第32話 魚二十番




 この日以降、亜栗鼠アリスは皆が寝静まった夜中に起き出し、使用人室の窓際へ張り付いて月明かりを頼りに手記を読み進めた。


 記録は八十年ほど前、正確には七十八年前の夏から始まっている。


 この年は帳簿で確認した通り、魚種の差別撤廃宣言が発布された年であり、鹿錬貴カネキが王宮へ多額の寄付を始めた年でもある。


 逆算すると鹿錬貴は六十歳前後、駱仁は産まれているかどうかという辺りだ。


 一代で財を成した大富豪がその歳まで独り身とは考えにくい。つまり駱仁はやっと授かった一粒種ということになる。


 それなのに何故、少年時代の彼はあんなにも鋭い憎しみに満ちた眼差しで写真に納まっているのだろうか。

 

 手記の初めには、鹿錬貴が北街へ市場開拓の為の調査へ訪れた際の日記もあった。差別撤廃宣言の直後、北街は一時的な好景気に沸いた。


 誰もがこれからの暮らしは良くなるものだと信じて疑わず、根拠の無い成功を想像した。


 鹿錬貴は実業家として新興街へ鉄鋼事業を展開するつもりだった。



「話には聞いていたが、やはり北街の整備は遅れている。水辺近くの家や路はよく冠水している。泥濘や大粒の石が転がる道が多い為、馬車が普及しておらず、人々は舟、牛車以外の交通手段を持たない。橋の欠けた場所が多く存在し、渡し船屋の居る時間しか渡渉できない。襤褸を身に纏った不潔な子供たちが溢れている貧民地域もある。そこには家も無く、人々は合板やベニヤ板で作った囲いの上に鉄線を渡し、藁や葉を乗せて屋根としている」



 手記には、当時の北街の情景がありありと正直に書かれている。鹿錬貴はやがてこの街に鉄橋や防波堤、整備された道路をもたらす。



「私は北街へ来て人生観が変わった。我ら獣種は社交界で見栄を張る為に生きている様な者が多い。魚種にはそれが無い。魚種の生活は、懸命で純朴で清貧そのものだ。食べ物を探し、寄り集まって暖を取る姿を調査団の者たちは意地汚いと嘲笑うが私はそうは思わない。かつて私もまた平民の暮らしをしていた頃、貧しい時分は家族寄り添い同じことをして食い繋いできた。これが人間本来の姿に他ならない。貴族には無い美しさがある」



 鹿錬貴が徐々に魚種に対し傾倒していく有様が手に取る様に分かる。


 亜栗鼠は貧しい下級貴族の出だが、確かにどんなに空腹でもみすぼらしい恰好はしてはならないと育てられてきたし、両親は王宮へ娘二人を奉公に出しても社交界へは顔を出し続けていた。


 それは、平民出身の鹿錬貴には理解しがたい貴族社会のつまらぬ虚栄だったのだろう。



「魚種の貧民たちはこちらが善意で親切にしてやっても、それに礼の心は持たず、寄生虫の様に幾らでも搾取しようとしてくる。これはただ空腹を満たしてやることでは回避されない。教育を受けて居ない者たちの品性の無さだ。幾ら北街を整備しようとも魚種自身の在り方が変わらなければ差別は無くならないだろう。しかし、貧しさの中でも逞しく生きる魚種の胆力は素晴らしい。脆弱な精神と外面的な名声に縋る獣種には最も必要な要素だ。教育や経済の確立によって文明的な生活を送る獣種、華やかな独自の文化を持ち、芸術や細やかな技術に長けている鳥種、三者三様の特徴を、融合させる術は無いだろうか。」



 この文面の後、鹿錬貴は魚種の子供を何人か連れ帰り、南街からも鳥種を呼び寄せ、融合を試み始めた様だった。


 亜栗鼠は、一週間かけてこれを読み切った。最後の方は遺伝子操作についての仮説や結果が走り書きされ雑記帳に成り代わっている。


 手記はこの一冊ではなく、地下の物置にもう何冊か続刊があるのかもしれない。


 しかし、高齢の駱仁らくとが外泊を伴う外出をすることは稀で、恐らくもう暫く地下室へ忍び込める機会は無い。


 もしも駱仁が父の後を継いでこの異種との交配実験を繰り返しているのだとしたら、再来のウサギはそこに匿われている筈だ。


 だがこの屋敷にその気配はまるで無く、かと言ってどこか外部で行われているとも考えにくい。


 駱仁は普段、庭でティータイムを過ごすくらいしか外出しないからだ。



「……父親のやっていることが恐ろしくて、全てを清算したのかしら」



 亜栗鼠は寝台の上で独り言ちた。


 ただ、そうなると王宮への寄付金に説明が付かない。


 この非人道的な行為を容認する見返りとして獅子王へ多額の寄付を渡していたのだとすると、約五十年前、鹿錬貴が九十歳で大往生した際に寄付は終わる筈だ。


 しかし寄付は三年前まで同額で、現在も減額はされたものの続いている。

 

