第33話 韜晦の果て




 公衆伝達は、北街の隅の、スラムにも届いていた。

 

 住人たちは、獅子王ししおうが自分たちに唯一与えた物である街頭スピーカーを一瞥だけして、興味無さそうにまた暗い寝床へ戻っていった。


 政治は自分たちとは無縁だと思っている。この世で生きているのにこの世の行く末に何の感情も持ち合わせていないのだ。


 みすぼらしく屈んだ背筋の鱗は所々剥がされ数が疎らになっている。


 指先の爪の様に背筋の皮膚が高質化して光沢を持つ魚種特有の鱗は、時折現れる男たちが割と高値で買い取ってくれる為、貧民たちは気休め程度の麻酔で鱗を取らせる。


 買い取る男たちはコソコソと頬っ被りをしているが、飛び出た派手な毛先で鳥種だと分かる。


 南街の芸術家や美容家たちがこの鱗を欲しがるのだろう。この、差別される者の証を、表面的に評価して前衛的なつもりでいる。



「いやあ、分からんなあ」



 老いた目をじっくりと凝らしながら太刀たちは首を傾げた。 



「この一つ一つが他の人間の鱗を縫い合わせたものだとは、とても分からん。南街の美容技術はまた上がったな」



 感心しながら顎を擦り、溜め息を吐いて頷く。

 

