第30話 善と悪




 Pと揉み合いになり力尽くで公衆伝達の電源を落とされた後、馬綾まあやはゆっくりと落ち着きを取り戻していった。


 自分が物を言うとき、全ては優秀な後継者ならばどう言葉にするかということだけを考えて生きてきた。


 しかし今このマイクを通して三街の民に伝えた言葉は、王族としての誇りも後継者としての外面も無い、ただの十八歳の子供染みた我儘な駄々でしかなかった。



「わたくしは……なんて言葉を口に……」



 誰に向けてでも無く、取り乱した自分に愕然としながら、馬綾は指先で唇に触れる。


 Pは我に返った馬綾を見て、押さえていた身体をそっと解放した。しかしそれで馬綾を守れた訳ではない。



「放ってしまった言葉はもう取り消すことができません。正直、貴女がこれほどまでにウサギを憎んでいらしたとは……もっと時間をかけてお話するべきでしたね。私が早計でした」



 Pの慰めをよそに、馬綾は引き出しの壊れた古い机に突っ伏して静かに泣いた。


 固く握りしめた拳は白ばんで微かに震えていた。物置部屋の隅で様子を見守っていた使用人たちは、事態が把握できずに明日の自分たちの暮らしを心配して顔を見合せていたが、やがてPの目配せに気付くとおずおずと退室していった。


 Pは、唯一馬綾を死刑や貧しい暮らしから守ることの出来る筈だった計画がご破算になり、強い徒労感に襲われていた。


 広い王宮の隅にあるこの埃っぽく薄暗い物置部屋へ、馬綾は一度も足を踏み入れたことが無かった。こんな粗末な部屋が王宮にあることすら知らなかった。


 王宮にまで忍び寄る世の貧しさの中で泣く今のこの王太女の姿を見たら『木天蓼マタタビ』の者でも『くじら』の者でも胸のすく思いだろう。


 そんなことを想像しながら、ぼんやりと馬綾を見つめた。

 

 Pの中にはいつも幼い馬綾のあの雄姿があった。


 一番憎い男の元で頭を垂れて命令を聞く生活に嫌気が差す日も、心の灯を頼りに進んでいけた。


 誇り高い、王の資質を持って産まれた少女。Pはひっそりと、次にウサギに選ばれるのは馬綾であるべきだと思ってきた。


 それは『木天蓼』の思想には反する。彼らは西街の始祖であるところの東狐とうこの血筋を大切にしており、次の王には東狐を据えるつもりだ。


 『鯨』の悲願である魚種の差別撤廃も王家の首が挿げ変わっただけでは容易に成し得ないだろう。


 不平等な関税のことも、西街の王侯貴族がこれまでと変わらない生活をする為には変えることは出来ない。


 馬綾が王に就いて納得する者はほんの一握りの富裕層だけだ。自分の様な不具者や混血児も救われないかもしれない。

 

 それでも、私は貴女が玉座に就く姿を見たかった。

 

 Pの祈りは心の中で空しく落ちた。

 

 現在の王権を放棄して命を守れば、生きてさえいれば、王になる機会は平等に巡ってくる。選ぶのはウサギだ。


 だが今、馬綾はその王を選ぶウサギそのものに害を与える存在に成り替わった。最早馬綾が王になる可能性は絶望的だ。


 それどころか、王族として民に命令し、悪政を敷いた獅子王を庇護した発言を考えると、命さえどうなるか分からない。



「馬綾様……何故そこまで、ウサギを目の敵にするのですか。ウサギは王を選び、その命を延ばす力を持っていますが、害悪を与える存在ではない筈です」



 Pは馬綾へそっとチーフを渡しながら、静かに訊いた。素朴な疑問だった。


 馬綾は放送でこの世の悪政は全て悪のウサギの指示だったという様なことを言ったが、あれが本心ではないことくらい誰にでも分かる。


 崩御した獅子王ししおうに向けた餞の様なもので、ウサギがどれだけ政治に口を出そうとも決めるのは常に王だ。ウサギ自体は王にはなれない。


 つまり、ウサギはこの世の貧困や差別の直接的な原因ではない。

 