 ショールに大切に包み、私物入れの奥深くに手記を潜り込ませる。


 馬綾へ報告することも考えたが、ウサギの居場所を見つけるまでは伏せておくことにした。


 父親への信頼感が揺らぎ不安定な状態の馬綾に、更に追い討ちをかける様なことをしたくなかった。

 


 ***





 八方塞がりの状態で時は流れ、亜栗鼠アリス鹿錬貴カネキ邸に仕えてもうすぐ一年経とうとする頃、ある来客があった。



「亜栗鼠、あなたもし怖かったら私が代わりにお茶を出しに行ってあげるわよ?」



 鹿錬貴邸に長年勤めているという家政婦長が給仕室で紅茶を淹れている亜栗鼠に優しく声を掛けた。


 普段穏やかな口調で親切に世話を焼いてくれる家政婦長だが、その日はやけに緊張しており、そわそわと忙しなく、何度もケーキの焼き加減を確かめ、グラスを磨いている。



「本日のお客様は、そんなに特別な御方なのですか?」



 亜栗鼠がティーセットを手に訊くと、家政婦長はその豊満な身体をぎゅっと寄せ、



「だってあなた、北街の社交場の、あの太刀たちよ」



 おお嫌だ、あの醜い顔、寒気がするわ、と人の好さそうな顔を顰めて、身震いをした。


 亜栗鼠は何も知らない小娘の様に振る舞いながら、内心驚いていた。

 

 篤志家として三街の至る所へ寄付してきた鹿錬貴公爵家は、鹿錬貴亡き後も駱仁が寄付を続けているそうで、異種の客人も少なくない。


 節目節目で、南街や北街からも鹿錬貴が建設した箱物の施設長が挨拶に訪れる。


 しかし、何の縁も無い商売人がわざわざ街境を越えて西街へ来るだろうか。


 邪気寄席ざけよせでは何やら如何わしい商売をしていると風の噂で聞いたことがあるが、駱仁は邪気寄席から何かを買っているのだろうか。


 家政婦長の提案を丁重に断り、亜栗鼠は応接間のドアを叩いた。


 駱仁らくとの小さな返事の後、ティーワゴンを押しながら慎重に入室すると、黄ばんだ白髪姿の巨漢が悠然と腰かけていた。


 そしてその後ろには五人の取り巻きが立ち、部屋全体の空気を険悪なものにしている。


 駱仁は、亜栗鼠に小さく頷き、亜栗鼠も無言で給仕した。


 初めて目にする太刀は、耳まで裂けた口が他の魚種とは随分違って見えた。重たい瞼の奥の小さな瞳は眼光鋭く、凶悪そうな表情はどう見ても堅気の者ではない。


 マルサラ色の革に銀刺繍を施した豪奢なソファにどっかりと沈み、退屈そうに反り返っている。


 威圧的な雰囲気に呑まれ、亜栗鼠が震えながら一礼して扉を閉めると、応接間では会話が再開された。廊下に誰も寄り付かないのを確認し、亜栗鼠はそっとドアに耳を付ける。



「書簡で頼まれた内容なら何度も断った筈だが」



 駱仁の口調は固く、普段の好々爺の様相は鳴りを潜めていた。それに被せる様にして太刀のドスの利いた声が響く。



「おいおい、久しぶりに会ったというのに、随分冷たいじゃないか、駱仁の大哥あにいよ」



 取り巻き達の薄ら笑いの声がざわつく。



「儂はなにも、大哥を困らせようなんて思ってない。むしろ、持て余している肩の荷を代わりに担いでやると言ってるんだがね」



「太刀!」



 駱仁がピシャリと遮る。語調は怒りを孕んで大きく響いた。ドアに耳を付けていた亜栗鼠は、振動に驚いて少し離れた。



「父の研究は、二十歳でお前がこの家を出た時に全て引き継がせた筈だ。私が墓まで持って行くつもりの物を、盗むも同然で持ち去っただろう! あれが全てだ、もうこの家にお前にくれてやる物は無い! 恥を知れ、この愚弟が!」



