第36話 決意
聖堂の中は思ったよりも薄暗かった。点々と蝋燭の灯はあるが人は誰も居ない。
「来られましたか……しかし、なんと幼い」
その先の壇上で一人の女性の声が響いた。
虚を突かれ勢いよく顔を上げると、そこには真っ白な頭巾に濃紺の法衣を身に纏った獣種が立っていた。
まるで来ることを予期していたかの様に真っ直ぐ二人を見つめ、やがてその視線は
「わたくしが『
「突然の訪問お詫び申し上げます。
青猪は頭も下げず膝も着けなかった。ただ、東狐の白い顔を見つめ、挑む様に口上を述べる。
「此処にありますは、獅子王陛下がお育てになった再来のウサギにございます。『木天蓼』の方々は神の意志であるこのウサギを殺そうとしています。これは猊下もご承知のことなのですか」
東狐は静々と壇上から下り、青猪の前にゆるりと立った。
その美しい顔は凛として揺るがず、同じ組織の者がテロを起こした後とは思えぬ、落ち着いた表情だった。
「まず、獅子の意味を持ちます尊称は、どうかお控えください」
「では、東狐様。御答え下さい」
「この世は今、貧困や差別に苦しむ人々で溢れて返っております。獅子王を仆した『木天蓼』の者が再び獅子王の様な偽王を立たせぬ様、王宮で育てられたウサギを殺めよと申し上げたというのならば……わたくしの預かり知らぬことではありますが、一重に世の泰平を願ってのことでしょう」
東狐からの指示では無いのだとしたら付け入る隙があるかもしれない。青猪は畳みかけた。
「では、先ほどの放送でのウサギがもう一匹居るという情報はお聞きになりましたか。王太女殿下が公衆伝達で報じたということは、恐らくはこの再兎と同じく獅子王陛下が離れた場所でお育てになられていたのでしょう。それはつまり、どちらのウサギも王宮に育てられたウサギだということを意味します」
青猪はここへ、『木天蓼』武闘派一派が再兎を抹殺しようとするのを諫めてくれと頼む為に訪れた。
その上でこの世の何処かに居ると馬綾が言ったもう一匹のウサギを捕まえようと考えていた。
再兎が、悪のウサギである筈がない。
きっとこの世の何処かに、王宮で獅子王を誑かしていた『鬼』の様なウサギが居るのだ。
それを探しに行って、再兎が何の災厄でも無いことを証明したかった。
東狐は青猪の話に頷き、暫く逡巡した後、厳かに口を開いた。
「わたくしも、二つの新たなウサギがこの世に産み落とされたことを存じておりました、新たなウサギに新たな王を立てさせよとの神託も受けております。しかし、声のする方角である東の森は聖地。新たなウサギを探すどころか立ち入ることすら出来ぬ場所です。先ずは、獅子王を失脚させ、王家に居る悪のウサギを滅することを優先すべきと判断致しました。それがもう、二匹とも獅子王に飼われていたとは……」
「にも関わらず、この再兎だけが悪のウサギだと断定され早々に殺されるのは、些か乱暴ではありませんか」
青猪の燕尾服の裾を掴み、再兎が恐る恐る顔を出した。
東狐はその上等な服に包まれたウサギの姿を見つめ、人と思わぬ様に自分を奮い立たせながら話を続けた。
「確かに、殺す必要は無いかもしれません。捕えて、もう一匹のウサギを見つけてから比べて判断することも出来ます。しかし今はまだ眠っているそのウサギの力が目覚めた時、人間の作った檻など何の枷にもなりません。ウサギの妖力は強く、一瞬で多くの人間を殺めることも出来ると言います。そして再び偽王を立てないとも限りません。三百年以上悪政が続いてきたのです。獅子王が育てたウサギを悪のウサギと考え、力が目覚め手遅れになる前にまずは殺めようとする信徒たちの気持ちもまた自然なことではありませんか」
青猪はそれに首を振り、東狐に言い放った。
「僕には、獅子王陛下に不満のある者たちが、神の名を傘に着て自分たちの都合の良い様に殺生を繰り返している様にしか思えません」
「では……このウサギは善のウサギであると断じることが出来ますか、サライの大使殿」
東狐は青猪の瞳をじっと射抜いた。薄暗い聖堂のステンドグラスが月光を鈍く歪ませて仄暗く光る。
