第37話 修羅




 知らぬ間に日付を跨いでいた。初秋の寒さが作業着の隙間に入り込み、体温と混ざり合って湿度を上げる。


 『くじら』の四人は巨大な聖堂の前に到着し、閉め忘れた様な不自然な間を開けた門の前に立ち竦んでいた。



「どういうことだ……門が開いてるぞ」



 延々と続く敷地囲いを遠目から眺め、何処から潜り込もうか隙間を探していた鱚丞きすけが、肩透かしを食って茫然とする。慎牛しんごが頷く。



「理由は分からないけど、やっぱりサライの大使はウサギを連れて、敵陣ど真ん中の、この聖堂へ入ったんだ」



 サライの大使が乗り捨てた馬車とは、すぐ近くですれ違った。『木天蓼マタタビ』本部の中に居ることは確実だ。


 この門の先に、魚種を何百年もの苦しみから解放できるものが確かにある。


 深呼吸をして互いの顔を見合い、四人は門を通ろうとした。すると来た道の暗闇の向こうから唸り声が聞こえ始めた。


 徐々に大きくなる声の方向へ何事かと顔を向けると、そこには、夜道に無数の白点を付けるヘッドライトの連なりが見える。



「おい、あれって……」



 門の古びた鎖から手を離し、鱚丞が乾いた口で呟く。緋鰤ひぶりも同じ方向を見て青ざめている。



「南街の『制空会せいくうかい』……? なんでこんな所に」

 


 戸惑う傍からあっという間にズラリと隊列を組んだ鳥種の集団が四人に迫った。


 美しい髪と派手な纏を靡かせ急停止すると、爆音を上げているエンジンを落とす。



「何だぁ? テメエら」



 先陣を切っていた総長の夕鶴ゆうづるが、怪訝な顔で睨みつけてくる。



「社交場解禁夜に魚種サカナが彷徨ついてるってだけでも珍しいのに、何度もその酷え面拝まなきゃならねえとは、今夜は随分ツイてねえな」

 


