第43話 奸計
そもそも王宮は二匹のウサギを掌握しており、その一匹はサライの大使が生活区で育てている。
『木天蓼』では犬遊一人がウサギに関する情報を保持しており、武闘派仲間にも東狐にも共有されていない。
P自身も東狐に忠誠を誓う他の信者たちとは違うので、自分の情報が犬遊の元で留まっていることに関して何も言わなかった。
獅子王を殺す一番の近道は犬遊に与することだと考えていたからだ。
「王宮は鹿錬貴家の管理する児童養護施設の一つにウサギを紛れ込ませていると考えているそうだが、駱仁様が亡くなった後に確認しているのか定かではない。少なくともわたしが管理を引き継いでいることは知らない筈だ。王宮の遣いが来たことは一度も無い」
大瑠璃の言葉を受け、Pも頷いた。
「ウサギの件を知る者は王宮でもごく限られた人間だけの様です。今回の鹿錬貴邸襲撃の後、王宮騎士団の団長のみが
「ウサギをこれ以上匿い続けることは難しい。だが王宮の極秘事項に無断で関わっていたことを邪推され陛下のお怒りを買う可能性が高い。わたし一人ならまだしも胡蝶屋が火の粉を被ることは何としても避けたい」
Pが小さく頷く。
「縁者の私を介して弁解の場を設けられないか、というご相談だったのですね」
「おいおい、まさか折角手に入れた獅子王のアキレス腱を手放そうっていうのか」
仄暗い小屋の中でも分かるほどの苛立ちを滲ませて、犬遊が大瑠璃を睨みつけた。
「この機を逃してどうする。胡蝶屋は鹿錬貴だけじゃなく猿女にも恩があるだろ」
「……どういうことだ?」
「
床に置かれた二つの灯が風も無いのにユラリと靡いた。
「俺と兄貴がそれを知った記録には、大瑠璃の名も載っていた。つまり
大瑠璃は、自分の血筋の遥か彼方からの伝言を受け取った様な底知れぬ運命を感じていた。
自分がここから先の胡蝶屋の未来を決定づける分岐点に立っていることを自覚せざるを得なかった。
「……わたしには、南の社交場としての胡蝶屋を、その従業員の雇用を守る義務がある」
膝に置いた拳の隙間からじっとりと汗が溢れ出すのを感じながら大瑠璃は続ける。
「このままウサギを匿い続けていたら、鹿錬貴邸の様に、今度は胡蝶屋が襲われるかもしれない」
大瑠璃の静かな声をPと犬遊は黙って聞いていた。確信めいたものを感じながら、犬遊はPを「あと一押しだ」とでも言う様に一瞥する。
「太刀は獅子王と繋がっています。不正に行われた社交場の交代だけではなく、人身売買が北街で当然の様に横行していることも、夜間警察が獅子王を怖れて邪気寄席を取り締まらないことも公然の秘密です。太刀は胡蝶屋を急襲しウサギを奪うだけに留まらず、そのウサギを我が物にする為に大瑠璃様がウサギを隠匿していると獅子王に報告するでしょう」
Pの言葉に眉を顰めた大瑠璃を窺いながら犬遊が口を開く。
「王宮と鹿錬貴の二代目しか知らなかった筈のウサギのことを嗅ぎ付けたこと自体、太刀が相当な情報網を持ってることを意味してる。鹿錬貴家の駒の一つにあんたが居ることくらい容易に辿り着くだろうよ。獅子王との面会を取り付けようもんならウサギを横取りしたい太刀が素っ飛んできて、胡蝶屋全員皆殺しだ」
大瑠璃が床の灯りを見つめながら黙り込んでじっと考えを巡らせている。どちらに舵を切るかの覚悟を決めなくてはならないことは明白だった。
「あんたは鹿錬貴家からウサギを預かった時点でもう造反者だ。今更獅子王側に付くことは出来ない」
「しかし胡蝶屋を守る道はあります。貴方の大切なものを脅かす存在を排除すれば良いのです。獅子王も、太刀も」
Pがそう囁くと大瑠璃は顔を上げた。脂汗の浮かんだ顔は青ざめている。
「悪は、消せばいい。俺たちにはその準備がある。どうだ、一枚噛む気になったか?」
犬遊が止めを刺して薄く嗤う。
大瑠璃はようやく覚悟を決め、ゆっくりと握りしめた拳を開いた。