自分は、この問いに決着を付けなくてはならない。分が悪くなった青猪の正装の背に冷や汗が落ちた。
再兎が善人か悪人かと問われれば、胸を張って善人だと答えられる。
だが、どちらのウサギかという問いには今のところ、希望的観測以外の答えを持ち合わせていない。
「一番お近くで見ておいでの貴方ですら安全だと言い切れぬものを、何故民が恐れずに居られましょう」
「再兎は、じぶんが善のウサギか悪のウサギか、わからない」
言葉に詰まった青猪の隣から、大きな声が出た。驚いて見下ろすと、再兎が青猪の掌をぎゅっと掴みながらハッキリと答えていた。
「どっちか分からないけど、でも、良い子よ」
揺れる再兎の旋毛を見つめ、青猪は無意識に口元を緩めた。
その言葉は、青猪が毎晩寝る前に再兎に唱えてあげた呪文だ。
再兎は良い子だね、と頭を撫でて寝かしつける。かつて自分が母親にしてもらった数少ない思い出を真似た習慣だった。
「『へいか』に食べられるのも、『またたび』に殺されるのも、どっちもいやだ。再兎は……」
再兎は、繋いだ手にたくさん汗を掻きながら、東狐に必死に訴えた。
「再兎は、ただ、あおいちゃんと今まで通り暮らしたいだけなの! 殺さないでください!」
幼い訴えが、美しい聖堂に響いた。
外の世界のことは青猪から常々聞かされていたが、今夜夜府座へ行って、自分がどういう存在なのか痛いほど思い知らされた。
世界中の人間が自分を恐れ、利用するか或いは排除しようと思っている。
自分に何の力があるのかは分からないが、多くの大人たちが自分を特別扱いしていること、そして、青猪がそれに抗って自分を護ろうとしていることも理解していた。
再兎には世界との兼ね合いが解らない。
貴族社会のルールも、三街の軋轢も、歴史も、知らない。
唯、自分の大切な人が涙を流しながら自分を護ってくれていることは分かる。
そしてそれが何も知らない再兎にとってはたった一つの寄る辺だ。
「ウサギよ。貴女が悪のウサギなのだとしたら、やがて力を得た時に選ばれる偽王が、再び多くの人を殺め、この世は混沌の中に臥せるでしょう。善か悪か、それは重要なことなのです」
東狐は怯まずに再兎を制した。
「貴女の個としての感情は、意味の無いものです。ウサギとは神の御心、もしくは人の邪心を現世に体現する為の器でしかないのですから」
東狐はそっと青猪の肩を押した。青猪は意地でもそこを動かなかったが、後ろから再兎が歩み出て、その手を叩き落とし、食ってかかる。
「多くの人が殺されなかったら、再兎は殺されていいの? 他の人が嫌じゃなかったら、再兎は嫌でもいいの? 本当に神さまって、そんなことするの?」
青猪は圧倒されていた。再兎は、その背中に明らかに怒りを宿して燃えていた。立ちはだかる東狐から青猪を護る様にして、怒っていた。
「せめて……猶予を下さいませんか」
青猪が呟いた。聖堂は静かで、その呟きは十分響き渡った。
人の形をしただけの異形であると理解をしているにも関わらず、幼い再兎の自由な子供そのものの態度と叫びが、ついに東狐を動揺させた。
親について夜府座の暴動へ参加しに行ったたくさんの信徒の子供たちを彷彿とさせ、思わず後ろを向く。そのまま聖堂の奥の祭壇へ、救いを求める様に歩みを進める。
青猪と再兎は挑む様な気持ちでその後を着いていった。
「神はわたくしに、一刻も早く新たな真の王を立てよと、最早ウサギを産出する力も弱まりこの世が再び乱世に戻ると、仰っていました……」
聖堂の奥の、祭壇の前で立ち止まり、東狐が振り向いた。
「ですが、確かに片方のウサギだけを以て次清の見定めを行うことは、神の意志に反しているかもしれません」
東狐は祭壇の背面に飾られた旗の紋様を仰いだ。そこには、赤い布地に白く染め抜かれた二つの矢印の様な画があった。向かい合うウサギの耳の様にも、群生する茸の様にも見える。
「東狐様には、もう一匹のウサギが何処に居るのか感じられるのですか」
青猪は東狐の白い頭巾をぼんやりと眺めながら、誰か別人の口を動かしている感覚で居た。しかし、やると決めたのだ。再兎のために出来ることは何でも。