 苛立ちを隠そうともせずに唾を吐き捨てる様子を見て、緋鰤と鮒未ふみは震え上がった。過去、何度か受けた覚えのある蔑視に、自尊心が縮みあがっていく。


 鱚丞は何か言い返そうと口を開けたが、思う様に言葉が出ず、生唾をゴクリと飲み込むことしか出来なかった。


 『鯨』として集団で居る時は、西街や南街でデモをしたことだってある。


 冷たい目で避けられても聞こえる様に陰口を叩かれても、強気で居られた。異種に食って掛かろうとして鱒翁に止められたこともあった。


 それなのに、今、鱚丞の心の中は被虐者の劣等感と、自分の外見への自信の無さで溢れ、逃げ隠れてしまいたいと思うほど惨めな気分だった。



「おめでたい奴等だな」



 俯いて顔を隠した鱚丞の後ろから、嘲り声がした。



「オレたち『鯨』と『木天蓼』が獅子王を殺してウサギを取り合ってる間、『制空会』は何してたんだ?」



 驚いて振り返ると、慎牛が嗜虐的な顔をして笑っていた。ゾクリ、と鱚丞の心がざわつく。


 慎牛は『鯨』として自分たちを擁護してくれているのに、その表情は、支配者としての獣種そのものだった。



「……『鯨』だと? まさか、テメエらも夜府座に行ってたっていうのか」



 夕鶴が目を見開いて呟いた。後ろに控えた『制空会』の構成員たちがどよめくのを、夕鶴の傍に立つ副総長の燕が、一瞥して黙らせた。



「そうだよ。お前らは、また異種の生活区で小石でも投げてたのか?」



 幼い頃、下級貴族の自分の生家にも『制空会』の石が投げこまれたことがある。


 窓ガラスが割れ、社交場解禁夜で両親が不在だったが家政婦や執事がサッサと片づけてくれたのを覚えている。


 慎牛にとって『制空会』とは、取るに足らない不良集団に過ぎない。



「オイ! ナメた口聞いてんじゃねえぞ!」



魚種サカナなんぞに肩入れする腰抜けの獣種ケモノは引っ込んでろ!」



 慎牛にハッキリと馬鹿にされると、今度は構成員たちも興奮し、口汚く罵り始めた。


 副総長のつばめが睨みつけても収まらず、怒りの余り懐からナイフを取り出してチラつかせる者も居た。



「……上等だ、コラ」



「ちょっと夕鶴! 落ち着きなって!」



 燕が焦って声を掛けたが、夕鶴も図星を突かれ冷静さを失っていた。総長としての立場も忘れて、慎牛ににじり寄る。



「ウサギを待つ間に、まずはテメエをぶっ殺す……」



「待つ? 何を? ウサギはもう、サライの大使と一緒に聖堂の中に入ってるのに?」



 慎牛は尚も挑発し続けた。『鯨』の三人は慎牛の意図に漸く気付き、静かに敷地へ入るとこっそりと聖堂の扉を開ける。


 ところが、開け放たれた扉の向こうに再兎の姿を認めた途端、鱚丞は我を忘れて大声で怒鳴った。



「ウサギを寄越せ! そいつは魚種のモンだ! お前らに王権は渡さねえぞ!」



 それは、まるで宣戦布告だった。


 鱚丞は、自らを奮い立たせる為、それを叫ばずにはいられなかった。


 聖堂の中のサライの大使と『木天蓼』の教祖だけではなく、怖気づいて何も言い返せなかった『制空会』に向かって、そして何より、『鯨』の同志としてではなく、獣種として『制空会』をいなした慎牛に、聞かせてやらなくては気が済まなかった。


 俺たちが、俺たち魚種が、これからお前たち獣種を、鳥種を、差別するから覚悟しておけよ。


 鱚丞の心の中には、志とはずれた醜い感情が無自覚に、しかしマグマの様に湧き出ていた。

 


***




 単車を金繰り捨て、『制空会』が一気に門へ走り込む。慎牛は大勢に乱暴に押し退けられ、門の外へ弾き飛ばされ、倒れた。


 その音に驚いた緋鰤が一瞬振り向いて慎牛の名を読んだが、詰め掛けた『制空会』に押されて『鯨』の三人もそのまま聖堂へ雪崩れ込んでいく。

 

 騒ぎに気づいた先ほどの信徒たちが、聖堂の内部屋から東狐を祭壇の奥の狭い階段通路へ引っ張り下ろす。青猪は再兎を庇いながらそれに続いた。


 しかし戸を閉めるよりも早く鱚丞が再兎の長い髪を掴み、ぐいっと引っ張り上げた。青猪の腕の中から釣られる様にして再兎の身体が宙に浮く。



「捕まえたぞ! これで魚種が王だ!」



 鱚丞は目を爛々と輝かせ、鼻息荒く雄叫びを上げた。


 しかし後ろから『制空会』が手を伸ばし奪おうとする。狭い戸口と男たちに挟まれ、息も出来ない緋鰤が叫んだ。



「鱚丞! このままじゃウサギを取られる!」



「そんなこと言ったって……どうしようも無えじゃねえか!」



 鱚丞が『制空会』の伸ばす手から再兎を遠ざけると、必死に取り返そうとする青猪に差し出す形になってしまう。


 挟み撃ちにされた鱚丞は、嫌がって暴れる再兎の首に腕をかけ、どちらにも向けず、身体を捻り続けるしかない。



「鱚丞! あんたが王になるのよ!」



 緋鰤と一緒に『制空会』の男たちが戸口を降りられない様に必死で壁を作りながら、鮒未が叫んだ。



「今ここで! 魚種が王になるには、それしかないわ!」



 この悪のウサギは、使うべき力ではない。


 誰に加勢することも出来ず、信徒と共に階段下で事の成り行きを見守っている東狐は、その一言が告げられなかった。


 青猪が先ほど訴えた通り、この再兎が、悪のウサギだと断定は出来ないからだ。


 万が一、善のウサギだとしたら、そしてこの魚種の青年を、どの様な形であれ王として選ぶとしたら、自分はそれを肯定しなくてはならない。


 それが運命、それが神の御心だからだ。

 

