第39話 猿女君




 南街社交場となって百五十年ほどの胡蝶屋こちょうやでは、当主になる者が代々大瑠璃おおるりの名を継ぐ決まりだ。


 八代目大瑠璃として胡蝶屋大旦那を務める鷲一郎しゅういちろうの父親は、まだ六十五歳という若さだが半分隠居しているに近かった。


 平常の営業だけではなく社交場解禁夜であっても滅多に表には出ない。胡蝶屋の仕切りは全て鷲一郎に任せ、経営にだけ関わっている。


 胡蝶屋には、渡り廊下で繋がっている従業員の為の住み込み寮がある。入り婿の大瑠璃は無駄を一切省く性格で、先代から受け継いだ豪邸には鷲一郎の母を一人で住まわせ自らは世話役や案内役ら従業員と同じく寮で寝起きしている。


 気前が良く豪快だった祖父とは違う慎ましい父の暮らしぶりに子供の頃こそ不満のあった鷲一郎だが、肚を決めて制空会から出戻って来てからは、父に倣って自分の寝所も寮の一室に定めた。


 以来、二人でこの胡蝶屋を早朝から切り盛りしている。


 牡丹のことを相談する為、鷲一郎と鷹助たかすけはその寮の最上階の部屋へ向かっていた。


 元々歩くのが早い鷲一郎だが、鷹助はそれに慣れている。僅かも遅れを取らずに付いて来る忠犬を振り向き、鷲一郎は鼻を鳴らした。



「さて、親父はどう出るかな」



 部屋の戸を叩く。待ち構えていた様に返事があり、二人は大瑠璃の部屋へ頭を下げて入る。


体裁を気にする古参の従業員たちに頼み込まれ特別室という名は付いているが、それほど広くもない部屋である。


「公衆伝達のことか」



 大瑠璃は奥の窓辺に腰掛け、静かに訊いた。


 黒に銀糸の入った紬を纏い、椿油で撫でつけられた七三分けには、幼名翡翠かわせみの通りの金春色に白髪が混ざって美しい。


 歳を経て尚、鳥種の長に相応しい艶やかな男前だ。



「ついに逝ったな」

 


大瑠璃には驚いた様子がまるで無かった。それを怪訝に感じながら鷹助が口を開く。

 


「旦那様、獅子王亡き後の新たな王についてですが……」



「王宮が目くじら立てて探してやがる再来のウサギが、うちに居るんでい」



 何から切り出そうかと遠回しに話し始めた鷹助に焦れ、鷲一郎が一息に捲し立てる。大瑠璃は初めてこちらに目を寄越し、そして眉を顰めた。



「ウサギがうちに居る? どういうことだ?」



「おむくの倅がウサギを連れてうちへ来たんでい。今、客室に匿ってるが、いつ王宮騎士団や夜間警察が乗り込んで来るかもしれねえ。親父、奪われる前に、早えとこウサギに会ってくれ」



 促す様に出入り口へ戻ろうと踵を返すが、大瑠璃の動く気配はない。窓際から一歩も動かず、思い詰めた顔をしている。



「なあ、鳥種が王になる日が来たってことだろ。そしたら胡蝶屋の大旦那がやらねえで誰に務まるってんだよ」



 鷲一郎は全く反応を示さない父親に焦れて急かし、鷹助は、じっとそれを見守っていた。



「……お椋の息子は、邪気寄席ざけよせに入ったのか」



 大瑠璃が重々しく口を開く。目を伏せ、床の一点を見つめて独り言の様に呟いた。



「まさかウサギが戻ってくるとは……誤算だったな」



 鷲一郎と鷹助は顔を見合せて黙っていた。大瑠璃が何を言っているのかさっぱり理解出来なかったからだ。


 ウサギが元々は邪気寄席の檻にいたことを知った風な口ぶりだ。



「親父?」



 鷲一郎は、二の句が継げなかった。大瑠璃は二人に顔を向け、



「ウサギはうちでは使わん。明日、元居た場所へ戻して来い」



 と言い放つと、苛立った様子で立ち上がり、隣の部屋へ入ってしまった。



「……どういう意味だよ?」



 ぴしゃりと閉め切られた戸の前に駆け寄り、鷲一郎が震える声を出す。



「分かる様に話せよ……。おい、戻して来いってどういうことでい。このままウサギがデカくなるまでうちに置いときゃ、いずれ胡蝶屋が王権を取れるかもしれねえのにか? みすみす邪気寄席にくれてやるって、そう言ってんのか?」