 スラムから遠く離れた北街の中心に聳え立つ邪気寄席ざけよせの蔵の中、用心棒を勤めるやくざ者の男たちと共に、吊るされた一人の女をじっくりと見ている。


 荒く呼吸をしている女は、少年の様な短い茶金の髪を血で真っ赤に染めた亜栗鼠アリスだった。


 衣服は所々破れ。豊胸手術を施した重たい乳房は、重力に従って重りの様に下がり、下着だけでは支えられずにちぎれそうに痛んでいた。


 手足は麻紐で乱雑に纏められ、天井の梁からぶら下がる鎖に引っ掛けられている。


 頭に血が上り、目の裏が破裂しそうだった。顔が真っ赤に膨れ上がっているのは殴られた所為なのか、それとも血液が溜まっている所為なのか判別できない。 



「この女が此処へ来たのはいつだ? 儂は堅気の方の雇用は全く関知してないからな」



 太刀は、逆さまになった亜海鼠の顎を指先でつまみ、口元を覗き込みながら周囲に訊いた。


 取り巻きたちが一斉に輪の外で一人震える小男を振り返る。汗でびっしょりの額に朱い巻き毛を貼り付けた鯉市りいち



「に、二年前です」



 と小さく答えた。


 太刀に張られた頬が更に腫れあがり、そちらの鼓膜が破れている為、発音が少しおかしかった。



「ほう。二年前の手術痕だからというのもあるんだろうな。見ろ、裂いた口の奥、確かに歯並びは小さな顎のものだ」



 顎を弾き、満足したのか太刀は亜海鼠から離れた。そして静かに見下ろし、顎で促す。


 取り巻きの一人が吊るされた亜海鼠の側頭部を勢いよく蹴り飛ばした。


 鎖がガチャガチャと鳴り、麻紐が大きく揺れながら亜海鼠の手足の皮膚に食い込んで血を滲ませる。



「口を裂き、鱗を縫い付け、魚種に成り代わったか。まあその根性は認めよう。下ろしてやれ」



 痛みと苦しみで声も出ない亜海鼠が振り子の様に揺れる。男たちがそれを止め、麻紐をナイフで乱暴に切り裂いた。


 太刀は後ろ手を組み、つまらなさそうな顔で地面に落ちて呻く亜海鼠を眺めた。


 頭に上った血が緩やかに下がっていく冷たさを感じながら、亜海鼠は顔を僅かに太刀へ向ける。


 充血した眼からは、涙の代わりに茶色のコンタクトレンズが落ちた。


 昼間逃げ出したウサギと少年の後を追い、太刀の屋敷から南街との街境の方角へ向かって移動していた亜海鼠は、その途中で公衆伝達を耳にした。


 獅子王が崩御し、『木天蓼マタタビ』が王宮を占拠したという内容に最初に感じたことは、全てがもう遅すぎるのだという後悔の念だった。


 間に合わなかった。


 今この手元に再来のウサギを捕まえてさえいれば、馬綾を王にすることが出来たというのに、昼間、自分はあろうことか目の前でウサギを逃がしたのだ。


 後継者の鯉市の目の前だったこともあり、拘束を解いて取りあえず太刀の手元に渡るのを防ぐのが精一杯だった。とはいえ、心の中が後悔の念で埋まり、足が止まってしまった。


 解禁夜、生活区の路地に呆けて佇んでいることがどんなに目立つかも頭では理解していたが心が追い付かなかった。


 全てが手遅れになったのだ。全てが、無意味になったのだ。


 そのことだけが頭を占拠し、追手の足音に気付くのが遅れた。気付けば邪気寄席の屈強な用心棒たちに囲まれていた。


 太刀の金庫から遺伝子操作の研究データを盗み取ったことはまだ露見していない様だった。


 下着のホックに挟んだ小さな記録媒体を、せめてもの意地で隠し続ける。



「今夜儂の商品が一匹消えたことと、儂の屋敷に忍び込んだお前は、何か関係しているか」



 太刀が自分を見下ろす。蔵の明かりが逆光になって鹿錬貴に操作されこの世に産まれた醜い顔を黒く隠した。



「あ……亜海鼠あこ……、正直に言ってくれ。叔父貴の質問に、正直に答えてくれよ……」



 頼むよ、と情けない声で鯉市が言った。


 随分遠い場所に居る小太りの赤毛の男は、あんなに自分を愛していると囁いていた癖に、いざとなると冷たいものだなと亜海鼠は思った。



「亜海鼠か。それは魚種の名前だが、お前のその目、獣種のものだな」



 太刀が呟くと、取り巻きの一人がさっと腰を落とし、寝転んだままの亜海鼠の耳を引っ張り上げる。太刀はそれを覗き込み、鼻を鳴らした。



「耳先は……切って縫合したか。口を裂ける気概があるなら造作も無かっただろう」



 亜海鼠あこ――亜栗鼠アリスは口を開く気はなかった。


 公衆伝達で耳にした久しぶりの馬綾の声はひどく郷愁感を誘った。


 こんな身体の自分に、もう帰る場所は無いと分かっていても、西街の王宮へ心は引き戻された。


 あの中庭のガゼボ。心地よい廊下のヌック。遠い思い出を現実ではない幻の様に感じる。

 

 年の離れた姉の十毛朱ともみは、中流階級へ嫁ぎ子を成したが死産した。


 実家が没落貴族だったこともあり離縁された後は馬綾の乳母として王宮へ入った。


 亜栗鼠が侍女として勤め出した頃には初々しくドレスを摘まみお辞儀が出来る様になっていた王太女を見つめ、慈愛に満ちた顔をしていた。



「私はもう、貴族として誰かと結婚することは叶わないだろうけれど、でもそれよりもずっと素晴らしいお勤めをさせて頂いてるから、だから、もういいのよ」



 自分が王宮へ入る代わりに立派な家へ嫁いで幸せに暮らして欲しかった。


 しかし十毛朱はそれを望んでいなかった。今ならよく分かる。


 十毛朱の死を境に裕福になった生家へ戻らなかったのは、亜栗鼠もまた同じ気持ちだったからだ。

 

 馬綾は、自分たちの光だ。

 

 幼い少女の語る王政は、理想に溢れ、稚拙で非現実的だった。


 種族間差別を無くし、暮らしの格差を無くし、他の街から金を巻き上げることで豊かになった西街の様に他の街も豊かにするのだと馬綾は語った。


 目を輝かせ、かつてその差に苦しめられた亜栗鼠や青猪の卑屈な気持ちまで包摂してくれた。


 この世界の富が偽りの上にあることくらい、亜栗鼠だって理解していた。


 だからこそ、心を汚さず真っ当に生きていく為には光が必要だった。


 自分たちが誰を犠牲に今日の糧を食べているのか懺悔せずとも、馬綾がやがて作る筈の平等な世界の為だと思えば苦しくなかったのだ。

 