 怒号を飛ばしながら『制空会』が戸口を一層強く押す。


 しかし彼らは興奮し過ぎていて、仲間内で狭い戸を塞ぎ合ってしまっていることに気付いていなかった。そうでなければ、非力な若い女性二人が支えられる筈も無い。



「……おい、こっちを向け」



 鱚丞は気色ばんだ顔で抓み上げたままの再兎に向き合った。


 長い耳と赤い瞳、そして南街の染粉が所々汗で剥げている白黒の髪の毛。外見はまるで少女だ。


 美しい顔に見たことも無い形の耳が垂れ下がっている。


 鱚丞はその耳の形を、醜いと思った。


 自分たちよりも、醜いと思った。



「俺をこの世の王にしろ」



 自分よりも醜い者に、命令する。


 その心に沸いた感情をなんと表現したら良いか分からない。


 今までに感じたことの無い、なんとも幸福感のある気持ちだ。


 その感情の名を優越感と呼ぶことを、鱚丞は知らない。



「俺がお前を捕まえたんだ。俺を王にしろ!」



 涙を流しながら暴れる再兎を揺さぶり、鱚丞は尚も叫んだ。



「今すぐ王にするんだよ! 早く!」



 青猪は鱚丞の言葉に驚き、一瞬手を止める。しかし鱚丞が再兎の身体を痛めつけていることに再び理由を見つけると、思い切りその横腹に体当たりをした。



「イッ……テェ、なっ!」



 鱚丞は不意打ちを喰らっても再兎から手を離さなかった。青猪に向かい合い、足裏で思い切り青猪の腹を蹴り倒す。


 痩身の青猪は漁師仕事をしている鱚丞の筋力に負け、階段の下まで転がり落ちた。



「あおいちゃんっ!」



 再兎が叫んだ。青猪は石階段を転がり落ちると、直ぐに立ち上がって駆け上がり、再兎を両手で抱える鱚丞の腹にしがみ付く。



「再兎から離れろ! 再兎を傷つける権利は、誰にも無い!」



 一筋の血が、青猪の頭から顎までゆっくりと流れ落ちていく。鱚丞を睨み上げる眼光は鋭く、昏く、怒りに満ちていた。



「王宮の人間の言うことなんか、もう誰も聞くわけねえだろ! 俺が王になって、魚種を守る、魚種の明日を変えるんだよ!」 



 鱚丞は青猪に引きずり落とされる前にウサギを使わなくてはならないと焦った。


 涙を流して暴れるだけの再兎を強く抱きすくめ、優しく説き伏せる様に懇願する。



「なあ、頼むよ。もしもお前が悪のウサギだとしても、俺は構わない。鱒翁さんがもう一匹のウサギを手に入れるまでの間で良いんだ。俺を王にしてくれ。その後死んでも構わねえから、少しの間だけ力を貸してくれよ」



 階段下の東狐は、魚種の悲痛な叫びに、胸が苦しくなった。


 神の託宣を受けて居ながら、自分もまた、魚種の差別を黙認する獅子王の悪政を長引かせてきた獣種の一人だ。



「もう嫌なんだよ、俺たちは。あんな惨めな思いをするのは、もう嫌なんだ……」

 


