第47話 共同戦線




 投獄から三日、青猪あおいは何も口にしなかった。四日目の朝、遂に上体を起こして居られなくなり、冷たい石床に横たわっていた。


 毛布も火も無いこの塔で迎える夜は恐ろしく寒く、上級貴族の暮らしをしてきた青猪の精神を急速に蝕んだ。


 それでも青猪は食事はおろか水も飲まずに待っていた。


 ひたすらその時が来るのを待った。



「……よう、殉死しようとしてるって?」



 その朝、食事を持って牢を訪れたのはいつもの信徒ではなく、武闘派の犀太郎せいたろうだった。


 彼ら武闘派はカーキ色のジャケットを着用しているため、白装束の一般信徒とはすぐに見分けがつく。



「そんなタマじゃないよな、お坊ちゃん」



 揶揄する声に噛み付く気力も無く、青猪は弱い視線を寄越しただけだった。溜め息を一つ吐き、犀太郎は身を屈めながら牢の中へ入る。



「貴族ってのはハンストのやり方も知らないのかよ。水は飲め」



 固く乾燥したパンと茹でた葉の乗ったアルミ製のトレーを乱暴に床に置き、男は湯気の立つカップに口を付けてみせた。



「ほら、毒は入ってない」



 男が見せつける様に嚥下し、青猪の唇にカップを押し付ける。青猪は暫くの逡巡の後、大人しく湯を飲んだ。


 飲めば飲むほど乾きに気付いていく青猪を観察しながら、犀太郎はジャグから何度か湯を継ぎ足してやった。



「さて……サライの大使。お前に折り入って話がある」



「……青猪」



 掠れた声で青猪は答えた。



「僕は、青猪といいます。……再兎さとは、ウサギは見つかりましたか?」



 短い前髪の下の眉を大仰に上げながら犀太郎が鼻で嗤う。



「見つかってたらお前みたいな奴、餓死させてるよ」



「では、東狐とうこ様との約束通り、善のウサギの捜索の協力を僕に?」



 そう続けながら、青猪は重く力の入らない身体を何とか起こし、昏い瞳で犀太郎ににじり寄った。


 懐に手を突っ込んだのを見て犀太郎が呆れた様にその手首を捻り上げると、カン、と安い音がして石床に小さなナイフが転がった。


 そのまま床に叩き付け頬を一発殴る。精神力だけで動いていた空っぽの身体は呆気なく失神した。



「つくづく幼稚な野郎だ」



 犀太郎は怒りを通り越して、心底うんざりしていた。



「こんな世間知らずのガキと顔突き合わせて行動するなんて、吐き気がするな」




 ***




 獅子王ししおうの崩御から三日、王都西街を実効支配する予定だった『木天蓼マタタビ』の目論見は難航していた。


 王を決める再来のウサギが東狐の元へ訪れないことに関しては、犬遊けんゆうがまた演説を垂れている。


 曰く、何某かに善のウサギは捕われており、王宮で育てられていた悪のウサギを抹殺しないことには再び世は混沌に陥るのだそうだ。信徒たちは犬遊の言葉に励まされ、武闘派と共に捜索班に志願する者で溢れている。

 

 想定外だったのは、Pが王太女を連れ出して逃亡したことだ。


 社交場解禁夜が明け、貴族たちを夜府座よふざに留めておくには金も人も足りない。火でもつけて皆殺しにしてやりたい気持ちはあれど、東狐を新たな王に担ぎ上げるまで迂闊なことは出来なかった。


 解放したとはいえ貴族たちは『木天蓼』の支配下に置いたつもりでいたが、予想外の事が起こった。


 解禁夜翌日の夜、再び王太女の馬綾まあやが公衆伝達で自らの暫定的な統治を主張してきたのである。



「三街の民よ、王代理の馬綾である。獅子王陛下崩御から丸一日経過したが新たな王を選ぶ再来のウサギは未だ行方知れずである。ウサギをわたくしに差し出した者には褒美と相応の身分を与える。各街に常駐している王家配下の警察に通達せよ。ウサギは少女の姿をしており、白い毛髪、赤い瞳、長い耳を持つ。また、悪のウサギの使用は世の理に背く行為である。王家から脱走した悪のウサギを匿った者は厳罰に処す」