「……三年後、陛下は在位百八年目を迎える。こちらのウサギが予備だとすれば、恐らくその時、サライの大使が飼っているウサギを呼び寄せる筈だ」
大瑠璃は懐から小さな数珠を取り出す。先祖代々大切に守ってきた菩提樹の御守りだ。
猿女君に祈りを捧げる気持ちでそれを手で転がしながら心をゆっくりと落ち着けていった。
「かつて猿女君と共に居た善のウサギは初代獅子王を擁立した悪のウサギによって惨殺されている。考えるに、獅子王の長い在位は新たなウサギを殺すことで続いている筈だ」
犬遊は小さく頷く。
「若いウサギの血肉を食べて力を保つらしいと奥の間付の侍女から聞きました」
Pが答えると、大瑠璃は合点がいった様に溜め息を一つ吐いた。
「百八という数は、神の力つまりウサギの力を最も強くする数だとかつて猿女君がわたしたち歴代の大瑠璃に教えてくれた。百年を超えた王位を保つ為にはウサギの妖力がいくらでも欲しい筈だ。だからこそ、不吉な双子ですら生かして飼っている。若いウサギの血肉を最も効率よく取り込むとしたら、百八年目という好機を逃す手は無いだろう。王宮がウサギをもう一匹飼っている限り、陛下を倒しても再び後継者が立つだけだ。百八年目のその時、陛下も、後継者も、現在のウサギも新たなウサギも、一網打尽にせねばなるまい」
大瑠璃の言葉は、それを待ち望んでいた筈の犬遊とPに、獅子王抹殺の現実味を強く突きつけた。
Pは後継者への言及に眩暈を覚えながら、今はこの計画の全容を知る立場であることを優先した。
「同時に太刀も、ですね」
「これはまた、デカい戦争になりそうだな」
犬遊が心底愉快そうに弾んだ声を出した。ふ、と床の提灯の灯りが消え、中の蝋燭が終わるほど長い時間が経ったことを三人に教える。
「金はこちらが出そう。但し、胡蝶屋の人間は一人も貸せない。兵は『木天蓼』で出せ」
静かに立ち上がり、丸太小屋の開き戸を開ける。
月はもう随分と傾き、夜明けの近さを物語っていた。
***
大瑠璃が一番恐れていることは、駱仁の元にウサギが居たことを知っている太刀が行方を追って胡蝶屋へたどり着くことだ。
そこで犬遊は、胡蝶屋とは無関係な山岳地帯に暮らす貧しい魚種の人間を雇ってウサギを育てさせることを提案した。
西街と北街の境にある山岳地帯には獣種と魚種が入り交じって生活しており、混血児も多い。特殊な毛色のウサギや獣種の外見を持つ者が訪れても悪目立ちせず、しかも胡蝶屋のある南街とは遠い場所だ。
「何故魚種なんだ」
大瑠璃が長屋の老婆を選んだ様に、同じ種族間の方が信頼関係が強く秘密が守られる。しかし犬遊は首を振った。
「貧しい獣種に預けたら、金が入用になった時に獣種の金持ちに法外な値段で売っ払う可能性が高い。珍しい外見の女を欲しがるのは太刀だけじゃないからな。だが、魚種は北街の掟を知っている。邪気寄席を通さずに人身売買をした場合、太刀の手下が何処まででも追ってきて酷い目に遭うことが分かっている。邪気寄席以外に売る相手が居ないから、俺たちが渡す程度の金でも浮気せず仕事してくれるだろう」
「頼める当てはあるのか」
「何人か」
Pが頭を下げた。
「しかし大瑠璃様だけではなく、『木天蓼』にとっても太刀は危険な存在です。社交場の権利を獅子王から金で買ったという噂もありますから、経済力も相当あるでしょう。この山岳地帯は胡蝶屋からは遠いですが、逆に言えば邪気寄席には近い。ウサギの行方が大瑠璃様から足が付くことを考えれば致し方ないとはいえ、今まで以上に用心しなければなりません」
犬遊が身を乗り出して大瑠璃を覗き込む。
「胡蝶屋と『木天蓼』が共謀しているとは流石の太刀でも分からないだろう。たが決行日に首尾よく獅子王とその番のウサギを殺せたとして、横から王権を掻っ攫われたら意味が無い。蜂起の後、間を置かずに太刀とやり合うしかないだろうな」
駱仁から譲り受けた遺産を使えば『木天蓼』の後援は出来る。
