第45話 それぞれの夜明け




 足早に従業員寮を後にする鷲一郎しゅういちろうの背中を、鷹助たかすけは必死に追っていた。いつもなら合う歩調が乱れ、いくら声をかけても鷲一郎は振り向きもしない。 



「鷲さん、鷲さん、落ち着いて!」



 やっとの思いで鶯色の羽織りを引く。鷲一郎は青ざめた顔でゆっくりと振り向き



「離せ」



 と低く唸った。



「まさか、旦那様の決定に逆らうつもりなんですか?」



 体格の良い鷹助がまるで捨てられた子供の様な声を出した。橙色の短い前髪に縁どられた額が嫌な汗を浮かべている。



「鷲さん、やっと制空会せいくうかいから戻って来たんじゃないですか。貴方は胡蝶屋こちょうやを背負って立つ人間です。この大店を継げるのはこの世にたった一人、貴方しか居ないんですよ。その肩に大勢の従業員の生活が懸かっているんです。どうか冷静に、落ち着いて考えて下さい」



 鷹助が縋り付くのを振り払い、鷲一郎はドカドカと廊下を進み続ける。父親のしたことに対する義憤で頭が一杯だった。



「……なんだって鷲さんは、そんなに王権のことばかりに拘るんです!」



 普段声を荒げない鷹助が、興奮して鷲一郎の背中に向かって怒鳴った。あまりの血相に度肝を抜かれ、鷲一郎がついに立ち止まる。



「俺は旦那様の仰ってることを理解出来ますよ……! この胡蝶屋を何よりも優先して守ることで、旦那様は南街を、鳥種の生活を守られたんです。それの何に怒ることがあるんですか?」



 鷹助は幼い時に両親を疫病で亡くし、胡蝶屋に引き取られた。見目の麗しさで奴隷として売られずに済み、将来の男郎花として女中たちに育てられたのだ。


 鷹助の賢さと落ち着きに目を付けた大瑠璃おおるりが鷲一郎の遊び相手として兄弟同然の立場に引き立ててくれたこともあり、胡蝶屋に並々ならぬ恩義を感じて生きている。



「……鷹助、おめえ……」



「鷲さんだって、何も博愛主義者な訳じゃないでしょう。鳥種を豊かにすることが第一の筈だ。制空会だってそういう組織じゃないですか。考えてることは旦那様と同じじゃないんですか。牡丹ぼたんの作戦は失敗したかもしれないですが、これから西街の『木天蓼マタタビ』と北街の邪気寄席ざけよせが潰し合って、それで南街が漁夫の利を得られるなら、それでいいじゃないですか」



 鷹助は両の拳を強く握り、肩を怒らせてそこまで一息に吐き出した。


 主人に対して言いたい放題している筈なのに、視線を合わせられずに斜め下の床を見ていた。そんなことを口にしている自分を怖れるかの様に、身体が戦慄いている。



「漁夫の利? 違えな。世の中を変えるのにてめえの手だけを汚さないで甘い汁を啜ろうとする奴は卑怯者だ。そんな姑息な野郎を一瞬でもこの世の王にしようと思った俺が馬鹿だった。牡丹は俺が預かる。誰にも渡さねえ」



 唾棄すべき保身に走ろうとしている父とそれを支持する忠臣を軽蔑する感情に苦しみながら、鷲一郎はそれでも鷹助を切れないで居た。



「オメエも来ねえか。ウサギかなんか知らねえが、あんな小せえ子供の身体にダチュラを仕込むなんざ正気の沙汰じゃねえ。兎に角牡丹の毒を抜いてやらなけりゃ本当にこの世からウサギと王が消えちまう。親父がやってることは『木天蓼』の言う通り大罪でい」



「……しかし、旦那様の言う通り、王が居らずとも支え合って世を作っていくことは出来ます。むしろ王など居ない方が……」



「それを決めるのが親父一人で良い筈ねえだろ。王政を廃止するにしても、それは三街の民全てが納得して決めなきゃならねえ。てめえの店可愛さに勝手に王もウサギも殺して、はい、平等な世を作りましょうなんざ、勝手すぎる。それこそ暴君じゃねえか」  



 暫く待ったが鷹助は躊躇って目を合わせようとしなかったので、鷲一郎は無言で踵を返し、再び牡丹の居る客間へ急いだ。


 鷹助は小言こそ鬱陶しいが自分の一番の理解者で右腕だ。今まで何をするときも鷹助が自分を助けてくれた。制空会へ身を寄せている間も胡蝶屋の人間の中で唯一何度も自分を説得しに通ってくれた。