 馬綾の側に仕えることは、富を享受する免罪符に他ならなかった。


 馬綾の為に死ぬことで、自分はその誇りを保った魂のままで居られる。


 光の為に命を賭した姉の死に様が、亜栗鼠の生にいつしか条件を付けていた。自分もまた馬綾に尽くし命を掛けなけば許されなくなった。 



「あの、獅子王が死んだのにまだ口を割らないということは、王宮とは関係ない人間なんですかね……」



 蔵の壁に張り付いて傍観していた鯉市が、口を挟んだ。太刀の取り巻きたちが鬱陶しそうに振り返り、恐る恐る太刀の顔色を窺う。


 鯉市はよく聞こえない耳を庇いながら、それでも出せるだけの声量で続ける。



「間者ってわけじゃないと思うんですよ、二年間、仕事も真面目にやってたし、多分その、すごく貧しい家の娘なんじゃないかな、なんて。西街は貴族社会で仕事が無くて、それで変装して北街に来たとか……ほら、この街は選ばなければ仕事はあるし。まあ、金持ちには、なれないけど……だから叔父貴の家から金目の物を盗んだとか……」



 尻すぼみの言葉は宙に浮き、やがて鯉市は諦めて口を閉じた。


 白けた雰囲気が蔵に満ちる。太刀は鯉市を見もしない。ただ、丁寧に手入れされた黒革のブーツの先で、亜栗鼠の首筋に貼り付けられた他人の鱗をなぞった。



「長年探していたウサギがうちに入った日に、ここの所大人しくしていた『木天蓼』が王宮を占拠した。獅子王が殺され、王宮のウサギが死に、うちのウサギは逃がされ行方知れず。おまけに王太女がウサギは皆殺しにしろという。どうにも、出来過ぎた筋書だ。コイツが、ただの平民の訳が無い」



 太刀は静かに言った。鯉市が再び弾かれた様に弁明しだす。



「叔父貴! 亜海鼠は、たまたま今日初めて蔵に入ったんです、偶然なんです! それに、あれが再来のウサギってやつだなんて……知らなくて」



 鯉市の朱色の巻き毛は、母親譲りだ。


 駱仁らくとが作った養護施設に最後まで残っていた鹿錬貴カネキの実験体のうちの一人で、施設を出た後に私生児を産んで死んだ。


 魚種同士の子供に鳥種の髪の遺伝子を入れて作られたそうだが、遺伝子的には深紅が出るところを魚種特有の水で薄めた様な色合いで産まれた。


 太刀は一緒に暮らしていた世代では無いのだが、実験を引き継いだこともあり養護施設の弟妹たちの様子は把握していた。


 血の繋がりは無いが、鹿錬貴の手垢がついた者同士ということに縁を感じ、鯉市の後見人になった。

 

 鯉市は何も秀でたところの無い人間だ。


 だが、太刀の砂漠の様に乾いた心に、慈愛という感情を初めて与えた人間だった。


 太刀は鯉市から叔父貴と呼ばれる時だけ、人間として誰かと繋がっているのだと実感できた。



「鯉市、お前はコイツを庇うのか」



 そして振り向いた。瞼の重い小さな目が鋭く鯉市を睨む。横に大きく裂けた口が不機嫌そうに歪み、鯉市は圧倒されて壁に背を付けた。



「ちが、違う。違います叔父貴、ボクは、ただ……」



 腰が抜け、へなへなとしゃがみ込み、鯉市は力なく尻を着けた。


 亜栗鼠はそれをぼんやりと見つめながら、もういいよ、と小さく呟いた。

 

 その声は掠れて、殆どが空気だった。目線が近くなった鯉市が涙目でその口の動きを追う。



「あり、がと、ね」



 目を見張った鯉市に、にっこりと笑って亜栗鼠は目を閉じた。


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