第41話 老婆
夜中にこっそりと運んだ先は、南街の河川敷にある貧民長屋の端の部屋で、そこには枯れ枝の様な身体をした老婆が一人、暮らしているのを知っていた。
「お袋さん。邪魔するよ」
腹を空かせた貧民たちが早々に寝静まった頃、大瑠璃が尋ねると、老婆は億劫そうに身体を起こして戸の無い玄関へ這う様にして寄ってきた。
「これはこれは
老婆は、ぼさぼさの黄土色の髪を申し訳程度に一つに括り、薄汚れて何色かも分からない着物の襟を直した。
「今夜は何を持ってきて下さったんですか。アタシはもう、何日も禄に食べてなくてねえ」
媚びを売る様に上目遣いで見上げる眼差しは皺皺の皮膚に囲まれ、醜い。それでもかつて若かりし頃は、そうして食ってきたのだろうと分かる仕草だ。
大瑠璃は藤の籠に入った眠っている赤ん坊を下男たちに運び入れさせた。
「これはまた大きな籠だ! 何のご馳走だい。それとも金品かい?」
老婆は先ほどの様子とは打って変わり、飛び上がる様にして籠に駆け寄る。そして暗闇でよく見えぬ籠から掛け布を引っ手繰って投げ捨てた。
「赤ん坊だ」
大瑠璃が小さな声で囁く。老婆は目を凝らし食い入る様に籠を覗き込んだ。
下男の一人が気を利かせてカンテラを傍に寄せてやると、ウサギの真っ白な髪と肌が狭く暗い長屋に浮かび上がった。
「……馬鹿にしやがって! なんだって赤ん坊なんか寄越すんだ! それもこんな不細工なやつを! これ売っぱらって金にしちまえってことかい? じゃあ金にしてから持ってきなよ。それとも何かい、子供売るのは得意だろうって言いたいのかい」
老婆は興奮して声を荒げたが、貧相な身体から出る声量は小さく、低かった。
それでも睨みつけてくる老婆に、大瑠璃は札束を見せる。目の前に突き出された見たことも無い大金に、老婆の目の色がグッと変わる。
「今まで通り、差し入れもさせて貰うが、それとは別に、仕事を頼みたくてね。仕事といっても、ただこの赤ん坊を預かってくれれば良い。必要な金は払うし、あんたの小遣いもたんまり用意してる」
大瑠璃は老婆の近くにしゃがみ込み、顔を近づけて囁いた。
「但し、他の人間にバレたら、あんたの金の取り分が減るから、絶対に見つからない様にするんだ。それから、間違っても他のブローカーに売ろうなんてことは考えるなよ」
とはいえ、その心配はしていない。毛色が変わっているとしても商品になるまで時間のかかる赤ん坊は、買値も安いのだ。大瑠璃が提示した額を超えることは絶対にない。
人買いたちは学の無い者ばかりで、これが再来のウサギだと気付ける者も居ないに違いなかった。
この老婆は、かつて男を作っては捨てられ、種違いの子供を山ほど抱えてこの長屋へ流れついた。
大きい息子たちは昔は自分を支えてくれていたが、今は皆銘々女を作り、家を出たきり誰も帰ってこない。
小さかった子供たちは新しい男を作る度に生活の為、売ってしまった。
誰一人残って居ない長屋に一人、今も貧しく孤独に暮らしているのだ。
「大旦那、ホントかい、約束だよ? アタシはただこの赤ん坊を殺さず生かしておけば良いんだね? そしたら毎度こんなに金が貰えるんだね?」
老婆が縋り付く様に大瑠璃に迫る。饐えた臭いに辟易しながら、大瑠璃は深く頷いた。
「誰にも言うな。誰にも見せるな。赤ん坊は絶対に死なせるな。そうすれば幾らでもわたしが用立てしよう。但し、この長屋からは出るなよ」
老婆が首が馬鹿になるくらい縦に振るのを見届け、大瑠璃は長屋を後にした。
下男たちが赤ん坊用の道具を一纏めにした袋を部屋の隅に置いていくが、ミルクやおしめの確認もせず、老婆は部屋の真ん中で目を爛々とさせながら金の数を数えていた。
ひと月に一度、大瑠璃自ら老婆の元を訪れ、赤ん坊の生死の確認と金の受け渡しを行った。
