第38話 はじまり




 王都西街にも影はある。


 影は街の隅に追い込められていた。今日食うのにも困る貧困層は、仕事もお情けも貰えずに野垂れ死ぬのを待たれている。


小銭の為に他人の靴底を舐めるくらいなら、何故死を選ばないのだろうかと、幼い犬遊けんゆうは子供ながらに軽蔑していた。


彼は、王宮騎士団に所属する軍人の家に生まれた。獅子王ししおうの盾になり御身をお守りすることが代々の家訓でもあった。


それに倣い、彼の父親もまた、多くの勲章を胸に留めたカーキ色の軍用コートを翻し、一個師団を率いる師団長として王に忠誠を誓っていた。犬遊は自分もいつか軍人として王に仕えるものだと思っていた。

 

ある日、小さな内紛が起こった。獅子王ではなく参事官を西のトップに据えるべきだという派閥争いから派生したクーデター未遂だった。


父親は身を挺して獅子王を守り死んだ。彼らの父親だけではない。虚を突かれた突入だったため、騎士団では多くの人間が死んだ。  


 しかし獅子王は、温情をかけるどころかそれを審議にかけた。国王直属の軍が敵対する組織の動向に全く気付けず王を危険に晒したと激怒し、彼らの父親は師団長として大罪人という不名誉な最後の勲章を授かることとなった。


 全ての財産は没収され、土地を追われ、スラムへ移り住んだ。貴族出身の母親は心を病んであっという間に死んだ。


 犬遊と狼志は一週間ほど孤児院の門前に土下座し続け、なんとか施設に入った。


 かつて自らが蔑視した身分に成り下がっていることに自覚はあった。しかし、生きることに必死で、死を選ぶ余裕などなかった。

 

 福祉員には毎日つまらないことで殴られた。目つきが悪いとか、騒ぐなとか、そんなことだ。


 食事はいつも足りなくて、孤児同士で奪い合うことも多かった。


 穏やかだった兄も、犬遊のために身体を張ってパンを確保するようになっていた。目は吊り上がり、顔つきも言葉もだんだん粗野になっていった。


 兄の顔をそんな目で眺めていると、相手もまた複雑な顔をして犬遊を見つめてきた。


 きっと俺も変わったのだろうと犬遊は気付いた。


 変わらなければ生きていけなかった。

 


 福祉員には少年たちに暴力を振るうことの他に、もっとお楽しみがあった。


 孤児の少女たちにいたずらをすることだ。いたずらなんてやさしい言い方では語弊があるかもしれない。性的暴行だ。


 その中でもよく選ばれる人間とそうではない者がいて、一番使いまわされている少女が当時十歳の狐蓉こようだった。



「離せよ。孤児にこんなことをして、許されると思ってるのか!」



 真昼間から痩せた体を引きずっていくのを目にした狼志ろうしが、ある日福祉員の足に飛びかかって噛み付いたことがあった。


 ヤられてる女はこいつ一人じゃない。それに俺たち男だって、骨が折れるまで殴られることだってある。狐蓉が特別可哀想なわけじゃない。


 犬遊は、そんな風に兄を窘めた。


 赤の他人を守るために騒ぎを起こし、その所為で施設から追い出されて野垂れ死ぬなんて真っ平だったからだ。


 それでも、何故かそのとき狼志は折れなかった。福祉員が罵声を喚きながらそこら辺にあった竹箒でめった打ちにしても、決してその膝を離さなかった。


 唯一の家族である大切な兄の顔が血塗れになっていくのは見るに堪えず、犬遊は仕方なく、その福祉員を顔の形が変わるまで殴り続けた。


 病弱だった兄とは違い、昔から父親に鍛えられていた犬遊は腕っぷしが強かった。


 今までは、どんなにひどくてもいつかは食事の出てくるこの施設を追い出されたくない一心で大人しくしてきた。


 しかし、その時福祉員を気絶するまで殴って、犬遊はふと気付いたのだ。


 惨めでもいいから生きようと思っていたが、こんな心を殺した生活を生きているなんて言うのだろうかと。

 

 とっくに動かなくなっていた福祉員の身体から視線を上げると、兄の顔をボロ布で拭っていた狐蓉と目が合った。


 狐蓉は、ありがとうと言って、笑った。


 それから兄弟は狐蓉と一緒に過ごすことが増えた。


 狐蓉を強姦しようとした福祉員は毎回犬遊が殴った。


 殴りすぎて右手の中指や肘の骨が大きく腫れて夜も眠れないほど傷む日が続いた。


 それでも、自分たちを切っ掛けに、ごみ溜めみたいだったこの施設が変わり始めたのが楽しくて仕方なかった。


 当時の犬遊は喋るのが不得手だった為、狐蓉に声をかけるのは狼志だけだった。


 狐蓉の傷ついた心を兄は優しく解していき、いつしか打ち解けていった。


 二人が幸せそうに笑うのを見ると、犬遊も幸せな気持ちになった。


 その一方で、自分たちをこんな街の影に追い込んだ獅子王とこの国に対する憎しみはどんどん膨らんでいった。  

 