 その鷹助を捨て置いてまで牡丹の命を救う。牡丹に、ウサギに、そんな義理も執着も無い。


 それでも鷲一郎は納得いかなかった。父親のやっていることは全く筋が通って居ない。


 鹿錬貴カネキ家の遺産を相続する代わりにウサギを身請けした癖に、そのウサギを持て余し尤もらしい理由を付けて犬死にさせようとしている。


 殺して良い存在ならば老い先短い駱仁らくとが自分と一緒に処分しただろう。駱仁は、ウサギを生かさなければならないことを知って居た。嫌悪する呪われた存在だとしても必要だからこの世に留めておくしかなかった。


 父親はその恩人の切なる約束を反故にしたのだ。おまけに先祖代々続く猿女君さるめのきみへの敬意も無視した。体の良い言い訳に自分や胡蝶屋を使われるのに鷲一郎は耐えられなかった。



「親父は恩義も判らなくなった薄情者じゃねえか。そんな奴の守ったモンに何の意味があんだよ」



 独り言ちながら鷲一郎は牡丹たちの待つ部屋の襖へ手をかけた。獅子王ししおう太刀たちを殺す為に牡丹の命を捨てようとしている大瑠璃のやり方は到底納得出来ない。


 自分の私利私欲の為に民を殺してきた獅子王のやり方と同じだからだ。


 怒りに任せて勢いよく襖を開けると、畳の上で誰かに馬乗りになっている白髪の少女が目に飛び込んできた。濃紺の浴衣の袂は乱れ、その足の間から逃げようと、少年の足がもがいている。



「うぐ……」



 押し倒されているのは浅葱色の髪を畳に散らし、呻いているとびだった。よく見ると牡丹は荒く息をしながら飛の首を細い腕で圧迫している。



「オイ、どうしちまったんだよ! 落ち着けって!」



 一生懸命牡丹を引き剥がそうとする朱鷺ときをものともせず、牡丹は飛の上から退かない。気迫に圧倒された鳩兵衛きゅうべえは、どうしたら良いのか分からずにオロオロと二人の傍で慌てているだけだ。



「こりゃ一体、どういう状況でい……」



「わ、若旦那様! 牡丹が起きたら急に人が変わったみたいに暴れて……」



 状況が掴めずに突っ立っていた鷲一郎に気付き、薄灰色の瞳に涙を溜めながら助けを求める。



「凄い力なんです。焦点も定まってなくて、よ、涎も垂らしてて」



 膣内に仕込まれたダチュラの蝋が溶けきり、普段の何倍もの幻覚作用に支配されていることを瞬時に推察し、鷲一郎はすぐさま朱鷺に加勢する。


 ところが、大の男二人がかりで引っ張ってもまるで太刀打ちできない。不思議なことにガリガリに痩せた牡丹の細腕は鉄の様に硬く、まるで初めから飛の首に固定されているかの様だった。