老婆は、あっという間に大きくなる赤ん坊を、逃げ出さない様に部屋の奥の柱に鎖で繋ぎ、バケツに用を足させる生活をさせていたが、大瑠璃が来る日だけはバケツと鎖を隠し、部屋の隅に正座させた。
大瑠璃はその事実を知らないまでも、この老婆がかつて実子にどんなことをしてきたのかは知って居る為、ウサギが辛い暮らしをしていることは理解していた。
多少心は痛んだが、誰にも見つからない為には、こういう者を利用する他無いとも納得していたので、文句は何も言わなかった。
自分にとって大切なのは、異形を人間の様に慈しみ育てることでは無い。
胡蝶屋という大店を保ち、多くの者の雇用を担うことだ。余計なことをしてウサギが誰かに見つかろうものなら、王宮の怒りを買いお取り潰しになるだろう。
それは避けなければならなかった。
***
大金を受け取った老婆が初めに行ったことは食事だった。
夜が明けて街が目覚めてから何ヶ月分もの飢えを埋めるかの様にありったけの食料を買い漁り、貪り食った。
老いた胃袋と強い飢餓感が膨れると、何年ぶりかの銭湯へ行き、ついでに清潔な服を買って着替えた。
老婆は、人としての身体の欲求を満たし、ようやく腹を空かせ過ぎて力無くしか泣けなくなった赤ん坊の世話を始めた。
三年、その生活を続けた。
人は身体の飢えが癒えると心の飢えに苦しみだす。
今まで寂しがる余裕も無かった人生の潤いを懐かしみ、老婆は家を出たきり帰ってこない三人の息子に手紙を送ることにした。
初めは梨の礫だった息子たちも、何度も金の匂いをちらつかせる貧乏長屋の母親に興味が湧いてきたのか、返事が来る様になった。
そしてついに、ある休日の昼間、彼らは都合を合わせ、捨て置いた顔も思い出せない母親の元を訪れたのだ。
「母ちゃん、久しぶり」
「元気そうじゃねえか」
「わりいな、仕事が忙しくて全然帰れなくてさ」
真っ当な仕事という訳にはいかないが、それぞれ働き、大人になった息子たちがドカドカと長屋に入ってきた時、老婆はまるで明るい光がこの湿った長屋の一室に強く差し込んだ様に感じた。
かつて愛した男たちに似て来た息子たちは、立派に育ち、自分に会いに来てくれたのだ。
金さえあれば小遣いをやれるし、またこうして家族で集まって楽しく過ごすことが出来る。もしかしたら誰かが自分と一緒に暮らしたいとまで言いだすかもしれない。
そうしたら胡蝶屋の大旦那にこの白い娘は返して、息子家族と生きていこう。老婆の妄想はそこまで膨らんだ。
「なんだ、あのガキ」
部屋の隅に繋がれ力無く横たわっているウサギを見つけ、三男が目を丸くする。ウサギは三歳、外見は六歳の少女に成長していた。
「母ちゃんまだガキ産めんのか」
「んなわけねえだろ。なんだよ、人買いの手伝いでもしてんのか?」
長兄が鼻で笑う。老婆の金回りが急に良くなったのはこの仕事のせいかと、手紙に同封されていた何枚かの札を思い出す。上手く話をもっていけば、もっと金を引き出せるかもしれない。
「けどあんな気持ち悪りい見た目のガキじゃ大した金にはならねえだろ。俺がもっと良い人買い紹介してやろうか、な? 母ちゃん」
作り笑いを浮かべて老婆に取り入る長兄に続き、次兄も老婆の手を取って優しく包んでやる。
「それより、こんな歳になってまで仕事続けるの辛いだろ。俺らが代わってやるよ。今のケチな仕事なんか、いつでも辞めてやるぜ」
笑顔で老婆を取り囲む三人の息子たちは皆、母に似て汚い毛色で産まれた。
長屋を出てもこの南街に居る限り低収入だ。いつだって金持ちになることを夢見ている。
「こいつはまあ、ちょっとした預かり物だよ……そんなことよりあんたたち、腹減ってるだろ? 何か食べさせてやるから、外へ行こう」
老婆は言葉を濁し、息子たちを明るい外の世界へ引っ張り出そうとした。しかし身体だけは大きく育った三人の息子たちは、戸の無い出入り口を塞ぐ様にして、老婆に立ちはだかった。