***




 狐蓉には親類縁者の記憶は殆ど無かったが、家族の誰かから教わった『宝の場所』だけを唯一覚えていた。


 成人して施設を出た後、行くあての無かった三人はその場所へ行き、粗末な墓標の元からボロボロの書物を掘り起こした。


 そこには一族の家系図、占術師としての歴史と横の繋がり、そして再来のウサギとその託宣について、詳細に記されていた。

 

 濡れて破れ、所々虫に食われた泥まみれの本を胸に抱き、狐蓉は天を仰いで泣いた。


 自分の出自を知り、天命を知り、生きる目的を得た喜びの涙であった。


 まだ託宣を得られる段階では無かった無学の少女は、その後、神と深く通じる為に修道女となった。


 狐蓉は東狐とうこと名を改め、異端者として迫害を受けるのを覚悟で、聖堂で暮らすことに決めたのだ。


 一方、兄弟は父親の仇を取る為に王宮を襲撃する計画を練り始めた。


 獅子王を脆弱な猫に例え、猫を狂わす者として『木天蓼マタタビ』の名を冠した組織には、狼志の人となりも手伝ってやがて数十人の落伍者や破落戸ごろつきが集まりだした。


 革命前夜、いつも通っていた聖堂には狼志一人で行かせた。二人が最期にどんな言葉を交わしたのか、犬遊は知らない。


 その後革命に失敗し、狼志というリーダーを失った『木天蓼』は一度事実上の解散をしている。


 兄を犠牲になんとか逃げ果せた犬遊は、獅子王との『話し合い』が決裂したことを聖堂の東狐に伝えに行った。


 晒し首にされている広場へ無理矢理連れ出し、王宮騎士団長とその他の『木天蓼』と一緒に磔にされた兄の姿を二人で見た。



「次の、百年目には、もうウサギは、生まれないかもしれない……」



 ハゲワシに啄まれ、細切れの肉片が蝋の様に垂れ下がった恋人を前に、東狐は呟いた。



「……何だ?」



「もう、力が、残っていないから、次が、最後かもしれない……」



 おかしな言葉をブツブツと呟き続ける東狐の顔は真っ青で、犬遊は兄の亡骸を悲しむ余裕も無かった。


 東狐はその広場で、恋人の死と引き換えに初めての託宣を受けたのだった。



 漠然とした神の存在を信じ、平和を祈るだけだった聖堂の修道女たちと一線を画しだした東狐は、瞬く間に信者とお布施を集め、聖堂の女帝となっていった。


 資金難で武器も人手も何もかも足りなかった『木天蓼』にこれを利用しない手は無い。


 断絶させられた占術師の末裔として託宣を世に広め、狼志の遺志を継いでくれないかと犬遊は東狐を唆した。


 もう一度王宮を襲撃できれば何でも良かった。


ところが表立って種族間の和平交渉に勤しむ東狐の存在は、この十年、予想以上にテロ組織の隠れ蓑にも後ろ盾にもなったのだった。





開け放された夜府座には今、泣き崩れる貴族たちと『木天蓼』信者の大歓声が綯い交ぜになってまるで祭の様な騒がしさだ。


喧騒に紛れ『鯨』たちが夜府座を出て行くのが視界の端に見えたが、大願を成就した虚脱感から億劫になり捨て置いた。


どうせ文句を垂れるしか能の無い市民団体だ。



「犬遊」



 犀太郎せいたろうが背後から声を掛けた。異臭の治まりだした亡骸を見下ろしたまま犬遊は鷹揚に頷く。



「どうした」



「Pが裏切った」



 犀太郎の声は少し震えていた。サライの大使とウサギを追いかけた筈の者たちからの連絡も途絶えている。


 振り向くと、不安そうな目が泳いでいた。



「獅子王の後継ぎもこの場で殺して晒す予定だった筈だ。なのにPの奴……連絡が付かなくなった。見に行かせたら通信機が捨て置かれてたって」



 犬遊は意図せず笑っていた。


 確かにPは兄に心酔していただけで『木天蓼』の信者ではない。


 どちらに転ぶか信用ならない奴だとは思っていたが、よりにもよって後継者を連れ出すとは犬遊も予想していなかった。



「獅子王を殺して自分の恨みさえ晴らせば『木天蓼』は用済みという訳か。やられたな」



「もしあの逃げたウサギと合流してどこかで王太女が新たな王に選ばれてたら、俺たちは一体何のために……」



 犀太郎が血走った眼で犬遊の胸倉を掴み上げた。



「お前、Pは同志だって言ったよな? 安心しろ、命を預けろって言ったよな? どういうことだよこれは、俺たちはみんな、お前の言葉を信じて戦ってるんだぞ!」



「落ち着け」



「落ち着いてられるかよ! 今度こそ真の王が、東狐様が選ばれなきゃ、世の中なんにも変わらない!」



 大勢の人間の歓声と泣き声の中で、犀太郎は行き場の無い苛立ちを犬遊にぶつけるしかなかった。






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