しかし、ウサギの取り合いになった場合は、社交場である邪気寄席の人手には勝てないだろうと大瑠璃は思った。
一部に過激な武闘派が居るとはいえ、『木天蓼』は迫害されながら細々と活動する宗教団体に過ぎない。
「……いっそ、ウサギなど渡してしまえば良いじゃないか」
大瑠璃はうんざりして呟いた。犬遊が呆れた顔で肩を竦める。
「おいおい、自棄になるなよ。それじゃああんたの大事な猿女君を王に出来ないぜ」
「……そもそも、東狐は王になるということがどういうことか理解しているのか?」
ウサギの力で王位と共に人の域を超えた寿命と若さを得る。しかし徐々に正常な判断力を失い、身も心もウサギの傀儡となる。ある意味で呪いを引き受けるということだ。
大瑠璃は先祖代々隠れて信仰してきた猿女君を崇める気持ちはあったが、その子孫を次の王に据えることに関しては関心が薄かった。
「大瑠璃さん、ここで重要なのは、真に王となる筈だった者がこの世を統べるということだ。猿女の血筋を引く東狐がこの世の中を巻き戻し、長い偽りの時代を修正するということが大事なんだ」
犬遊は沼底の様な真っ黒な瞳で大瑠璃をピタリと見つめ、瞬きもせずに言い放った。
大切なのは、自分が、家族が、ひいては偽りの王によって苦しむ全ての民が舐めた辛酸を無かったことにするということだ。
犬遊にとって東狐やその意思などはどうでも良い事だった。
「……では、その厄介なウサギを使って太刀を殺すというのはどうでしょう」
ふと、Pが声を上げた。
「ここから三年は山岳地帯でウサギを匿えたとして、獅子王を討った後に血眼でウサギを探す太刀とやり合うよりも、獅子王と同時に太刀を討つ方が安全でしょう」
「同時にと言っても『木天蓼』の人間で動ける武闘派はせいぜい三十だ。王宮へ全勢力を注ぎ込まなければ獅子王は倒せないぞ」
怪訝な顔をする犬遊に手を挙げて制し、Pは思案しながらゆっくり言葉を繋ぐ。
「ですから……例えば、ウサギ自身を暗殺者に仕立てる……ということは出来ませんか?」
「待てよ。大瑠璃さんの話じゃウサギは少女なんだろ? 太刀自身も身体がデカいし、他にも取り巻きが何人も脇を固めてる。そんな小さな娘に何が出来る」
犬遊が鼻で笑う。その横で大瑠璃はお椋のことを思い出していた。
お椋が胡蝶屋に入る際、身の上話を全て話してもらったことがある。お椋は確か十歳で太刀の寝室に呼ばれる様になったと言っていた。
ウサギの外見は三年後、十二歳ほどになる。
「……王宮を襲撃する日、太刀の元にウサギを送る。邪気寄席の商品に紛れてでも良いだろう。その方が自然かもしれん。太刀は駱仁様の元からこの世の何処かにウサギが隠されているということを知って居るから、自分の手元にウサギの特徴と同じ異形が現れればすぐに気付くだろう。そしてまずすることは何だと思う?」
やや興奮しながら捲し立てる大瑠璃に首を傾げ、犬遊が先を促した。
「あの男は、女を服従させる為に、屈服させて身体と心を支配する為に、まず自分の褥に上げる。そういう男だ」
Pが口元を静かに覆った。
「つまり、俺たちでウサギの身体に毒を仕込み、太刀を腹上死させるということか?」
表情に一切の余裕を失くした犬遊が、そう呟いて生唾を飲んだ。
三人の間に僅かな沈黙が流れる。異形とはいえ人の姿をした者に、神の意志と言われる存在に、その様な暴虐と恥辱を強いても良いのか逡巡していた。
最初に静寂を裂いたのはPだった。
「大胆な作戦ですが、獅子王の死後に警戒心の強まった太刀とやり合うよりはこちらの消耗が少ない。試す価値はあります」
「……試すと言ったって、もしも太刀がウサギに手を出さなければ、獅子王が死んだ瞬間に新たな王に選ばれるかもしれない。リスクが高すぎる」
犬遊が眉間に皺を寄せ首を横に振る。だが大瑠璃は引き下がらなかった。