「母ちゃん、飯はいいよ」
「それより、金の話を聞かせてくれ」
「一体何だってそんなに金が溢れてくる様になったんだ」
息子たちは見たことも無い優しい笑顔で老婆に迫る。
老婆は慌てて部屋の隅に向かい、座り込んで頭陀袋の中から金の束を取り出し、息子たちに分け与えようと皺皺の手で帯を破った。
「ほ、ほら、金ならあるよ。後で小遣いあげるから、そんなに慌てないで、ゆっくり母ちゃんと食事でも……」
振り向いた老婆の頭上から太い腕が伸びてその札束を引っ手繰る様に毟り取った。
「いいから話せ。ババア」
昼間でも暗い長屋の隅に追い詰められ、老婆は言葉が出なかった。長兄が老婆ににじり寄る。
隙間から、次兄が呆けて息だけしている白髪の娘の鎖を解くのが見えた。
「駄目だよっ! 何をやってんだい! そいつを逃がしたらおしまいなんだよ!」
老婆が金切り声を上げて息子たちを押し退けようと飛び起きる。その痩せ細った身体を玩具の様に引き倒し、長兄は嗤って馬乗りになった。
「独り占めすんなよ。なあ「母ちゃん」よ、俺ら可愛い可愛い息子だぜ。ガキの頃はアンタの為に散々働かされて毟り取られてきた。そろそろ恩返ししてもらいてえなあっ!」
不摂生で膨れ上がった丸太の様な脚が思い切り老婆の腹を蹴り上げる。他の二人はチラリと目を配ったきり、呆れた様に顔を背けた。
踏む様にして老婆の身体を蹴り続ける長男を尻目に、三男は鼻歌を歌いながら頭陀袋を手繰り寄せ、他にも金が無いか辺りの引き出しを物色している。
老婆が息子たちの名前を呼び続けるので、普段他人に関心を寄せない長屋の住民たちもあまりの騒ぎに通りすがりを装いチラリと覗き込んでくる。それに気付いた次兄が、愛想よく頭を下げ、それとなく扉を立ち塞いだ
「おい、そのガキどうする」
老婆があちこち違う向きをした身体になり、声一つ上げなくなると、長兄は興奮して血走った眼のまま振り向いた。フーフーと荒い息を上げ汗をびっしょりと掻いている。
「まだなんも聞き出せてねえのに、殺しちまってどうすんだよ、兄貴」
鎖を解かれても力無く横たわったままの少女を持て余し、次兄が不機嫌な声を上げた。
「コイツ全然駄目だ。多分何日も食ってねえな。脱水起こしてる」
「えっ、こんなに金があるのに?」
すっかり人の居なくなった出入り口の外を確認してから、三男が家中から掻き集めた札束を掴んで振ってみせた。
少女の光の無い赤い瞳には重たい瞼が被り、唇は皮が剥け乾燥して裂けている。
「昔だって、俺らにだけ食わせて、一番チビのお
長兄が嘲りながら踵を老婆の額に落とす。既に息絶えている身体はまるで玩具の様にぐにゃりと沈むだけだ。
「母ちゃんが誰に雇われてたかは分からねえけど、ここに居りゃあそのうち向こうから金を持って現れるんじゃねえの」
三男がヘラヘラ笑いながら少女に水を飲ませてやる。少女は何度か嚥下し、その都度吐き出した。
「誰も来なけりゃ、邪気寄席にでも売ればいいし」
こんな見た目でも女なら売れるだろと付け足し、三男は暢気にまた少女の唇に井戸水の入った柄杓を当てた。
次兄がその柄杓を引っ手繰り、鍋に開けて火をかける。
「胃が空っぽの奴は、湯じゃねえと吐くんだよ」
次兄は古く粗末な台所で湯を沸かし、長兄は今更になって床に座り込み顔を覆って蹲った。
へえ、そうなんだと三男が出した明るい声と長兄のすすり泣く声が、陽の傾いた夕方の部屋に一層暗い影を落とす。
少女は乾いて力の入らない瞳で視線の先の老婆を見つめた。
朝まで自分を殴っていた人間が、誰かに殴られて死んでいるのを、初めての感情の芽生えと共に、ゆっくりと噛み締めていた。
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