第48話 肩書き
敷地内の信徒たちや門番でさえ、軽く会釈だけしてすぐに目を背ける。青猪を連れ出すことは東狐に許しを貰っている。しかし『木天蓼』を支配しているのは
夕暮れが聖堂の周りの木々を赤く灯す様が横目に映り、必ずウサギの有力情報を手にして帰ると決意する一方で、もしかしたらここにはもう戻れないかもしれないとも感じた。
「どこで馬車を拾うのですか?」
敷地を出て暫く経つと隣で
こいつは、何も分かっていない。犀太郎は爆発しそうな心を押し殺し、低い声を出した。
「歩くんだよ、お坊ちゃん。何日もかけて歩くんだ。北街まで」
「えっ」
青猪は目を丸くして暫く沈黙した後、
「……何故ですか?」
と訊いた。
「金が無いからだ」
青猪はハッとした顔をして押し黙り、それ以後静かに後ろを着いて来た。犀太郎の言葉は多くの民の代弁だ。それなのに惨めで屈辱的な気分だった。
二人は大した言葉も交わさないまま、北との街境を目指した。
『木天蓼』本部がある寂しい林を抜け、忙しなく民の行き交う生活区に入る。貴族ではなく中流かそれ以下の者が住む地区なので、今の二人の服装は悪目立ちしていた。
じろじろと露骨に好奇の目に晒される。獅子王が崩御したことにより貴族に対する不満は隠されなくなっていた。
それでも犀太郎は、碌に食べておらず元々の体力も無い青猪に合わせて随分多く休憩を取ることになった。
ティーラウンジや庭園や小径のベンチではない場所での休憩をしたことのない青猪は、道端に転がる腐った酒樽や泥濘んだ路地裏に平然と尻を着けて座る犀太郎に面食らいながら、なんとか乾いた場所を探してポケットチーフを敷く。恐る恐る座り込むと土が柔らかく沈み込むのを感じた。
「そのチーフ、そのうち敷く方がケツが汚れそうだぞ」
「宿で洗えば明日には乾きます」
青猪が青ざめた顔で強がると、犀太郎はまた呆れた顔で溜め息を吐いた。
「……なにか」
「この先はもっと汚いスラムに入る。宿なんか無いし、そもそもそんなことに使う金も無い。この格好じゃガラの悪い連中に絡まれることこそあれ、軒を貸す奴だっているかどうか」
「……では、せめて宿がある地区を通りましょう。少しなら僕が」
懐から金を見せようとする青猪の、その手ごと、犀太郎が勢いよく押さえ付ける。ぐう、と体重を掛けられて青猪は胸が潰れそうになる。
「ばか、こんな所で金を見せるな」
焦った様な小声を尖った耳に吹き込まれ、視線だけで辺りを窺う。姿は見えないが、自分たちの座る路地の外からにじり寄って来る様な人の気配をいくつも感じた。
「大体、俺たち『木天蓼』が夜府座を制圧したからと言って、貴族全員を従わせられているわけじゃ無い。わざわざ貴族たちの住む地区に行けば袋叩きに遭うぞ。それにお前だって、貴族たちから見りゃ再来のウサギを王宮から連れ出した反逆者だろ。王太女が公衆伝達でウサギを持ってこいと毎晩騒いでいるにも関わらず、差し出していない訳だからな。あっち側から見れば罪人だ」
犀太郎はそれだけ言うと、大きな声で「そろそろ行くか!」と立ち上がった。そして鞄からこれ見よがしに銃を取り出し、伸びをするふりをした。
人の気配がさっと散っていくのを感じながら、青猪は犀太郎に言われたことを反芻する。
僕は罪人。
貴族でも平民でも貧民でも無い、サライの大使でも王太女の友人でも無くなった自分の、新たな肩書だ。
投げやりな気持ちになる一方、父に知られたらどんな顔で蔑まれるだろうかと苦しくなる。死んだ後も親に拘泥する自分に辟易しながらも、他に自身を評価する指針を知らない。
***
結局二人は北と西の街境に辿り着くまで五日もかかった。青猪は野宿と携帯食だけの生活に気が狂いそうだった。
涼しい季節とはいえ何日も入浴していない自分の体臭と土埃の臭いで吐きそうになりながらも、しかし進めば進むほど貧しさが広がっていく西街の果てを体感もしていた。
ここより酷い場所はもう無いだろうという目測を何度も更新せざるを得ず、公金が何処に当てられているのか分からないほど傷んで崩れた孤児院を何棟も目にした。
壊れた外壁の穴から見える骨と皮だけの子供たちは、力無く座り、ただぼんやりと、剥がれて飛びそうなトタン屋根の奥の空を眺めていた。
「あれでまだマシな方だ。食べられてるからな」
犀太郎の呟きに頷くのが精一杯で、気の利いた言葉は一言も出てこない。
懐の紙幣を一枚、汚物の溜まった門前に置こうかどうしようか、一棟通り過ぎる度に葛藤し、やがてその紙幣では数が足りないことに気付いた。
こんなはした金で救える街では無い。
西街は再来のウサギの加護を受けた王都ではなかったのか。平民の暮らしは他の貴族よりは理解しているつもりだった。どちらかと言えば自分の心は平民ですらあると自負してきた。
しかしこの目に映る現実は、想像とは全くかけ離れていて、青猪は石で頭を殴られた様な衝撃を受けていた。
「陛下は……本当に、偽王だったんだ……」
街境の寂れた市場を歩きながら、青猪がポツリと零し、犀太郎がそれに
「お前はその片棒を担いで生きてきた貴族だろ」
と憎しみを込めて返す。