「鷲さん、落ち着いてください」



 興奮して徐々に声を荒げる鷲一郎の両脇を支え、鷹助が必死に抑える。



「これが落ち着いていられるかってんだ! おい親父! おめえはまたそうなのかよ! 俺が『制空会せいくうかい』入る時だって、鳥種に王権は要らないの一点張りで、俺の話を聞こうともしなかった! 何でなんだよ、王になりゃ獣種ケモノにピンハネされてた分をもっと南街に還元できるじゃねえか!」



 何が不満なんだよ。と尻すぼみに口にすると、鷲一郎は項垂れてしまった。赤くなった耳の裏から鷹助が顔を背ける。


 鷲一郎は王権奪取のこの一点に関しては、三十路を過ぎても若い頃のままの熱を持っていた。南街と鳥種の将来をより良いものにしたいと願っている。


 そして、それを厭う父親と対立している。



「……鷲一郎、お前はまだ分からないのか」



 暫くして、戸の向こうから引き出しを閉める音と共に大きな溜め息が聞こえた。



「王になるということは、呪いを受けるということだ」



「……旦那様、それはどういう……?」



 俯いたまま固まった鷲一郎の代わりに鷹助が答える。大瑠璃は、ゆっくりと戸を開けて再び姿を現した。


 訝し気な顔をして今にも噛み付きそうに興奮している息子を一瞥し、物思いに耽る様に遠くに視線を投げ、告げる。



「今夜の獅子王ししおう殺しは、わたしの指図だ」



「は?」



 鷲一郎が驚いて顔を上げた。



「『木天蓼マタタビ』は、わたしが動かしたんだ」



***




 経営に深く関わって居ない鷲一郎は把握していないことだが、胡蝶屋から『木天蓼』へは三年前から資金援助をしている。



「何が何やらさっぱり分からねえ……」



 鷲一郎は怒りと憤りの引っ込みがつかないまま、困惑している。童顔で実年齢よりも若く見える息子は、大瑠璃にとってはいつまでも幼いままだ。


 家督を継ぐ者としていつかは胡蝶屋の『秘密』を伝えなければと思ってはいたが、鳥種至上主義に傾倒していく息子を威圧し黙らせることしか出来なかった。


 結果、鷲一郎は『制空会』へ入り、親子は暫く決別してきた。



「鷲一郎、鷹助。座れ」



 幼い頃からの目付役である鷹助はこの先も胡蝶屋と鷲一郎を支える存在だ。大瑠璃は二人を交互に見て、自分も静かに腰かけた。来るべき時が来たのだと肚を括る。



「今夜、『木天蓼』が獅子王を倒し、新たなウサギが邪気寄席の太刀の元に現れる予定だった。どういう訳か胡蝶屋にウサギが回ってきた様だが、明日の朝一番に戻して来ればどうにか筋書通りに事が納まる」



「そりゃ一体どういうことでい……一から説明してくれ」



 落ち着こうと努力しながら、鷲一郎が据わった目で大瑠璃を睨みつける。鷹助はその隣で大きな身体を微動だにせず、背筋を伸ばして話を聞いている。


 傍から見れば冷静だが、それは緊張した時の鷹助の仕草だった。



「これを見ろ」



 大瑠璃が左手を突き出し、開いて見せる。中から細かな粒が無数に連なっただけの小さな数珠が現れた。


 白茶色の小さな粒は表面に細かい斑点模様が見える木の実の様だが、二重になっているだけでそれ以外に宝石も房も付いていない。


 派手な物ほど高級な南街の社交場の長が持つにあるまじき地味で素朴な数珠だ。



「これは、社交場になる以前から胡蝶屋に代々伝わる商売繁盛の大事な御守りだ。御先祖様はこれをどこで貰ったと思う?」



 大瑠璃に訊かれ、鷲一郎は首を傾げた。初代獅子王の時代から占いや予言といったものから神に祈るということまで不純な事とされ忌み嫌われた世の中で生きて来た。


 生活の端々に神頼みや験担ぎは存在はするが、大っぴらに宗教団体だと公言しているのは西街の『木天蓼』くらいのもので、それもテロ行為を繰り返す様な、信仰とは名ばかりの過激派反体制集団でしかない。