 鱚丞の目には涙が溜まっていた。門の外に転がっている慎牛の心配を出来ない自分が苦しい。


『制空会』を見下す慎牛を羨ましいと思ってしまう自分に耐えられなかった。



「頼む……俺を、魚種の俺を、王に選んでくれ。再来のウサギ」



 再兎は黙って鱚丞を見つめた。


 先ほどまでの乱暴さはもう無かったが、自分にはどうしてあげることも出来ない。


 ここまで懇願されても、何の力も湧いてこなかった。



「ごめんなさい……わからないの……なにも」



 震える声で小さく呟く。


 鱚丞は食い入る様に再兎を見た。赤い、怯えた瞳に自分の顔が映っている。


 王になり、異種を思い切り差別してやりたいと思っている浅ましい人間の顔が見えた。



「いや、いいんだ……どうせ元々、綺麗じゃない」



 再兎ではなく、その瞳の奥の自分に返事をした鱚丞が、懐から小瓶を取り出した。


 茶色いガラス製の小指ほどの大きさだ。


 蓋を開けようとした時ついに『制空会』が戸を破壊しながら階段を駆け下りてきた。


転がり落ちて来た緋鰤と鮒未が鱚丞の背中に勢いよくぶつかる。鱚丞は再兎をぎゅっと胸に抱きかかえ、その小瓶を口元に宛がった。



「止まれ! 誰も動くな!」



 鱚丞の脅し道具がナイフでも爆弾でも無いことが逆に不気味さを助長し、『制空会』は勢いを失った。


 青猪は鱚丞の腰にしがみ付いたまま目の前の再兎を食い入る様に見上げている。



「お前もだよ、西街の貴族閣下殿」



 吐き捨てる様に嫌悪する肩書で呼ばれ、青猪の目に悔し涙が浮かぶ。噛み締めた唇から血を滲ませながら、そろそろと手を離し、相手を刺激しない様に立ち上がって後退った。


 再兎は小瓶の縁から溢れそうな液体を凝視し、恐怖に震えている。



「自決用の毒だ。一口で苦しまずに死ねる」



 階下の『木天蓼』信徒たちがヒッと息を飲んだ。東狐がその者たちの前に立ち、叫んだ。



「馬鹿な真似はおよしなさい。そのウサギは王宮で飼われていた者ですがまだ悪と決まった訳ではありません。次の王を決める神の意志の可能性があるのですよ!」



「もう一匹いるんだろ? なら、そっちを使ったらいい。俺は、こいつを『鯨』に連れて帰る。『木天蓼』にも『制空会』にも王宮の人間にも渡さない。誰かに奪われるくらいなら、コイツを殺して俺たちももう一匹の方を探す」



「それなら俺らもそれでいいぜ、何もこのウサギに執着する義理は無え。オメエらと同じで、どっかに居るもう一匹を探しゃいい。この人数差で無事に帰れるとでも思ってんのか、魚種サカナ野郎」



 『制空会』の先頭でそう言い放つ夕鶴を、鱚丞は今度は真っ直ぐに見た。胸のすく思いだった。



「この瓶をお前らに撒いてもいいんだぜ。量が少ないから呼吸困難になって脳に酸素が回らなくなるだけだ。全身に麻痺が残って芋虫みたいにはなるが、死ぬことは出来ない。良かったな」



 見下していた魚種の反撃に鼻白んだ夕鶴は、暫く睨みを利かせて黙っていたが、燕に耳打ちされるとやがて後続に小さな声で



「はやく退け」



 と指図した。『制空会』の面々は信じられないといった表情で眉を顰めたが、夕鶴は俯いてそれきり口を開けなかった。


 鱚丞の足元に転がり落ちたままだった鮒未と緋鰤は、自分たちも懐から小瓶を取り出し、それを『制空会』の作る花道に向けて威嚇しながら出口へ向かった。


 鱚丞の持っている小瓶の中身は液体が淵まで入っていて、歩く度に揺れて再兎の唇を掠める。


 酷く緩慢な動きで静かに去っていく『鯨』を、一同は呆然と見送った。

 

 青猪は、初めての感情に打ち震えていた。

 

 十毛朱ともみを失った時ですら、こんな気持ちにはならなかった。


 あの時は絶望感が自分を包んで身動きが取れなかった。


 今は違う。


 この気持ちは怒りだ。

 

 毛穴が開いて戦慄く身体中から汗が噴き出した。


 その漆黒の瞳の奥には、犬遊と、鱒翁と、あるいは太刀と同じく、赤く燃える憎しみの色が灯り始めていた。




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