「う、ヴヴヴ」



 鳩兵衛の言う通り、覗き込んだ牡丹の顔は先ほどとは別人の様だった。


 呻く唇の端から泡を吹き、赤い瞳は濁って何処を見ているのか分からない。顎には滴り落ちるほど涎が溢れ、首や腕に血管が浮いている。



「おい! 鷹助、居るんだろ! 手え貸せ!」



 鷲一郎は接客中の周囲の客間に気遣う余裕も無く、大声で鷹助を呼んだ。途中の廊下に置き去りにされた筈の鷹助が、すぐに襖から顔を出した。



「オメエの考えはどうだっていいから、とりあえず手伝え! 鳶が死んじまう!」



 有無を言わさぬ主人の命令に条件反射で飛び込み、鷹助はその大柄な身体から出る渾身の力を込めて、なんとか牡丹の肩を引き剥がした。



「ざが、ざ、魚種サカナめ……」



 反動で後ろにひっくり返る時に低くそう呟き、牡丹は白目を剥いて失神した。解放された飛は蹲り、激しく噎せながら必死で息を吸う。



「げぇっ……げほっ、げほ……」



「鳶! 大丈夫か!」



 朱鷺が飛の背中を擦ってやる。隣で鳩兵衛がおっかなびっくり牡丹を布団に横たわらせる。



「……これが親父のやったことの末路でい」



 鷲一郎が静かに零した。



「俺だって、ウサギに王にしてもらえんなら儲けもんだと思ったよ。だが、人の道は外れちゃいけねえ。罪の無え誰かの命を利用して、その犠牲の上に平和なんか立つもんかよ」



 部屋の障子が徐々に白けていくのをぼんやりと眺めながら、鷲一郎は少し泣いた。事情を知らない朱鷺と鳩兵衛は、その美しい横顔に伝う涙を不思議そうに見つめていた。


 苦しそうに眠る牡丹の傍らで、飛は自分がされたことを余所に、心配そうに頭を撫でている。鷹助はその全ての光景を立ち尽くしたまま目に焼き付けていた。

 

 鷲一郎は大瑠璃と同じく、鳥種さえ尊重されれば良いと考えているのだと誤解していた。そうではなかった。

 

 鷲一郎は、制空会に居たときも、今も、ただ正義を貫こうとしているのだ。間違った権力に押しつぶされ苦しんでいる目の前の人間を助けようとしているのだ。

 

 それは、獣種の王侯貴族に虐げられる鳥種であり、魚種の人身売買に関与してしまう鳥種であり、奴隷として苦しむお椋であり、今夜母を頼って来た飛であり、そして目の前で今まさに薬物中毒に苦しむ牡丹だ。



「全部は助けられねえ。だから俺あ、周りの鳥種の雇用を守る。南街の治安を守る。それから、目に入った奴を助けるんでい」



 鷹助が緩慢とした動きでゆっくりと障子を開ける。薄明を迎え朝靄の奥に霞む山並みが知りたくも無い真実に気付いた己の心に重なる様で苦しかった。



***




 その山並みの一つに、二人の男が向かっていた。


『木天蓼』の犬遊けんゆう犀太郎せいたろうを引き連れ、山道を一気に走り抜ける。


 夜府座よふざを後にした犬遊は、Pが自分の指示通りウサギを預けている筈の山岳地帯の古背の元へ向かっていた。


 Pが獅子王の後継者である馬綾を連れて出て行ったとなれば恐らく馬綾まあやを次の王に据えようとしている筈だ。


 獅子王を誰よりも憎んでいたPがその娘に入れ込んでいることは想定外だったが、大瑠璃から預かったウサギの居場所を知って居るのは自分とPだけだ。

 Pは王宮から盗んだ馬で向かった様だから、多少の遅れを取ったとしても圧倒的に自分たちの車の方が早くウサギを手に入れられる算段だ。



「犬遊、どこに向かってるんだ」



 戸惑う犀太郎を余所に犬遊は車を飛ばした。



「Pが世継ぎを王に据えようとしても馬より車の方が早い。俺は約束通り東狐を王にする」



 ガタガタと荒くうねる道の先に、Pから報告を受けていた古背の家があった。犬遊は車から転がり落ちる様に家の戸を叩いた。仕事中の夫の代わりに中から明け方の騒音に驚いた氷魚と幼い子供たちが顔を出す。



「白髪の少女を預かっている筈だ。出せ」



 犬遊の鬼気迫る言い様に面食らいながら、氷魚は静かに返す。



「牡丹のことなら、Pの指示で社交場が開く前に邪気寄席に連れていったよ」



 犬遊の産毛が瞬時に逆立ち、怒りを満面に湛えたのを犀太郎は車からぼんやりと見ていた。犬遊を盲目的に信じていた自分を心の端で呆れる気持ちすらあった。






 その山の麓の奥の邪気寄席の蔵では、下っ端を人払いした太刀と亜栗鼠アリスが一対一で向かい合っていた。



象棋シャンチーという遊びを知っているか? 西街のチェスというのに似ている」



 太刀は豊かな白髪を撫でつけ、革靴の先で亜栗鼠の顎を上げた。冷水を浴びせられ再び意識を取り戻した亜栗鼠は、破れた背中の皮膚の痛みと、鯉市が下っ端と共に去ってしまった心細さで呼吸を荒くしていた。



「だがチェスとは違い、成り上がれるのはほんの一握りの駒だけだ。北街らしい厳しいゲームだろう。兵隊は一つ一つ大事に使わなければならない」



 太刀がしゃがみ込み、亜栗鼠の身体をグイッと抱き起した。亜栗鼠と太刀は抱き締めあう様な形になる。再来のウサギを寸での所で手放した太刀はしかし、何処か愉快そうに笑う。