「そうなれば当初の予定通り王宮襲撃の後日、太刀を討てば良い。単純に太刀を殺す手数を増やすだけの策だ」
「一度誰かを王にしてしまったら、そのウサギも殺さなければならなくなる。ウサギを生み出す神の力はもう相当弱まっていて、獅子王の王位百年目に新たなウサギが出現せず代替わりしなかったのもその所為だと託宣を受けている。サライの大使に飼われてるウサギと、大瑠璃さんが飼ってるウサギ、新たなウサギはもうそれで最後になるかもしれないんだ」
犬遊が思わず立ち上がって大瑠璃を見下ろす。
「どっちも殺してしまったらこの世はどうなる? 真の王から王位を奪うことになり、再び太古の世の様な混迷が訪れるぞ。そうなれば俺たちは獅子王以下の大罪人だ。そんな賭けは出来ない」
カンテラの灯が床を照らすだけの暗い小屋に強い緊張が走った。大瑠璃は犬遊から全く視線を外さずに、同じく立ち上がって真正面から対峙した。
金春色の美しい瞳が湖面の様に静かに獣種の高い痩躯を見上げる。
「この世はもう充分、混迷を極めている。民は苦しみ、獅子王に作られた貧しさで死んでいく」
大瑠璃が獅子王を呼び捨てにしたのはこのときが初めてだった。
「大罪人? 結構じゃないか。例え王という存在自体を失ったとしても、悪政が去れば人は寄り添い知恵を出し合ってどうとでも生きていける。肝心なのは悪の排除だ。『木天蓼』よ、己が身の可愛さに躊躇していて霖雨創生の光となれるのか」
「何が民草の為だ……」
犬遊には解っていた。
大言壮語の詭弁を語っているが、大瑠璃はウサギなど全部死に絶えても良いと考えている。恐らく駱仁という鹿錬貴家の当主も同じ考えだ。だからこそ他人に簡単にウサギを預けたりする。
人の世は人が作れば良いと考えている人間が一定数存在することは犬遊も知っていた。大瑠璃は今、胡蝶屋にとって最も危険な太刀という男を殺す確率を上げることしか考えていない。
毒を仕込んだウサギが太刀を殺せば御の字、失敗して太刀が王になったところで『木天蓼』を使って太刀とウサギ両方を殺せればそれで良いのだ。
しかし犬遊は違う。犬遊は、どうしても東狐を新たな王に据えて世の中を修正したかった。
獅子王という偽王を倒し、本来猿女君が担う筈だった真の世の中をどうしても見てみたいのだ。獅子王の統治した世の先などは、たとえ泰平であったとしても見たくない。
時を巻き戻し、枝分かれした世界線の向こうへ行きたい。
そこには、偽王に仕えて来た代々の先祖も、惨めに処刑された父や野垂れ死んだ母や、乞食に成り下がった自分も存在しない。
裸に剥かれ公衆の面前で腐り落ちて死んだ兄の記憶も塗り潰して消し去れる。
「俺は、その案には乗らない。拒絶する」
犬遊がきっぱりと答えた。大瑠璃は言い包められなかった自分に内心舌を打ちながら
「資金援助を辞めると言ってもか?」
と食い下がった。しかし犬遊は一度頷き、口も開かなくなった。
「……分かった。確かにあまりにも乱暴な案だったな。これは忘れてくれ」
大瑠璃がまるで根負けしたという様に肩を竦め、この話は終わったかに思えた。
三人がこの夜決めたことは、ウサギを山岳地帯のPの息の掛かった者に匿わせること、大瑠璃が『木天蓼』に資金援助をすること、そして東狐を次の王にする為にウサギを使うことだ。
夜明けの寸前に大瑠璃と『木天蓼』二人は元居た美しい河原で別れた。別れの間際、大瑠璃はPに微かに目配せした。
Pはそれに犬遊が気付いていないことを確認すると、ゆっくりと左目のまばたきで返事をした。
持って産まれた本物の瞳ではなく、大瑠璃に買い与えられた義眼の嵌った瞼で合図をするということ。
それは是で応えるということだ。
ウサギを太刀の元へ送るという大瑠璃の案に、協力するということを意味していた。
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