「いいえ……わたくしには神の発した余韻の様なものを聞くことしか出来ません。放たれたウサギが世の何処に紛れているのかまでは分かりません。その幼い再兎が王家に匿われていることすら、知り得ませんでした」
「先ほどの放送で、王権を与える力が世の何処かに存在すると、三街の民全てが知る所となりました。最早一刻の猶予も無いのは、どの様な輩に利用されるか分からない状況に置かれているそのウサギの確保の方ではありませんか。『木天蓼』と共に僕もウサギを探しましょう」
革命と称しテロを繰り返した『木天蓼』に王宮の人間が協力すると言う驚きに、東狐は絶句した。青猪はそれに応えず、淡々と続ける。
「王位百年が経ってもウサギが現れず、再兎は二年ほど遅れて漸く王家へ来ました。つまりその間、王宮騎士団は血眼になってウサギを探していた筈です。それでも見つからなかったということは、もう一匹の双子以外、ウサギは現在この世に存在しないということになります。このウサギを巡って争奪戦が起これば、また乱世にもどります。王太女の命でウサギを抹殺しようとしている王宮騎士団に顔の利く者が居たら便利ではありませんか。『木天蓼』が入れない場所にも僕なら入れます。悪い話では無い筈です」
獅子王が崩御した今、サライの大使という身分がどれほどの効力を発揮するのかは定かではないが、そんな微力に縋り、虚勢を張る他、青猪には良い案が思いつかなかった。
「貴女方『木天蓼』は、偽王と悪のウサギを倒した。その後は新たなウサギが新たな王を選ぶまで待つ。それが神の意志に従うことだと、そういう信仰の形だと伺っております。では、『木天蓼』以外の人間がウサギを見つけ、あまつさえ王になろうとしていた場合は、僕が略奪の役を担います。これは、貴女方の信仰からすれば御法度でしょう。ですから、僕がやります」
「何を言うのです……」
「王宮へ来た『木天蓼』は、貴女こそ王に相応しいと考えている様子でした。そして貴女自身も、神の託宣を受けた責任を取り、自らが王になるべきだと思われているのではありませんか。それを僕が叶えます。但し……」
青猪は再兎の手を強く握った。再兎は事態を把握し出しているのか、指先が震え、小さな爪が怯える様に青猪の手に食い込んでいる。
「万が一、この再兎が悪のウサギだと判断された場合でも、どうか殺さず、僕の元で軟禁という形にして下さい。その時は誓って再兎に王を選ばせません。生涯かけて僕が監視し、僕が死ぬときは僕が選んだ者に監視を引き継がせます」
東狐は、ウサギが選んだ王を神の意志とし、それに従うことは神に従うことだと教えを説いて来た。今でもその心に偽りは無い。
しかし、一方でずっと感じていた。
ウサギが真の王を選んだか偽王を選んだかは、長い月日をかけてしか分からないことなのだ。そして、分かったときに偽王だったと気付いても、それはもう手遅れで意味の無いことだと。
獅子王の二の舞にさせない為にも、他人任せにすることに不安があった。
神の託宣を受けることの出来る自分ならば、神の意志に沿った政治が出来るのではないかと不遜ながらずっと感じて来たことだ。
犬遊が推挙するずっと前から、東狐はその浅ましい欲望を心に秘めていた。
それを今、何の縁も無い王宮の者に見透かされ、取引されている。
「貴方は……一体、何者なのですか」
赤い画を背に、後退る。青猪は笑った。
「僕は、この子の父親です。だから善でも悪でも、ただこの子に生きていて欲しいのです」
そして漸く再兎に顔を向ける。
再兎は、赤い瞳に涙を一杯溜めて、唇を噛み締めて耐えていた。先ほどまでの威勢は鳴りを潜め、青猪のすることを邪魔しない様、自分を精一杯抑えている。
「再兎、君を誰にも殺させない」
「……うん」
言いたいことを山ほど堪え、頷いた再兎の大粒の涙が、薄暗い聖堂に星屑の様に零れ落ちるのを見た。
青猪は、これよりも美しいものを知らない。
これを護るためならば、どんな汚いことをしてでもウサギを奪うと心に誓った。
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