第40話 約束



 胡蝶屋こちょうやは元々しがない茶屋だった。軽食を提供するだけではなく、冬の街角で客引きをする若い商売女たちを迎え入れ、客待ちの間の暖を取らせていた。


 真っ当な仕事をしたいと嘆く女たちはなるべく茶屋で働かせてやる様にし、その美しい給仕係たちを目当てに少しずつ客も増えた。だが、決して大きな店では無かったため、全ての女を雇ってはやれなかった。


 ある日、西街の鉄鋼王・鹿錬貴カネキが、道路や鉄道を整備するために南街へ来て、茶屋に立ち寄った。大勢の使用人や部下を引き連れて来た為、茶屋はあっという間に満席になった。


 もう陽の傾く時間帯で、いつもの様に暖を取りに来た女たちに店主が頭を下げているのを見た鹿錬貴は、事情を知って、茶屋へ莫大な援助をしてくれた。


 この金で店を大きくし、働かせてやりたいと思う南街の民全てを雇ったらどうかと、鹿錬貴は言った。


 

 胡蝶屋の当主になる者は、それから節目には御礼や報告を兼ねて西街の鹿錬貴邸を訪問している。


 鹿錬貴の死後、駱仁らくとが二代目当主となってからも、それは変わらず続いた。胡蝶屋だけではなく、鹿錬貴の寄付や投資によって助けられた多くの人々が、三年前の事件までは表敬訪問を続けていた。 

 

 大瑠璃おおるりも先祖に倣い、当主となってからは毎年の様に駱仁の元へ通っていたが、六年前に、とある頼まれ事をしてからは一度も鹿錬貴邸の敷居を跨いでいない。


 関係を断絶することを駱仁と約束したからだ。



「大瑠璃殿、急に来てもらって済まなかったね」



 駱仁はいつもの様に穏やかな物腰で頭を下げた。応接室のソファに座っていた大瑠璃は、慌てて腰を上げ、



「とんでもない、駱仁様。どうかお顔をお上げ下さい」



 と、首を振った。駱仁は、眉毛を下げ、情けない顔をしながら、寂しそうに笑った。



「胡蝶屋を社交場たらしめたのは私ではなく父だと言うのに、皆様方そう仰る。私の様なただの脛齧りに尊称等使って頂かなくて結構」



 大瑠璃は、毎度似た様な事を言ってお道化る駱仁に苦笑しながら、ただ頭を下げた。駱仁は寂しそうな顔のまま、すっくと立ち上がり、大瑠璃を促す。


 二人は人払いされた地下室へ向かい、そこに隠された赤ん坊に対峙した。



「……この赤さんは」



 大瑠璃は、藤の揺りかごの中で静かにこちらを見つめる赤ん坊を暫く見つめた後、なんとかそれだけ捻り出した。


 突然呼び出しを受けた時から、何か厄介事が起こったのだろうと予想はしていた。駱仁は、西街の公爵家である自分の立場からでは動くことに支障がある場合、時折こうして大瑠璃を呼び出して頼み事をする。


 恐らく適材適所を見極め、西街にも北街にも同じ様に使い勝手の良い人間が居るのだろうが、南街のそれは大瑠璃であった。


 多忙の合間を縫ったとしても鹿錬貴邸まで駆け付けることは苦では無かった。それは先祖が受けたかつての恩義だけではなく、駱仁の支払う充分過ぎる謝礼金が、何度も胡蝶屋の納税を楽にしてきたからだ。


 いくら金を払えば他人が自分に従順になるかということを、実業家の駱仁はよく知っていた。大瑠璃は最早、大抵の頼まれ事では驚かなくなっていた。


 しかし、そのとき目の前に居た赤ん坊は、その予想の範疇を遥かに超えていたのだ。

 

 白い産毛に赤い瞳、長い耳を垂らした赤ん坊だ。高等教育を受けた大瑠璃には、すぐに伝説の再来のウサギだと分かった。


 自分の手を見つめ、時折喃語を上げながら、じたばたと足を動かしている姿は、まるで人の様だ。

 

 ウサギが此処に居るということは、遂に獅子王の悪政が終わりを迎え、新たな王にこの駱仁が選ばれたのだろうと、大瑠璃はそこまで理解した。


 そして祝いの詞を述べようとした時だ。



「この赤ん坊を、どうか誰にも分からない場所へ匿ってほしい」



 駱仁が思い詰めた様子で呟いた。


 その姿はいつもの悠然とした公爵ではなく、困り果てた気弱な老人そのものであった。



「この老いぼれの、最後の願いだ」



***





 思いもよらない依頼に、大瑠璃は眉を顰める。



「それはどういう意味ですか。新たな王に選ばれたというのに何故……」



「新たな王に? 私がかい? いやいや、それは大きな誤解だ」



 駱仁は気が抜けた様に眉を下げ、笑った。



「このウサギは私のものではないよ。これは、陛下のものだ」



 駱仁は寂しそうに口元だけ笑顔を作ったまま、赤ん坊を眺めた。憐れな物でも見るかの様に、神の意志を見つめた。


 一代で築いた富を篤志家として方々へ使った鹿錬貴は、王として世の隅々に心を配らない獅子王に元々は反発していた。


 獅子王の方も勝手に聖堂を建てたり北街の整備をする鹿錬貴を良くは思っていなかった。


 しかし、王宮の金を使わずに世が豊かになることについては利を感じていた為に黙認してきたし、鹿錬貴の方も自由に世の中を作り変えていることについて満足していた。

 