「お前は死ぬ気でウサギを逃がしたんだなあ。この時の為に、美しい獣種の外見をいじって、身分も捨てて、儂の所で何年も待っていた訳だ」



 太刀のねめつける様な視線から逃れる様に亜栗鼠は顎を上げる。太刀はそれすら嬉しそうに食い入る様に眺めてただ笑った。



「今夜、儂の元にわざとウサギを潜り込ませた奴とお前の主は多分別の人間なんだろうなあ。どんな企みだったのかまでは流石に分からんが、これからお前にゆっくりと教えて貰おう。なあ、知らんうちに使い捨てられた、憐れな兵士よ」



太刀の左頬と亜栗鼠の右頬に蔵の外から射し込んだ朝日が当たる。亜栗鼠は夜明けを迎え、これから起こる自分のエピローグに絶望し、きつく目を瞑った。





 同じく北街の邪気寄席より西に『鯨』本部がある。


 夜府座から脱出した鱒翁ますおうら二十人弱の構成員が質素なモルタルの建物に到着したのは、鱚丞きすけら若者四人が西街の外れにある『木天蓼』本部から辻馬車で乗り付けるのとほぼ同時だった。



「……鱒翁さん、コイツがウサギです」



 鱚丞が強張った笑顔で紐で縛り上げた再兎さとを鱒翁の眼前に突き出す。

 

 再兎は染料の禿げた斑模様の髪の毛の間から怯えた赤い瞳を向けた。拘束の際に付いたのか、顔にいくつか痣が出来ている。


 鱒翁はウサギを捕まえて来た驚きよりも鱚丞や緋鰤たち若者の表情が興奮して何処か夢見心地なことに動揺した。



「鱚丞、皆、よくやりましたね。これで長年の魚種の雪辱を晴らすことが出来ます……! 『鯨』が王となって世を統べる日が来るのですよ!」



 戸惑う鱒翁よりも先に、美鹿みろくが声を震わせて若者たちを労った。見ると、眦に涙を溜めて感極まっている。


 周りを囲む『鯨』構成員たちも朝日を浴びながら小さな粗末な建物の前で輪になって喜びの吐息を漏らした。誰もがまだ信じられないといった様子で浮足立っている。


『鯨』は志の高さから極端な考えになることは多いが、元々平和主義者の集まりで暴力的な人間は居なかった筈だ。


 だが今、眼前の少女の悲惨な姿を見ても憐みを向ける者は誰もいない。鱒翁は権力を手に入れた者が豹変する瞬間を肌で感じていた。



「鱒翁さん、とりあえず物置部屋にバリケードを作ってそこをコイツの牢にしましょう」



 鱚丞の隣から慎牛が提案した。傷が痛々しい。緋鰤が濡らしたハンカチを当ててやっているが、慎牛の表情は喜々としていた。



「いや……」



 鱒翁とてウサギを手に入れられたことは嬉しい。けれどもこのウサギの妖力に当てられた雰囲気には危機感を覚えていた。


 誰も醜く変化せず、どうか高潔な『鯨』の同志のままで新たな世を作らせてくれ。鱒翁は祈る様な気持ちで口を開いた。



「あんた、名前はあるのか」



 鱒翁は縛り上げられた再兎の前に屈んで尋ねた。舞い上がって騒いでいた同志たちが水を差された様に静まり返ってその光景を凝視する。



「さ……再兎です」



 と小さな声が零れ落ちた。可愛らしい少女の声だ。その一言が、ここに居るのは血の通った者であるということを周囲に漸く気付かせていく。



「再兎か。ワシは鱒翁だ。ようこそ『鯨』へ。まずはワシら魚種のことをよく知っておくれ」



 長く社会主義者として闘ってきた鱒翁の声には権力への嫌悪が込められていた。


 ウサギを使って王になるのではなく、ウサギに『鯨』を通して魚種の差別や偏見、西街の貴族と暮らしてきた再兎の生活との雲泥の差を知って貰う事にした。


 その上で、ウサギが、神の意志が、何を選ぶのかを、誰を王にするのかを試してみたかった。



***





 西街の果て、『木天蓼マタタビ』本部もまた夜明けを迎えていた。


 聖堂と離れた場所に立つ別棟には、戒律を破った者や規律を乱した者が入るための牢がある。青猪あおいはその冷たい石床から再兎さとを想っていた。



 高い窓から射す細い光を見上げる。塔の入り口から螺旋階段で半地下に下った場所にあるこの場所からでは到底登れない高さだ。


 手枷はされていないが頑強な鉄格子には南京錠がかけられている。青猪は燕尾服の懐から護身用のナイフを取り出し鉄格子の根元に当てた。


 金属同士の擦れる嫌な音が誰も居ない塔に響き渡る。何もせずには居られず、青猪は瞳を真っ赤に充血させ、怒りに任せて鉄格子の埋まる石床を削り続けた。

 


 再兎を奪われた後、『くじら』と入れ違いで夜府座よふざから再兎を追ってきた『木天蓼』の武闘派が聖堂へ駆け込んできたことに気付いた『制空会せいくうかい』は、ウサギ不在の無意味な争いが起こる前に爆音を上げて去っていった。

 

 東狐とうことウサギ探しの密約を交わしていた青猪だったが、東狐の周りを守る様にして一般信徒たちが青猪を捕縛した。



「お待ちなさい。大使殿はわたくしと話を……」



「私たち『木天蓼』の使命は西街の王侯貴族に苦しめられてきた民を救うこと。何のつもりでこの聖堂の敷居を跨いだのかは存じ上げませんが、獅子王の直属の家臣が東狐様に近づくことは許しません」



 東狐の制止を無視し、信徒の女性の一人が護身用の木の棒を構え、強い語調で青猪に立ち向かった。その棒の先が震えているのを見つめながら、青猪は不快な油膜の様な物で自分の心が塞がれていくのを感じていた。


 それは、自分が身分でしか扱われないことへの落胆や、その身分すら今夜失った自分への不安と、幼い頃から捨てたかった筈のこの上級貴族という身分にしがみつこうとしている浅ましい自分への嫌悪だ。



「東狐様はどうお考えですか」



 青猪が小さな声で尋ねた。東狐は他の信徒たちに抱えられる様にして既に奥へ下がろうとしていて、青猪と東狐の間には武闘派一派の武装した信徒たちが割り入って来た。



「東狐様に話しかけるな。直接お答えを聞くまでも無い。お前は俺たち『木天蓼』がずっと憎んできたこの世の悪の一つだ」



「……僕は、再兎を……ウサギを取り返したいのです。形は少し変わりますが、ウサギを捕まえて東狐様を新たな王に据える協力を申し出ました」



 青猪は力無く言葉を続けた。無駄だと分かっていても再兎のことを思うと引き下がれない。



「お前ら貴族は金儲けと贅沢のことしか考えない。どんな魂胆があるのかは知らんが、汚い手で東狐様に擦り寄るな!」



「貴方の協力など無くとも、東狐様が王になることは神の意志です」



 震えていた信徒の女性も青猪に鋭い視線を向ける。縛られ、全方位から蔑まれながら青猪は投獄されたのだった。



 自力でこの塔から脱出できないとなると、信徒が様子を見に来た時に唆す他無い。強い疲労感に襲われ、青猪は燕尾服を脱ぎ、静かにその上に寝そべった。頭の中は再兎のことで一杯だった。



 長く自分を支配していた獅子王ししおうが、呆気なく崩御したことや、大切な友人だった馬綾まあやが自分と大きく袂を別っていたことも、遠い昔のことの様だ。


 今はただ再兎が、『鯨』でどんな扱いを受けているのかが心配だった。


 夜を明かしてしまったが、きちんと眠れたのか、そもそも寝床は貰えたのか、自分と同じ様に牢に入れられているかもしれない。


 産まれてから六年間、一度も一人で寝たことの無い再兎が、泣いているかもしれないと思うだけで胸が締め付けられて吐きそうになった。



「僕は、何だって、やるんだ」



 馬車の中で決めたことをもう一度呟いてみる。青猪には再兎しか居ない。


 親の愛を受けられず、友人を失い、青猪には愛されることも愛することも、再兎一人しか残されていない。


 遥か遠くの一筋の朝陽を見上げながら、やがて青猪は失望の瞳を力無く閉じた。


 冷たい床に横たわることも羽根布団に包まらずに眠ることも、生まれて初めてのことだった。

 


***




 太陽が随分昇り、街が薄ら明るくなってきた頃、会計を済ませた解禁夜の客たちで南街の社交場・胡蝶屋こちょうやの店前は溢れていた。


 一晩中客の相手をした世話役に代わり案内役たちが花道を作り、お見送り業に勤しむ。獅子王が崩御したことで商売の風向きが変わる者も多いのだろう。来た時とは違い夫婦揃って足早に帰途に就いている。