 屋敷中の誰もが耳にしたことも無い様な怒号が、駱仁の老いた身体から捻り出された。廊下中に響き渡る声に、他の使用人たちも何事かと集まり始める。


 亜栗鼠は手記に貼られた古い写真を思い出していた。



「いやいや、まだあるだろう。例えば、そうだな。王宮からの特別な贈り物だ、大哥。なに、寄越せなんて下品なことは言わない。儂はそれをちょっと貸して欲しいだけだ」



 衣擦れの音がして、何人かが駱仁に近づくのが分かった。


 扉を隔てた廊下に何人もの使用人が集まり、固唾を飲んで状況を静観していたが、主人の身を護ろうとドアを開けられる者は居なかった。



「……それを、何度も断ったと、そう言っている。何処から嗅ぎ付けたかは知らないが、陛下からお預かりした物をお前の様な人間に明け渡す訳がないだろう」



 駱仁は少し言葉に詰まりながら、少し冷静さを取り戻していた。


 訳が分からないという顔をしている使用人たちの中で、亜栗鼠だけが強い動悸を必死に抑え込んでいた。

 

 ウサギだ、やはり駱仁は獅子王陛下からウサギを預かっていたのだ。

 

 亜栗鼠は声が漏れない様、両手で口元を覆った。



「親父が死んでから、あんたは研究者たちを解散させ、資料を儂に渡し、まだ成人せずに残っていた兄弟たちの為に養護施設を作った。あの研究自体を無かったことにしたつもりでいるな。だが、そんなことはさせん。儂は今なあ、親父の一つ上をやっているよ。動物と人間の間の子とか、儂よりもっと特徴を強くした人間とかな、色々試している。まあ、まだ成功例は無いが」



 ハハハと豪快に笑う太刀の声が静まり返った廊下にも響いた。



「なあ、悪い様にはしない。貸してくれよ大哥。屋敷の何処かに居るんだろう? それとも、養護施設の方か? 儂は何もそいつを取って王に成りたい訳じゃ無い。ただ、そいつの遺伝子をちょいと拝借したいだけだ」



「太刀……まさか、お前」



「人を選んで王にする力の根源が見つかるかもしれんぞ、大哥。それを量産したらどうなると思う? ハハ、王が無数に立ち、太古の乱世がもう一度見られるかもしれんなあ」



 使用人たちは誰も高等教育を受けて居ないのだろう。首を傾げ、駱仁の声が落ち着いたことに安心したのか、銘々仕事へ戻っていく。


 亜栗鼠だけがその場に取り残され、太刀の思想の恐ろしさに慄いていた。



「やはりお前に研究資料を渡すべきではなかったな……。お前が父と自分の唯一の繋がりだと泣いて縋っても、あの時燃やすべきだった」



「おいおい、待てよ。冗談だ。そんなつまらんことに金を掛けられるか。儂もあんたも鉄鋼王・鹿錬貴の息子。それを使って一緒に金儲けしようじゃないかと持ち掛けているんだよ。分かるだろう、獅子王を相手に商売が出来る。否、儂と大哥で獅子王を傀儡にしてしまおう」



 亜栗鼠はそこまで耳にして、少しずつ後退り、応接室の前を離れた。再び激昂した駱仁の怒鳴り声が響く。



「馬鹿な……!」



「大哥、今ここで素直に居場所を吐くか、儂に口を割られるかの二択だ。寝食を共にした大事な兄弟に手荒な真似をさせないでくれよ」



 太刀が引導を渡す。


 そして一拍の後、パン! と何かが破裂する音が響いた。亜栗鼠はその音に弾かれるかの様に屋敷の玄関へ向かって駆け出した。


 大きな音に驚き廊下に戻ってきた何人かの使用人たちにぶつかったが、謝りもしなかった。


 後ろで応接間の扉が乱暴に開く音がする。亜栗鼠は振り向かなかった。


 私物入れに潜り込ませた鹿錬貴の手記も置き去りにして、侍女の服のまま、ひた走った。


 門扉の近くで出入りの八百屋と談笑する家政婦長とすれ違った。


 亜栗鼠は目を瞑り、神に祈りながらそれを無視し、息の続く限りがむしゃらに闇雲に逃げ続けた。

 


 馬綾はこの事件のことを翌朝の新聞で知った。


 西街の公爵家、大富豪の鹿錬貴邸で当主と使用人全員が銃殺されたという恐ろしい事件を、破廉恥な醜聞が大好物の退屈した貴族たちはああだこうだと噂して楽しんだ。


 警察の調べによると、当主は利き手で銃を持ち絶命していた為、自害の可能性もあると書かれていた。


 馬綾は必死に訃報欄の使用人名を読んだ。何度読んでも、亜栗鼠の名前は無かった。


 偽名を使って雇われていたのかもしれないと思い、使用人一人一人の全ての身元を洗わせたが、皆実在する人間だった。


 馬綾は亜栗鼠がこの場を逃げ果せて生き延びていることを知り安堵したが、その後の足取りは、未だ分からないままなのである。




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