「いや。分からねえ。そもそも、うちが神頼みに御守りなんか貰ってるってこと自体、初耳だぜい」 



「そうだろうな。しかし獅子王が王になるまでは、この世には神様が確かに居て、人の暮らしを照らしてきたんだ。この数珠もそうだ。御先祖様はかつて、西街の猿女君さるめのきみの元へ向かい、一族の繁栄と商売の繁盛を祈願し、この数珠を頂いた」



「……猿、なんだって?」



 鷲一郎は胡散臭そうな顔で眉を顰めた。大瑠璃はそれに頓着せず



「猿女というのは、かつて西街の長を務めていた占術師の一族の名だ」



 と答えた。それまで黙って聞いていた鷹助が遠慮がちに手を挙げる。



「旦那様、初代獅子王以前の記録はこの世の何処にも残っていないと高等教育で習ったのですが……」



「王宮がいくら公的な記録を抹消しても、個人の日記や書簡の全てを把握出来る訳ではない。我々一族が継いだ記憶の様に、市井に断片は残っていたはずだ。ただ、皆獅子王を恐れて語らぬうちに忘れ去られたのかもしれないな」



「そんな……」



 もしその記憶が全ての人に語り継がれていれば、今夜の崩御よりももっと早く獅子王の信仰を弾圧する悪政を糾弾できたかもしれない。世の中に信仰という文化を残せたかもしれない。


 鷹助は橙色の前髪の付け根から滲む嫌な汗を拭い、言葉を失った。



「我々の御先祖様方は、相談事や祈願だけではなく友人として猿女一族と長く交流を続けていたが、ある年、猿女の当主が謎の不審死を遂げたことで、その御縁は断たれたと記されている。時を同じくして獅子王が立ち、その後三百年余り、代を重ねて王権を保ち続けている」



「親父、つまり猿女が、真の王だったって言いてえのかい」



 大瑠璃に頷かれ、鷲一郎が帯に指を入れて息を吐く。



「親父は、獅子王が偽王だってずっと考えてたわけだ。そんで今夜、テロを起こさせた」



「そうだ」



「だがよ、俺あ納得いかねえことが二つある。一つ目は、時期だ。親父が先祖の記録をいつ読んだのかは知らねえが胡蝶屋当主になって何十年もの間、偽王と知りながら黙って獅子王の野郎に馬鹿高けえ税金を納め続けてたのは何でだ? 偽王だと分かってたんなら、すぐにでも声を上げるべきだったろうが」



「鷲さん、それはきっとご事情が」



 と、窘める鷹助を無視し、鷲一郎は続けた。



「それから二つ目。南街には『制空会』って武闘派がある。なのに何でわざわざ西街の『木天蓼』なんかと手を組む必要があった? あそこは十年前にもテロを起こしてるが失敗して首謀者は晒しモンにされたじゃねえか。おまけに獅子王と同じ獣種で、気味の悪りぃ白装束着た一般人に説法垂れて金巻き上げる傭兵上がりの人殺し集団でい。あんな胸糞悪りぃ野郎共に親父が唆かされたってのが、どうも合点がいかねえ」 



「『木天蓼』の教祖・東狐とうこは、直系ではないが猿女の血を引いている。現代においては唯一の猿女君だ。これ以上の理由は要らんだろう」



 大瑠璃が静かに答えると、鷹助と鷲一郎は子供の様にポカンと口を開け、黙った。



「それから一つ目の質問だが」



 大瑠璃は再び左手の中の数珠を見せ、自分もその小さな玉の連なりを見つめた。右手で抓み上げると、重なった二つの輪が八の字にほぐれ、一つの首飾り程の長さだ。



「この菩提樹の実の数は百八個だ。百八は、ウサギの力、つまり神の力を強めるとされている。分かるな?」



 眼前に突き出された白茶色の実の連なりは、時折捩れて零と無限大とを交互に象っている。


 鷲一郎は開いていた口を閉じて生唾を飲み込んだ後、父親によく似た美しい顔を上げた。



「三代目獅子王が即位して百八年目。今夜が初めての解禁夜でい」



 大瑠璃はこの部屋へ息子が来て初めて、満足そうに少し笑った。


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