薄汚れながらも滲み出る貴族の気品を纏う青猪が他人事の様に憂うのに反吐が出る。綺麗な顔をして貧民の暮らしを憐れむのが忌々しくて、犀太郎は苛立って堪らなかった。
こんな十ほど年下の子供に掻き乱される自分にも腹が立つ。
犬遊ならもっと上手く躱すだろうな、犬遊ならもっと上手に青猪を利用したかもしれない。自分から犬遊を見限った筈なのに、そんな考えが道中付き纏った。
「……では貴族は、王亡き後、どう生きるべきなのでしょうね。……それとも生きるにも値しない罪人の命ですか」
青猪は色の無い顔で小さく零し、息をはく。犀太郎は何も返さなかった。
彼にも分からなかったからだ。
国の長が討たれた後、同じ様に恩恵を受けて生きて来た富者たちはどう償えば赦されるのか。それは誰からの赦しなのか。
犯罪を犯した貧民や、かなり豊かな平民、財力の無い名ばかりの下級貴族、富者ではあるが貧者に施しをしていた上級貴族も少数ながら存在する。線を引くべきは何処か。
犀太郎もまた、その答えを持たない民の一人であった。
「……今は、ウサギを取り戻すことだけ考えろ」
犀太郎はそれだけ返し、街境に立ち構える魚種の男たちの方へ向かう。邪気寄席の下っ端たちだろう。五、六人の体格の良い男たちがこちらに目をつけ、睨みを利かせている。
再兎のことを言われ、青猪もまた瞳から迷いが消えた。そのことだけを考えていれば、青猪の心はいつだって楽だ。
再兎は、暗闇に灯るいつも確かに正しい一点の光だった。
「異種が何の用だ」
邪気寄席の男たちが広い口角をへの字に曲げながら苛ついた様子で吐き捨てる。
「獅子王は
鉄条網も関所も無いが心の壁が聳え立つ一線の上で、犀太郎は顎を上げ男たちを見渡した。
この国の至る所にある街境には、種族の混ざった市が立ち、家が並び、同じ学び舎で過ごす者もある。それでも異種の往来に寛容な訳ではない。
特に獅子王が崩御してからは北街のあらゆる場所で柄の悪い魚種たちが睨みを利かせ侵入者を拒んでいる。
「借り物のおべべが綺麗なうちに帰んな、
「おい、なんだ。知らないうちに北街じゃ獣種立ち入り禁止の法律が出来たのか? けど可笑しいじゃないか。今は何処にも王が居ないのに誰が新しい法律を作ったんだ? それとも新たな王を気取ってる
立ちはだかる魚種の男たちは巨漢だが上背では犀太郎たち獣種の方が高い。偽装だと言い当てられドキリとした青猪を余所に、犀太郎は不遜に邪気寄席の下っ端たちを見下ろす。
「異種だろうと自由に好きな場所に行く権利がある。俺は北街に用があるんだ、退けよ」
「テメエら
「獅子王の腰巾着だあ?」
「失礼!」
犀太郎が更ににじり寄るのを見て、青猪が思わず割って入る。
犀太郎の言葉遣いはとても貴族のものではない。ここまで来て安い挑発に乗せられて計画が頓挫する様なことは避けたかった。
「あの、下男が無礼を働きました。申し訳ない」
旋毛が見えるほど深く頭を下げた場違いな若者の仲裁に、場の誰もが顔を見合せる。下男と言われて首を竦めるポーズを決めた犀太郎は大人しく二歩ほど下がり、青猪の陰に隠れた。その芝居がかった挙動で自分が思惑通りに動かされたことを感じながらも青猪は続ける。
「我々は獅子王陛下崩御を受け暫定王権を継いでおられる第十五王太女馬綾殿下の遣いで参りました。北街の長、社交場邪気寄席の太刀殿の元へ再来のウサギが来訪したとの噂があります。殿下はこれが真であるならば暫定王権を直ちに太刀殿へ譲渡するとのこと。北街が王都となる可能性のある重大な事案です。どうか、お目通りを」
表情を読まれぬ様、青猪は頭を下げたまま一息に嘘を吐き、周囲の男たちが動揺する気配を察知してから姿勢を戻した。戻してからは堂々と胸を張り、上級貴族らしく眉を上げる。
リーダー格の灰色の髪の男に焦点をピタリと合わせ、黒い瞳で瞬き少なに答えが出るまで見据える。交渉の場に於いてはこちらが上だということを知らしめなくてはならない。
毛嫌いしてきた筈の貴族の立ち居振る舞いは、土の上に座り込む自分よりも余程しっくりきた。
「……口先では何とでも言える。例えお前が本物の貴族だとしても、王家の遣いとは限らねえ」
この場で青猪を平民と疑う者は誰一人居なかった。青猪は少し逡巡した後、懐からサライの大使状を出し、灰髪の男に開いて見せる。こんなものがまた役に立つことに青猪は不思議な気持ちで居た。
「成程これが証拠って訳か……分かった、ついて来い」
諦めた様に灰髪の男が顎をしゃくって踵を返すと、青猪の斜め背後で犀太郎がふっと笑った。その笑みは、何故だか嘲りも劣等感も虚勢も含まれない自然な微笑だった。
古いモルタルや薄汚れたコンクリートの街並みを進みながら、青猪は、貴族ではない自分と『木天蓼』ではない犀太郎のことを、考えてみようとして、そんなものは存在出来ないと直ぐに気が付く。
貴族に産まれなければ自分の面を被った他者でしかない。悔しいことにこの短い旅で充分に理解した。それは自分ではない誰かだ。
自分の現状を生まれのせいにして逃避することに、別れを告げるしかなかった。
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