 何処からともなく鳴り響いたこの玉音に、獅子王の崩御に絶望していた貴族たちは前体制の復活を信じ、再び傲慢な態度に戻った。


 高等教育を受け、獅子王が治めて来た世を知る彼らは皆、ウサギを手に入れ次代の王になった者が、ウサギに『選ばれた』ことになると理解している。


 西街中の貴族の財力と人材力を以てすれば統率の取れて居ない他の街や反体制団体等、取るに足らない存在であると高を括り、以後、『木天蓼』の使徒が財産を提出する様に来訪してもまるで相手にしない。



「クソッ! 一体何処から放送してやがる!」



 勝利の美酒に酔っていた武闘派の小部屋は罵声で溢れ返った。


 犬遊はその中心で怒りを湛えながら、三街の地図を睨みつけていた。放送設備のある施設や屋敷を転々としているのか、Pと王太女の居場所は定かではない。


 未だ実権を持っているかの様な馬綾の立ち振る舞いへの殺意で怒り狂いながら、犬遊は潜伏場所を血眼になって探し続けている。



「おい、あの山奥の魚種が言ってたことは何だったんだ。善のウサギを邪気寄席ざけよせに明け渡したっていうのは、何の話だったんだよ」



 犀太郎は他の人間が居ない時を見計らって犬遊を問い詰めたが、犬遊は何一つ自分には打ち明けなかった。



「これはPの裏切りだ。だがなにも問題は無い。神の意志は東狐を王にしようとしている。太刀が新たな王に選ばれていないことが何よりの証だ」



 犬遊はそれだけ、まるで自分に言い聞かせる様に呟いたきり、話を打ち切った。犀太郎には何も分からなかった。


 悪のウサギを奪った『鯨』に加え、善のウサギが居るという邪気寄席の情報がある。本来ならば北街へ向かうべきだ。


 だが、太刀の手下が北街全体の守りを固めていて少数精鋭の『木天蓼』武闘派では街に入ることも出来ずに居る。


 未だ新たな王が選ばれていない現状から、北街からウサギが逃げ出したことも考え、三街の至る所へ一般信徒で構成された捜索隊も向かわせているが収穫も無い。 

 


 革命が成功したにも関わらず、『木天蓼』は体制を変えることが出来ず、暫定王権を持つ馬綾は身の安全の為にウサギ捕縛の命令を下す一日一度の公衆伝達以外は行方を晦ませている。


 強権政治の元で統制が取れていた貴族たちは今の内とばかりに物を買い占め、代わりに節約の為といって使用人や奴隷に暇を告げた。


 街には紙切れと化した紙幣だけが溢れ、職を失った民が不安そうに彷徨いている。


 僅かな光以外情報が遮断され音も届かない半地下の牢獄で青猪が眠るように過ごしている三日の内に、西街は未曾有の混乱に陥っていた。

 


 犀太郎は、この三日間、街の中心部へ通い続けた。


 あれほど居心地の良かった『木天蓼』本部から落ち着く場所は消え、話したい者も無くなった。犬遊と二人、主の様に居座っていた武闘派のたむろする小部屋も、東狐の演説も、何もかも急に色褪せて見えた。


 街中へ出て、富める者が欲をかいて更に物を取り上げる様子をただ眺めた。平民たちが貧民に落ちぶれていく姿を無感動に見ていた。


 自分が、自分たちがしたことの結果は、今の所これしかない。


 命を賭けた革命は今、貧富の差を更に広げて、悪政を敷いた王の娘が実効支配する街で有耶無耶になろうとしている。



「犬遊、俺は別で動く」



 今朝、犀太郎がそう声を掛けても犬遊は振り向きもしなかった。ただ軽く手を挙げて了承の意を示した仕草がまるで自分を追い払う様に見えて、犀太郎の心は決まった。


 地下牢で存在すら忘れられかけているサライの大使は、悪のウサギに最も近い存在だ。使わない手は無い。


 そのことに気付かないほど、今の犬遊はいつものカリスマ性を潜め、判断の精彩を欠いていた。



***



 殴り倒された青猪が次に意識を取り戻した時、既に牢から出されていた。


知らない部屋の粗末な寝台から起き上がると頭痛がした。



「気付いたか。じゃあ話の続きをしよう」



 薄く開いた視界の奥で、犀太郎がゆっくりとその象徴であるカーキの軍用コートを脱いだ。それは、犬遊の着古した王宮騎士団のコートにデザインを模した『木天蓼』武闘派の証だ。



