての駒にしたな。この屈辱、絶対に許さん。罪は贖ってもらうぞ」
懐から銃を出したとしても、太刀を殺すことは難しいだろうと犀太郎は感じていた。一瞬でも目を離せば食い殺されそうな迫力で、睨み返すことが精一杯なのだ。
太刀には獅子王と同じ様な恐ろしい力がある。こんな人間が一瞬でもウサギを手にしていたことに背筋が凍る。
Pの裏切りを知った時の犬遊の反応は、計画自体を知って居た様子だった。自分が反対しても止まらない様な奴とどうして手を組んだんだ、と怒りが沸く。
Pを排除してその役割を俺に任せれば良かったじゃないか。俺なら太刀の元へウサギを送ったりしない。例え一瞬でも東狐様以外の人間が王になる可能性がある。そんな危険な橋は渡らない。
『木天蓼』という名が浮上した以上、太刀は、王太女と雲隠れしているPよりも早く、同じ計画に加担していた犬遊のことを突き止めるだろう。
犀太郎は犬遊を見限った筈なのに、太刀を睨みつけながら沸き上がる涙を止められなかった。
「おいおい、感傷的になるなよ。儂は獣種の泣き顔が世界で一番の好物なんだ。これ以上興奮させないでくれ」
太刀に嘲笑され、犀太郎は力任せに腕を振り払う。悔しさと怒りが腹の奥に渦巻くのに、蚊帳の外にいる自分は惨めだ。
「おい、行くぞ!」
扉を塞ぐ様に立っていた鯉市を付き飛ばし、青猪に声だけかけて犀太郎は外へ出た。
「いいのか? 連れて帰らなくて。仲間なんじゃないのか?」
後ろから鯉市が焦った様に声を掛けるが犀太郎は振り返りもせずに怒鳴った。
「仲間なワケねえだろ! そんな気味悪いヤツ、勝手に殺せよ!」
***
側仕えしてきた主が高潔な人間だったことは
それでも時折、貧乏貴族の卑屈さが顔を出す。
馬綾には到底理解されない親への不信感や生い立ちへの恨み節に憑りつかれ、寂しくて堪らない夜が亜栗鼠には幾度もあった。
人間は孤独だ。
他人に完璧に理解されることは無理だと思う一方で、気持ちを分かち合える誰かと混ざり合って一つになれたならどんなに幸せかと夢想してしまう。
子供時代に出会った青猪は、親を厭いながら愛を乞い、貴族に生まれた自分を恨みながらも恩恵を被り、その矛盾だらけの人生に胡坐すらかけず苦しんでいた。
それはまるで亜栗鼠の心の一部が人の形をして飛び出した様だった。
未熟で幼稚で、亜栗鼠は青猪を愛さずにはいられなかった。何重にも大義で固められた亜栗鼠の横で、代わりに本音を零し、涙を流してくれることは救いだった。
姉が斃れたあの場所で、微塵も馬綾を恨まずに済んだのは、自分の心の片割れが手を繋いで震えてくれたからだ。
この牢に来てから、意識はもう殆ど無かった。
だが、誰かが王太女と呼ぶ声を聞いて、亜栗鼠は瞼を上げた。
目の前には、大人になった青猪が居た。心配そうな怯えた顔で、じっとこちらを見上げている。
青猪にはもう、自分のことは判らないだろうと思う。それでも自分の代わりに、きっと馬綾を助けてくれる筈だ。亜栗鼠の心の一番奥にはもう、それしか残っていない。
太刀と誰かが遠くで話す声がする。もう二度と上がらないと思っていた腕は、何かの加護を受けたかの様に力を出して背中に回り、下着の縫い目と金具の間に挟んだ小さなチップを取り出した。
目の前の青猪に伸ばす。青猪は汚い鉄格子の中に指を突っ込み、チップを受け取ってくれた。
瞳を閉じる。
最後に美しいものを見て眠るのは、ほんとうに久しぶりだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます