第44話 百花
邪気寄席で搬入の仕事をしている下っ端の一人に
Pは獅子王に命じられた貴族の尻拭いや汚れ仕事をこなす度に、各街の貧民や裏社会の人間と顔馴染みになっていった。古背はその一人で、貴族に手頃な奴隷を宛てがったりブローカーを紹介したりする際に利用していた。
大瑠璃からウサギの話を聞いた後、犬遊はそのことを東狐へ報告せず、自分たちだけで匿うと言った。Pは特に反駁せず、犬遊の指示通り西街と北街の境にある山間部に住む古背にウサギを預けることに決めた。
何人かの『当て』から古背を選んだのは、この四十路過ぎのくたびれた男が妻子持ちで五人も幼い子供を抱えているからだ。
大人だけの家に匿われるよりは薄灰色の頭髪の子供たちに混ざる方が情報としてぼやけるのではないだろうかとPは算段していた。
東狐ではなく馬綾をいずれ王に据えたいと思っているPにとって、テロの当日にウサギを太刀の元へ送るという大瑠璃の妙案は実に都合が良かった。
犬遊の言いなりになっていては獅子王の死後すぐに東狐が王になってしまうが、この案は上手くいけば太刀を毒殺した後にウサギを持て余す大瑠璃から譲渡してもらって馬綾を王にすることが可能だ。
もしも太刀が王になってしまったとしてもどのみち難癖をつけて『木天蓼』はそれを新たな王とは認めず、殺しに行くだろう。犬遊が東狐以外の王を認めることは絶対に無いからだ。
『木天蓼』の代表と言われている東狐は実質犬遊の傀儡と化していて、神の託宣を受けることはあっても指導者としての資質はまるで無い。『木天蓼』の演説などは全て犬遊が演出していることをPは知っている。
宗教組織を持ってしても神の存在なんてものは人の私利私欲の為にいくらでも都合よく解釈を違えられるものだ。
大瑠璃の指定した長屋で柄の悪い男たちに礼金を渡し人払いをした後で、Pは床に横たわって虚ろな瞳を向ける白髪の少女をズタ袋へ入れた。
山岳地帯の住民と同じ様な農夫の格好でそのまま古背の家へと向かう。
道中騒がれては困ると念のために布の轡を噛ませたが、袋からは微かな息遣いの他には何も聞こえなかった。
痩せ細り汚れた身体をしたウサギは人の姿をしている。
奴隷の売買に慣れているPでも、その袋をなるべく優しく抱えるくらいには同情した。
冴えない中年男である古背は貧相な身体を弾ませて新しい仕事を歓迎した。家の奥の暗がりには固まって眠る幼い子供たちと同じく中年の妻が居た。
古背の妻は
貧しい者同士で結婚した上に娯楽の無いこの街では珍しくない子沢山の家庭だ。子供が腹を満たせるならと妻が夜な夜な身体を売りに行くことを古背は黙認していた。
その稼ぎを足しても貧困からは抜け出せない暮らしだからだ。
そしてPもそのことを知っていて、これが預け先を古背の家に決めたもう一つの理由だった。
高等教育を受けていない者たちはウサギのことを知らない為、Pは奇形の子供を一人預かってほしいとだけ依頼した。但し、三年後商売女として高値で売るために今から仕込んでほしいとも付け足した。
「……こんな小さな子供を」
ズタ袋を覗き込んだ氷魚は力無くそう呟き、金の交渉に入った夫の後ろでそれ以後一言も口を開かなかった。
その後三年間の暮らしぶりはPも詳しくは知らない。王宮と『木天蓼』から隠れ、犬遊にすら真の目的を知られぬ様にする為には出来るだけウサギと距離を置く他無かったからだ。
ウサギは身体を売りに行く仕事以外は、他の子供たちと同じ様に育てられた。老婆の家の暮らしとは天地の差だったろうが、金が入ればすぐに遊びに行ってしまう古背の家にも余裕は無く、一日二食ほど葉物の入った粥を舐める貧しい暮らしに変わりはなかった。
折を見て三ヶ月に一度ほどPが来訪すると、氷魚は髪の毛の染料を欲しがった。南街にしか無い技術で高価なものなのでたまにしか渡すことが出来なかったが、氷魚はそれをウサギの白髪に塗り、おさげにして耳を隠し、商売に連れていくと言う。
瞳と同じ赤に染めれば、一見鳥種の様に見え、白髪の時の様に暴力を振るわれたり身体を傷つけて楽しむ様な酷い客はつかないのだそうだ。
「この子……名前は無いの?」
預けて半年ほど経った頃のことだ。氷魚が受け取った染料の袋を掌で大事そうに揉みながらふと、Pに訊いた。
金を受け取って上機嫌で酒を呑む古背に家の中の子供たちを任せ、氷魚は傍らでしゃがみ込むウサギを見遣った。
「……孤児なんです」
Pが答える。西日が山間の奥のこの家の玄関口にも差して、氷魚の煤けた頬を橙に染める。眩しそうに目を細め、彼女は静かに二、三度頷いた。
木の棒で土いじりをしているウサギは、そこに遊びで文字を書くことも出来ない。最低限の教育を受けて居ないということは自分たち以下の生活をしてきた証だ。氷魚も薄々気付いていた。
「私が付けても良い?」
「勿論です。何か良い名前をもう思いついているのですか?」
Pが眼鏡を掛け直し、にっこりと愛想笑いをすると、氷魚は少し困った様に俯いた。
「……牡丹、ていうのはどうかと思って。髪の色と目の色、両方、私には綺麗だと感じるから」
思ってもみなかった美しい名前に思わず息を飲んだPが、まじまじと氷魚を見返すと、氷魚は少し灯っていた知性の色を消して、また薄汚れた中年女の顔をした。
「まあ……不便だからさ、呼び名が無いと」
かつて学ぶことが楽しくて仕方なかった。
山間の小さな学校で過ごした九年間は氷魚にとって人生最高の時間だった。
自分がどういう身分の人間で、どういう暮らしをしていく運命にあるのか理解していたからこそ、燦然と輝く美しい毎日だった。
今でもあの頃のことを時々思い返しては、一人こっそりと噛み締めて余韻に浸る。
「百花の王が獅子を殺すか。縁起の良い名前だ。どうぞ呼んでやって下さい」
Pが諦めた顔をしている氷魚にそう言って含み笑いをした。
獅子王の悪政に対する冗談を額面通りに受け取り、氷魚も相好を崩す。誰かに聞かれたら打ち首になる陰口が自分の不遇を少し軽くした気がした。
氷魚は会釈してウサギ――牡丹の隣にしゃがみ込み、顔を覗いた。
「おまえの名前は今日から牡丹だよ」
小さな鼻を人差し指でつつくと、大きな赤い瞳が氷魚をじっと見つめた。
「ぼ、た、ん」
「そう。きれいな花の名前」
氷魚が寂しそうに笑うと、牡丹も口の端を少しだけ上げた。
牡丹は山間部の土の上で、夕陽に照らされながら自分の名前を受け取った。
食べるものは少なく、分からないことばかりで、裸に剥かれて知らない男たちに痛いことをされる毎日だったが、氷魚は牡丹を殴らなかったから、牡丹はそれが嬉しかった。
人に優しくされたことの無い生で、初めて自分を慈しんでくれる人に出会った。
たとえ氷魚が、牡丹と同じ年頃の自分の娘には客を取らせないとしても、何とも思わなかった。嫉妬など牡丹の心には持ち合わせがない。
それよりも、客からたまにもらえる菓子を実子と同じ様に自分にも分けてくれることや、仕事が終わった後、川で身体を綺麗に洗ってくれることの方が牡丹の心に強く残った。
それは、自分を殴って苦しめて死んでいった老婆への憎しみの記憶と相対する様に、牡丹の中に新しい感情を芽生えさせていったのだった。
***
三年の間、Pは金や髪の染料の他に、いつもある物を渡して帰って行った。
日光を通さない茶色の小瓶に少量だけ入った液体だ。とろみがあり、蓋を開けると強く甘い香りが広がる。Pはいつも古背が手土産の酒に酔い潰れて寝てしまってから、氷魚に手渡しした。
「これはとても高価な薬ですが、もしかしたらこの子の長い耳を縮める効果があるかもしれないのです。いずれ売ることが決まっている子供とはいえ、少しでも良い条件の暮らしをさせてやりたい。一滴だけ布に滲み込ませた物を、毎晩寝る前に嗅がせてやって下さい」
Pは神妙に頭を下げ、心底気の毒そうな顔でそう頼んだ。
健康な人間には劇薬だということで、氷魚は毎晩屋外に出てから瓶の蓋を開け、甲斐甲斐しく牡丹に嗅がせてやった。
これを嗅ぐと牡丹は白目を剥き、一瞬で深い眠りに就く。初めは驚いたが、次に薬を受け取る頃には身体が慣れてきたのか、もう気を失うことは無くなり、嗅がせた後は薄ぼんやりとしてから気持ちよさそうに眠る様になっていた。
「よく薬が効いている証拠ですね。心なしか耳が短くなってきた気もします」
Pはそう笑って少しずつ量の増えていく瓶を渡し続けた。高価だが手に入りやすいルートを見つけたので、与える量も増やして良いと氷魚に告げた。
そう言われてみると、牡丹の耳が縮んだ様に見える気もして、氷魚もせっせと薬を吸わせ続けた。
三年、徐々に増量した薬を吸い続け、牡丹の身体は少しずつ変化した。
二倍の速さで歳を取るウサギの身体は新陳代謝も免疫を獲得するのも常人の比ではない。牡丹はPの渡した液体の成分が血中を巡り身体を蝕むよりも早く耐性を付けていった。
この液体は、庭師見習いだった頃からPが王宮の庭園の片隅で育てている花の成分を抽出したものだ。
白い漏斗の形をした花は傍を通っただけでも強い芳香を放つので、王宮から最も離れた場所に植えられ、見習いが世話をすることになっている。
名目としてはお抱えの医師が王族の麻酔や鎮痛の為に使用する為とあるが、実際は高値で貴族に売り捌く為に王宮が独占して栽培している植物だ。
花の名は曼荼羅華。通称ダチュラ。
上級貴族たちは催淫剤としてこれを高値で買い、ひとときの幻覚に浸る。
初めはPが牡丹にさせた様に花の成分をほんの少し吸う。やがて葉を乾燥させて刻んだものや根の粉末を血液に入れる様にまでなると、その強い毒性に身体が保たずに死んでしまう。
Pは長い間これを貴族たちに売り捌いてきた。そこで分かったことは、一夜の楽しみに使うには問題ないが、薬の魔力に憑りつかれた常用者はもれなく早死にするということだ。
北街の太刀は、齢七十を超えている。裏社会を取り仕切っている男であるからダチュラの存在は勿論知っているだろうし、王宮がその市場を独占していることに不満を抱えているだろう。
但し、年齢から察するに常用者でないことは確実だった。
耐性が常人の数倍付いた牡丹の身体は、常用者でない太刀にとって致死量となるダチュラの毒を仕込んでも、恐らく死ぬことは無い。
種も栽培方法も隠匿されてきた曼荼羅華は王宮の庭師以外、取り扱うことも出来ない植物だ。太刀も成分を抽出した商品を目にしたことはあっても、花や葉そのものの形は知り得ない。
Pは太刀を殺すため、牡丹の身体にこの花を埋め込むことを決めていた。
革命前夜、闇に紛れて山間部の小さな家の戸を叩いたのは随分遅い時間だった。翌日が社交場解禁夜ということもあり、準備で普段よりも働かされていた古背は機嫌が悪かった。
「おめえよぉ、三年も面倒見たんだぜ。それを突然、明日邪気寄席の檻に紛れ込ませて来いだぁ? そりゃ随分急な話じゃねえか。女房も子供らも寂しがるだろうが」
安酒に酔って管を巻き、Pの肩を引き寄せると据わった目で詰る。
「見つかりゃ俺は殺される。そしたらコイツらどうすんだよ、責任とってくれんのかぁ?」
「やめなよアンタ。元からそういう約束だったんだから」
隅に固まって眠る子供たちを庇う様にして、氷魚が小声で窘めたが、古背はうるせえ、と赤ら顔で叫んだ。
金をせびられているということは理解していたがPには持ち合わせが無かった。
この一家に渡してきた分と髪の染料の代金で大瑠璃からPが受け取った金は殆ど使ってしまったし、犬遊が受け取った分の金は『木天蓼』の方で武器や車を調達するのに使い果たしている筈だ。