「俺は、東狐様にウサギを献上したい。善か悪か、まだ判断は出来ないと聞いているが、その両方を捕まえて『木天蓼』で保護すれば東狐様以外が偽王となる危険は回避できる。東狐様は真の王になられる御方だ。どちらのウサギが善かは時が来れば自ずと分かるだろう」



「……はい」



「東狐様から聞いたぞ。お前は自分で育てた方の再来のウサギを、どうしても死なせたくないんだってな」



 犀太郎は少し笑いながら、黒いビロードのマントを羽織った。それから砂汚れの酷いブーツを脱ぎ、古い革靴に履き替える。手で埃を払い、唾をペッと吐きかけて布で雑に拭く。



「どちらのウサギも北街に入っているというが、異種ってだけで太刀の手下共に門前払いされる。うちの武闘派ですら人数的には手も足も出ない」



「もう一匹のウサギの居場所が分かったんですか?」



 青猪が身を乗り出すのを手で制し、犀太郎は頷いた。



「まだ確証はない。移動してるかもしれないが、一度は邪気寄席に入ったらしい。とにかく、もたついてる内に『鯨』か邪気寄席のどちらかが悪のウサギを使うかもしれない。悪のウサギは真の王でなくても王にしてしまうからな。だから、ウサギの力が目覚めるまでに奪還する」



「まず『鯨』に、再兎を迎えに行きます」



 青猪の声は、毒を唇に当てられた再兎の姿を思い出して、怒りで震えていた。



「今頃、きっと不安で泣いています。あの子は何も知らないんです。外に出たのだって初めてだったのに、魚種に囲まれて、きっと怖い思いをしてる」



 犀太郎はそれに舌打ちし、粗末な布鞄に携帯食や僅かな金を詰め始める。


「勘違いするな。獅子王直属の部下だったお前の利用価値は、太刀との面会にしか無い」

 


 マントのフードを深く被った犀太郎が青猪を振り返って冷たく言った。その姿は上級とまではいかないが貴族の青年に見える。



「だが約束は守る。太刀からウサギを奪うことに成功した暁には、お前の大事なウサギを『鯨』に迎えに行こう」



「……たった二人で、ですか」



 察するに、この男は単独で協力を申し出ている。『木天蓼』としての協力が得られないことを悟り、青猪は愕然とした。


 東狐の影響力はそこまで小さいのだろうか。それとも東狐が約束を反故にしたのだろうか。


 この組織は不透明で、自分は誰にも相手にされていなくて、青猪には何も分からなかった。



「二人でやるのは確認までだ。後継者の王太女からの遣いとでも言って、太刀を油断させろ。ウサギが手元にあるのなら暫定王権を譲渡するつもりだとな。太刀は喜んでウサギを見せるだろう。先ずは確認するんだ。本当に邪気寄席にウサギが居るのかどうかを」



 犀太郎は最後にナイフの刃先と小銃の残弾数を確認し、それもまとめて荷物に入れた。 



「お前の仕事はそこまでだ。潜入に成功したら一度帰還して『木天蓼』で作戦を立てる。どうだよ、お坊ちゃんにも簡単に出来る紳士的な仕事だろ?」



 青猪は犀太郎の馬鹿にした物言いを受け流せず、暫く押し黙っていたが、やがて自分に立てた誓いを思い出し、懐から小さく折り畳まれた革を取り出した。


 立ち上がると貧血の身体がクラクラする。犀太郎の前へ立ち、革を手渡す。犀太郎が不思議そうにそれを広げると、美しく鞣された革製の袋が現れた。



「貴族は、そんなもの持ちませんよ」



 青猪は冷たい目で犀太郎の布鞄を見下した。犀太郎は大人しい子供の反撃に呆気に取られ言葉を失ったが、やがて傷ついた表情を隠す様に口の端を上げた。



「やっと被害者面をやめたな。俺は犀太郎だ。宜しく」



 犀太郎のさも嫌そうに力無く形ばかり差し出された握手の手を一瞥し、青猪は深々とボウアンドスクレイプをお見舞いした。


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