 賑やかな正面門とは逆に、裏口から静かに店を出る影があった。世話役の朱鷺とき、案内役の鳩兵衛きゅうべえ、そして浅葱色の髪の魚種の少年、とびである。



とび、もう陽が昇ってしまったから、社交場解禁夜の未成年外出禁止令は適用されない。夜間警察も来ないし、堂々と歩いて大丈夫だよ」

 


 鳩兵衛が優しく声をかけるのに曖昧に相槌を打ち、飛は何度も胡蝶屋を振り返った。


 そこにはまだ牡丹ぼたんが居る。昨夜狂った様に暴れた後から一度も目覚めて居ない。王権に興味は無いが牡丹からは離れがたかった。



「……しゅうさんにくれてやるって言ってたけど、やっぱりウサギってやつが惜しくなったか?」



 朱鷺が茶化して飛を小突いた。口調から気遣いが伝わる。飛が伝説の再来のウサギではなく牡丹という少女に未練を残していることは朱鷺も鳩兵衛も理解していた。


 それでも二人は胡蝶屋の人間として若旦那の意向に背くことは出来ない。それは飛も同じで、母の居る胡蝶屋に迷惑を掛けたくないという思いだけで牡丹を置いて外へ出たのだった。



「……また、牡丹に会いに行ってもいいですか。今度はちゃんと昼間に行きます」



 街境の団子屋まで送られ、そこから一人で北街に入る直前、飛はようやくそれだけ絞り出した。鳩兵衛は困った様に頷き、朱鷺は飛の背中をパンパン、と二度叩いて南街へ戻っていった。




 美食堂びしょくどうまでの道の途中で、邪気寄席ざけよせの近くを通りかかった。家に帰ろうとする大勢の客の中に血相を変えて走り回る鯒家こちやの姿を見つけた。



「……親父?」



 本来ならば仕入れで市場に行っている時間だ。飛はあまりに驚いて声を掛けられずに棒立ちになった。


 よく見ていると客の前に回り込んでは何かを話しかけ、邪見にされたり首を横に振られたりしている。見たことの無い様子の父親に怯えながら、飛はおずおずと近づいた。



「俺と同じ髪の色をした十より少し大きい子供を見なかったか? 」



「邪気寄席に潜り込んだらしいんだ、知らないか? 俺の息子なんだ」



 傍に寄ると、父親が人を捕まえて自分を探しているのだと気付いた。仕入れを他人に任せたのだろうか。飛には信じられなかった。 



「飛! お前こんなとこに居たのかっ!」



 突然背後から声を掛けられ、ビクッと振り向くと、そこにはうぐいの父親の亨鮃きょうへいが立っていた。息せき切って走ってきた様子で、驚いて二の句が継げない飛をガバッと抱き締め、



「ああもう、心配かけるなよ!」



 と嘆息した。



「鯒家! ここだ!」



 亨鮃が向こう通りに大きく手を振る。振り向いた鯒家が飛を見つけた時の顔を、飛はこの先一生忘れないだろうと思った。浅葱色の下の額は汗だくで、いつも厳しい目元は赤らみ、薄っすらと涙を浮かべていた。



「悪かったな亨鮃。倅が迷惑かけて」



「馬鹿野郎。水臭えこと言うな」



 頭を下げた鯒家に飛をグイッと押し付け、亨鮃は鯒家の背中を擦った。飛は鯒家を見上げた。鯒家は心底安堵したという顔で、ただ飛を見つめ返してきた。



「……心配かけて、ごめん」



 ぺこりと頭を下げる。その丸い頭を鯒家は大きな手で撫でた。


 撫でられた瞬間、強張っていた父親への猜疑心が丸ごと抉り取られたかの様に、飛の目からぼろぼろと大粒の涙が零れ落ちた。

 


 厨房に入ってから、鯒家は父ではなくなった。


 板前の師匠であり、美食堂の経営者でしかなかった。


 こんな風に触れられたのはいつ以来だろうか。飛は前夜の騒動で緊張しきっていた心も手伝って、苦しくなるくらい喜びで満たされていった。



「無事で良かった」



 鯒家はもう一度ゆっくりと味わう様に息子の頭を撫でた。


 鯒家もまた、長い間封じ込めて来た愛情という感情が自分にもまだこんなにも残っていたのかという驚きを噛み締めていた。






〈前編・了〉

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