「……では、特別にこれをお渡しします」
逡巡の後、焦っていたPはポケットから金時計を取り出した。馬綾の執事に代々受け継がれるそれは、小さな懐中時計だが少量の金を含むメッキが施されている。
蓋に王宮の刻印が彫られており、高等教育を受けた者が見れば一目で獅子王からの恩賜の品だと気付く。Pの私物の中で最も高価で、生涯唯一父親から受け取った物であった。
「なんだ……こりゃ、金で出来てるのか、初めて見る……」
古背はいきなり差し出された高価な品に目を丸くし、呆気に取られた様子で呟いた。一気に酔いが醒めたのか、Pに対する態度もまたいつもの様に腰が低くなる。
「へへ、旦那も人が悪いや。こんな凄えもんをくれる気があるなら初めから言ってくれりゃ良いのに」
「……こんなもの、売ったら幾らになるか……」
隣で氷魚も唾を飲み込んだ。
王宮の刻印が入った物など、本来ならば絶対に渡してはならない。そこから足が着き、あっという間に素性が暴かれてしまうからだ。
Pは王宮にも『木天蓼』にも嘘を吐いて動いている。この金時計を古背が獣種の金持ちにでも売り捌けば、直ぐにどちらかの組織に殺されるだろう。
「何年か、ご家族みんなで働かずに暮らせますよ」
Pは穏やかな気持ちで時計を手渡した。自分でも驚くほど優しい声が漏れた。
この聖戦が全うされれば自分の命などどうでも良い。その後のことは何も考えられなかった。
獅子王を殺す。そして太刀を殺す。牡丹を大瑠璃から譲り受け、馬綾を王に出来れば、その後全てが明るみになり誰かに寝首を掻かれようとも本望だ。
「事情があってこの様な形で牡丹を売ることになりましたが、最後のお別れをさせて下さい」
Pはまた心苦しそうな顔をして頭を下げた。赤くなった鼻を啜りながら、氷魚が良く眠る牡丹を揺らして起こした。
牡丹は今夜も薬を吸ったのだろう。朦朧としながら千鳥足でPの元へ歩み寄った。何が起こっているのか理解していない様子だ。
少しだけ二人にしてほしいと牡丹を連れて外へ出る。そして、家の前の木の幹に牡丹の身体を押し付け、Pは懐から小さく折り畳まれた白い物を取り出す。
「失礼」
小さく呟き、Pの唇が牡丹の口全体を覆う様に食んだ。驚いた牡丹が眉を微かに上げるのと同時に、股を膝で割り、下着のその奥へ白い物をグイッと押し込む。
濡れていない膣に異物と指を押し込まれ、牡丹はPの口腔に鋭い叫び声を上げたが、使い込まれたそこは徐々に泥濘み、指を抜く頃には痛みは消えていた。
「お前はこれから、暴れたり叫んだりせず、着いて来いと言われたら大人しく着いていくんだ。いいな」
Pは牡丹の長い耳の奥に直接声を吹き込み、再び朦朧として膝を折った牡丹の身体をしっかりと抱き留めた。
膣の奥に仕込んだ物は、蝋で固めたダチュラの花弁だ。この蝋が体温で溶ける頃、運が良ければ太刀は牡丹を抱いているだろう。
匂いを嗅ぐだけで脳を痺れさせる劇薬だ。免疫の無い者の粘膜に実物が触れれば数刻の内に絶命する。
吐き気のする様な行為に青い顔をしながらPは家の中で待つ古背と氷魚に牡丹を預け、足早に山を下りた。帰り道、右手の人差し指と中指に鋭い痛みを伴う痺れを感じだし、辻馬車に乗り込む頃にはその痛みが右手首にまで及んでいた。
手を広げてみると熱を持ち、赤く腫れているのが暗がりの中でも確認できた。僅かに粘膜に触れただけで牡丹の中に蓄積した毒が滲みだしたのか、それとも花弁の蝋が少し溶けたのかは判らない。
それでもこれが、この痛みが、少女の姿をした神の意志に自分が行ったことの天罰であれば良いと、Pはきつく目を瞑り明日を想った。
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