第35話 聖堂へ




 急いで乗り込んだ馬車は二人乗りで小ぶりなクーペだった。

 

 倒れ込む様に座席に滑り込み、慌てて鞭打たせたので、暫く馬は興奮して鼻息荒くダカダカと走った。


 御者がそれを宥めようとしたのを制し、青猪あおいはそのままの乱暴な走り方で良いから一刻も早く夜府座よふざを離れてほしいと伝えた。


 御者は不審そうに振り向いたが、青猪の膝に向かい合って座る再兎さとの特異な外見には気が付かなかった。



「失礼ですが、お客様」



 暴れ馬を操縦しながら、御者が声だけ投げかける。青猪はまだ動悸のする胸を押さえながら、なるべく何でも無い様な返事をしながら顔を上げた。



「はい。何か」



「生活区と『木天蓼マタタビ』は方角が真逆になりますが、宜しいのですか? もう随分遅い時間ですから、お小さい妹様はお休みになりたいでしょう」



 恐らく初めての社交場デビューを終えた貴族の兄妹とでも都合よく勘違いしてくれたのだろう。御者は窘める様な口調だ。



「お構い無く。父の御遣いで行くのです」



 青猪は愛想笑いを浮かべてその場をしのぐことにした。


 御者は二人の身なりで上級貴族だと認識している。それ以上の詮索は止め、そうですか、と鷹揚に頷いた。


 不機嫌な馬の引く馬車でも、箱馬車の小さな空間に二人きりで居ると嘘の様に心が和らいだ。


 青猪の胸に顔を付けたまま黙っている再兎の様子を窺うと、彼女はくったりと身を預け、知らぬ間に眠っていた。


 下睫に張り付いた黒いコンタクトレンズをそっと摘まんで取ってやる。


 再兎の長い耳を同じく長く伸ばした髪の毛で包む様に隠してみたが、毎日丁寧に手入れされてきたそれはサラサラと流れ落ちて絡みついてはくれなかった。

 

 窓の外の流れる街灯の帯を見ながら、深く呼吸を繰り返し、青猪は落ち着きを取り戻そうとしていた。


 何故、六年ぶりに王宮に呼ばれた日に『木天蓼』の襲撃があったのか。


 偶然の筈がない。


 しかし、馬綾ですら今夜呼ばれた理由を知らなかった。


 理由は王宮ではなく『木天蓼』にあるのかもしれない。


 十年前のテロの時は、『木天蓼』は今の様な宗教団体ではなく、過激派一派の武力組織でしかなかったと聞く。


 教祖の東狐とうこ自身は争いを嫌う穏やかな尼僧で、ウサギを救世主として貧民の心を救っているのだという。


 もしも東狐と話し合いの余地があるとしたら、あのオニキスのピアスの男の放った命令を取り消せるかもしれない。



「王宮で飼われていたのなら、そのウサギも悪のウサギ、か」



 青猪の哀しい独り言は、高い蹄の音で消えた。


 闇夜には段々と街灯が減っていき、西街の果てへ向かっていることが伺える。


 月明かりと深い緑ばかりになった路の風景に、何故だか寂しさが込み上げてくる。


 胸で眠る再兎の頭に顔を埋め、強く目を瞑り、そして父親のことを思い浮かべた。


 偽王である獅子王ししおうに忠誠を誓い、誰よりも優先してきた父。


 その父を恨みながらも、愛してほしくて傍で働いてきた自分。


 自分たち親子が人生の全てで仕えてきた王がしかし無残な姿で醜く朽ち果てたことに、強い虚しさを感じていた。


 獅子王が崩御した今、西街の貴族制度は崩壊するだろう。


 馬綾に指摘された通り、大義無く生きて来た報いだ。貴族社会に文句を垂れながら、実際には土もいじったことの無い自分が、王の庇護無く明日から暮らしていけるのだろうか。

 

 青猪の心が不安の泥濘に落ちていく。すると、眠っていた再兎が身動ぎして、うっすらと目を開けた。


 騙す為につけた黒いコンタクトレンズはもう無い。本来の深紅の瞳が宝石の輝きで青猪を見上げる。



「……あおいちゃん、だいじょうぶ……」



 ハッと顔を上げた青猪に手を伸ばし、再兎がその頭を優しく撫でた。そして、微睡みながら呟く。



「再兎、ずっと、あおいちゃんと一緒にいるよ……」



 青猪は驚いて再兎の顔をまじまじと見つめた。


 疲れているのか再び瞼を閉じた再兎の手が、気付かずに流れていた青猪の頬の涙を拭いながら、するすると落ちていく。


 僕は、なんだってやらなくちゃいけない。再兎の長い睫を見つめながら、青猪は心がぎゅっと苦しくなった。


 再兎を生かす為に、僕は出来ることを全部やろう。出来ないことは出来る様になろう。


 まるで頬を張られた様だった。ぐいっと涙を拭い、前を向いた所で公衆伝達が流れた。


 Pの声が大音量で響き渡る中、既に青猪は懐から再来の大使状を取り出していた。


 再兎を殺そうとしている王宮の放送に敬意を払っている時間は無い。


 謹聴のために馬を止めようとする御者を振り向かせ、静かに大使状を見せる。そして王宮の放送と大使状のどちらが優先なのか混乱する御者へ一言



「今、止まれば、貴方は不敬罪ですよ」



 と告げた。御者は前を向き、鞭を一層強く打った。


 自分で言っておいて、馬鹿馬鹿しくなる。一体誰が、不敬罪に処するというのか。


 もう獅子王は居ないというのに。


 御者も、僕も、誰もが放たれたというのに。

 

 ウサギは二匹居ると馬綾が叫ぶ声で、放送は途絶えた。


 再び静まり返った夜の中、青猪はそれを意外にも冷静に受け止め、そして心の底から安堵していた。



「……二匹いるのなら、きっと君は、悪のウサギなんかじゃない」



 そう囁きながら、いつもベッドでしてやる様に優しく再兎の頭を撫でる。


 黒く染められた長い髪の毛が馬車の窓から射す月光に照らされて輝く。もう少し眠らせてやりたいと思った辺りで、すっかり落ち着いた馬が静かに止まり、御者がおずおずと振り向いた。



「大使閣下、『木天蓼』本部へ到着致しました」



 青猪は小さく頷き、御者にチップを渡して再兎を優しく揺すった。



「あのう……」



 目を擦りながら小さく欠伸をする再兎をチラチラと気にしながら、御者は再び青猪に話しかける。



「陛下が崩御されたというのは……その、閣下が新たな王に成られるからということなんでしょうか……?」



 青猪は初め、何を訊かれたのか分からなかった。再兎の手を取って馬車を降り、ドレスの裾を整えてやりながら漸く、自分が再来のウサギを連れているからかと合点がいった。



「まさか。僕は、ただの遣いです」



 短く答え、御者の顔も見ずに踵を返す。何故だか分からないが不愉快だった。



***




 暗闇に聳え立つ聖堂へ向かい合う。近くで見ると圧倒されるほど巨大な外観は、優に五百尺はあろうかという四本の尖塔が特徴的だ。


 絢爛さは無く古い建物だが、レンガ造りの塔の中央に鎮座する円蓋の大聖堂は、四方を衛兵に守護された美玉の如き風格で沈黙している。


 錆びた鎖が掛かった門は閉ざされていた。


 聖堂の窓には明かりが灯って居るが、力のある者は王宮へ出払っているのか門番は不在だ。


 何処かから忍び込めないかと、青猪が延々と続く敷地囲いの切れ間を探していると、突然繋がれた手を振り解いて再兎が門へ走り寄った。



「再兎!」



 青猪が慌てて後を追う。



「あおいちゃん、ここに入りたいんでしょう? だいじょうぶ、再兎にまかせて」



 振り向いた再兎が眉を上げて頷き、大きく息を吸って叫んだ。



「だれか! だれか、いませんか! ここを開けてくださいっ!」



「再兎!」



 顔面蒼白で再兎を捕まえようとする青猪を避け、再兎は門にしがみ付き、ガチャガチャと大きな音を立てて鎖を揺らした。



「再兎だって、あおいちゃんの役に立ちたい!」



 青猪が力尽くで再兎の身体を門から引き離そうとしていると、聖堂の中から何人かランプを手にした女性たちが駆け寄って来た。物音を聞きつけて出て来た様子だった。



「あのっ! 中に入れてください! 門を開けてください!」



 再兎が門に齧りつきながら大きな声で信徒たちに叫んだ。青猪は言葉を失ったまま再兎を抱え、呆然と事の成り行きを眺めていた。



「何事ですか」



「入信希望者ですか、でしたら昼間に改めて……」



 口々に窘めていた『木天蓼』信者の女性たちは、近まるに連れて明らかになる再兎の外見を認識し、やがて全員が喋れなくなった。



「サライの大使です。お通し下さい」



 ようやく青猪が門の向こうから静かにサライの大使状を見せる。


 灯りを掲げて注意深くそれを読んだ信者たちは、やがて青ざめながら、ゆっくりと重たい門を引いた。


 ギリギリと引き摺られる門の車輪を待たず、再兎は青猪の手を引っ張って隙間を潜り抜ける。

 

 恐れる様に道を空ける白い修業着の信徒たちを尻目に、青猪は予想もつかない行動をした再兎を目で窘めた。



「再兎、二度とこんな真似をしないで。僕は君を危険な目に遭わせたくないんだ」



 再兎は反抗する様に青猪を見上げて言った



「『またたび』本部って、さっき再兎を殺せって言ってた男の人の仲間でしょう?」



 青猪は、驚いて再兎を見た。ファーとコンタクトレンズを失った再兎は、本来の長い耳と赤い目を露わにし、見たことも無い顔で青猪を睨みつけていた。



「あおいちゃん、再兎を殺さないでってお願いに来たんでしょう。だから再兎も、あおいちゃんを守りたいの。再兎だって、出来ることをやりたいの!」



 再兎は馬車の中で告げた行先と夜府座で名乗った男の名前をしっかりと覚えていた。


 強く青猪の掌を握り締め、歪んだ顔で聖堂までズンズンと進んでいく。


 青猪はまるで夢でも見ているかの様に再兎の背中を追った。


 彼女はついこの間まで赤ん坊だった。汗ばんだ小さな掌で青猪の頬を撫で、意味を成さない喃語を上げて無垢に笑っていただけの存在だったのだ。


 それが今はどうだ。


 弱った青猪を庇う様に、自分を殺そうとする組織の本部を目指し勇ましく先陣を切っている。



「……待って、待って再兎。分かったから、少し待って」



 哺乳瓶に一生懸命吸い付いていた再兎の顔を過らせながら、青猪は再兎を止めた。


 聖堂の入り口はもう間近に迫り、青猪はその参道の途中に膝を着き再兎をベルベットのドレスごと抱き締める。



「再兎、門を開けてくれて有難う。助かったよ。だけど今度は僕が君を守れるやり方で『木天蓼』と話をつけるから。だからどうか僕を信じて。後ろから着いておいで」



 再兎は不満そうな顔で青猪を見返したが、青猪があんまり一生懸命に抱き締めるので、やがて観念した様に抱き締め返した。



「分かった……再兎、あおいちゃんに着いていく」



 青猪はホッとした顔をして笑うと、今度は再兎の手を引く形で聖堂の扉をゆっくりと開けた。



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