 そのバランスが崩れたのは、晩年鹿錬貴が人を買い始めてからだ。


 異種間交配と人種の淘汰の実験を始めた鹿錬貴に対し、王宮は多額の寄付金を要求した。鹿錬貴の金は殆どが実験と王宮への納付に使われ、世に回らなくなっていった。


 世の中が一層貧しくなる中、鹿錬貴が死に、駱仁はもう非倫理的な実験から手を引いたと獅子王へ訴えたが、その都度、実験によって創り出された弟妹たちの為の養護施設の運営存続や、実験を継いだ弟の邪気寄席を社交場へ昇格させることを取引材料にされ、王宮へ不本意な上納金を納め続けてきたのだ。



「先日、王室相談役の朝猪という男が、この赤ん坊を預けに来た。何でも、王室に再びウサギが現れ、神による王位存続の意志を、陛下も謹んで御受けになったそうだ。ウサギは不吉にも双生児だということで、一匹こちらで保管せよとのご通告だった」



 駱仁は淡々と抑揚の無い声で言葉を編んだ。眼差しは藤の揺りかごへ向けたまま、諦めにも似た態度で語る。何に対して諦めているのかは大瑠璃にも伝わった。


 なにが神の意志だ。


 揺りかごの中で赤ん坊は機嫌よく息をしている。小さなその手は、鷲一郎が産まれた日の事を大瑠璃に思い起こさせた。



「鹿錬貴様がお引き受けになった子供たちと共に育てられるおつもりですか?」



 大瑠璃が養護施設のことを尋ねると、駱仁は首を横に振った。



「恐らく陛下もそういうことを望んでおられるのだろうが、私はもう長くない。世継ぎも居ないのに無責任なことは出来ないと思ってね。それで、申し訳ないが君に頼みたいんだ」



「縁起でもないことを仰らないで下さい」



「いや、歳のことだけではないんだ」



 駱仁は静かに答えた。



「私の死後、遺産の三割を胡蝶屋へ譲ろう。ただ陛下の命があるまで生かしておいてくれるだけで良い。どうだろう、叶えてくれないか。……私はもう、これ以上誰かの子供の面倒を見るのは、疲れた」



 冗談めかした駱仁の言葉は真に迫っていた。何も体調のことだけではないのだと、その声で大瑠璃は気持ちを察した。


 王宮の預かり物とあっては多くの人間が出入りする胡蝶屋へは置いておけないが、鹿錬貴家の莫大な遺産を三割も受け取れるとあっては首を縦に振るしか無い。



「駱仁様、わたしがウサギを洗脳して新たな王になろうとする危険もありますよ」



 ふと、疑問をぶつけてみる。


 大瑠璃は、襲名の際に猿女と胡蝶屋との代々の関係や、ウサギに選ばれた猿女君が獅子王の元に居るウサギによって無惨に食い殺された話を伝え聞いている為、自分が王になろうとは努々考えたこともなかった。


 しかし、それは駱仁の預かり知らぬ事である。何故こう易々と異種の自分に再来のウサギを預けるのか疑問だった。



「それはそれで、楽しい世の中になりそうだが、残念ながら、大瑠璃殿。新たなウサギたちはまだ赤ん坊なので王を選ぶ力が無いそうだよ」



 駱仁は愉快そうに笑った。顔を皺だらけにして白い口髭を揺らす。



「それに君のことだ。私と同じ様に、ウサギの力を受けるということが、王になるということが、どんなに恐ろしいことか、もう知っているのではないかね」



 そう問われ、大瑠璃は曖昧に笑顔を作った。


 歳を取らずに、寿命よりも多く生き、私利私欲に基づいてこの世を動かす獅子王ししおうの姿は、もはや人ではない。


 獅子王は神にでもなったつもりかもしれないが、大瑠璃から言わせればあれは傀儡だ。


 悪のウサギの呪いを受け、人非ざるものに成り下がった異形だ。



「……北街の太刀たちには気を付けなさい。憐れに思い、甘やかし過ぎた。あれは、恐らくウサギのことを勘付いている」



 その為にも、もう私とは縁を切りなさい。駱仁は最後にそれだけ言った。



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