 確かに馬綾を王家の悪のウサギ、『鬼』の餌食にさせまいとPも考えて来た。


 しかしこの世の全てのウサギを殺せという命令は、真の王を選ぶとされる善のウサギまでもを拒絶した発言だ。



「……貴方は、わたくしの側仕えになってからも、お父様から直々にご命令をいただいて王宮を空けることがありましたわね」



 チーフを素直に受け取り、馬綾は濡れた大きな瞳でPを見た。赤らんだ頬と鼻ではいつもの迫力は無い。



「私は平民の出ですから、使い勝手が良かったのでしょう。王位継承権とは全く無縁の仕事です」



 馬綾の与り知らぬ所で獅子王がPを政務に携わらせていたのではという質問の意図を正確に受け取り、否定する。それは大きな誤解だ。


 そもそも獅子王からは毛嫌いされて居た。胡蝶屋の旦那の口利きで渋々王宮の庭師に雇われただけだ。王と言えども高い税金を納めている社交場の長を無下にすることは出来ない。


 それも庭師とは名ばかりで、実際は息子でありながら下男の様な仕事を任されることが多かった。


 情事の縺れで自害した貴族の遺体を秘密裏に埋葬したり、北街の闇ブローカーから買った奴隷たちの世話をしたり、夜府座のディーラーと共謀してイカサマの真似事をし、気に喰わない客に大損をさせたり、主に貴族からの頼まれごとを獅子王が金を受け取り、Pがこなした。


 下男より頭が良く、口の固いPは使い勝手が良かったのだろう。


 重宝はされたが労いの言葉を受けたことは一度も無い。


 Pも王や貴族の情報を『木天蓼』に流せて都合が良かった。



「そう……。けれど、きっと、わたくしの知らないお父様の政務のことをたくさん知って居るのでしょうね。わたくしが、貴方の知らない秘密を知って居るように」



 押し黙ったPを見据え、馬綾は少し微笑んだ。


 何の意味も為さなくなった金のクラウンを空しく載せた馬綾は、例え薄汚れた物置部屋の中であってもPにとっては眩しく、光り輝いて見える。



「秘密というのは、ウサギのことですね」



「そう。……六年前、あの子供の再兎がこの王宮へ来て、朝猪と青猪がサライの大使に任命された日、お父様に訊いたんですの。再来のウサギを飼うとはどういうことなのかと」



 青猪と共に獅子王に呼ばれた日、初めて再来のウサギを目にした。


 鳥籠に入れられた赤ん坊は確かに伝説と同じ外見をしていて、集められた数少ない側近たちが息を飲む気配を感じた。


 伝説のことは理解していた。けれど、神に選ばれた我が王家の何処にウサギが存在するのかは知らなかった。神の加護を具象化したウサギが本当に人の形をして生きていることにも驚いた。

 

 新たなウサギが出たのならば新たな王が選ばれる筈だ。馬綾は、獅子王が崩御するのではと泣いたが、獅子王はそれを飼うと言った。


 そして大切な幼馴染の青猪が王宮を離れウサギを育てると聞き、混乱して頭が真っ白になった。



「お父様! お待ちください!」



 謁見の間から退室していく獅子王を追いかけた。途中ドレスの裾を踏み何度か躓いたが、機嫌の頗る良い獅子王は振り返って待っていてくれた。



「馬綾、血相を変えて一体どうした」



 馬綾は急いで傍へ駆け寄り、廊下に片膝を着いて頭を下げた。



「ウサギは、ウサギは何故、我が王家に運ばれたのですか? 兵たちは何故、東の森へなどに向かったのですか? もしあのウサギが次の王を選んでしまったらお父様は、わたくしは、この王家は……」



 十二歳の馬綾は取り乱し、縋り付く様にして獅子王の前で不安を吐露した。獅子王は面食らった様子だったが、



「良い。余の代わりに兵を動かすこともあるかも知れんからな」



 と、独り言ちると馬綾と近くの小部屋へ入り、侍女に人払いさせた。



「座れ」



 応接椅子に腰かけ、対等な目線で会話をした。薄暗い部屋にたっぷりとしたドレープのカーテンの奥から西日が差していた。強い橙色がその当時はまだ載せていた獅子王の王冠を照らした。


 大勢の子供たちと共に食事を取る時でも長卓の端に座っている馬綾からは遠い存在だった父が、こんなにも間近で話をしてくれることに純粋な喜びと安堵が湧いた。



「ウサギは王を選ぶが、この世で王に相応しい人間は余しか居らん。人々が安心して暮らせる豊かな世の中を続けていくには、余が長く王を務めるほか無いのだ。分かるな」



 馬綾は頷いた。何かの間違いで愚かな者が王に選ばれたりしたら、獅子王の築き上げてきたこの富に溢れた豊かな世の中が崩れてしまうだろう。



「東の森は、深く入ることは出来ぬが、その周辺に新たなウサギが出ることがある。間違いが起きぬ様、王宮騎士団には定期的に警邏させておるのだ」



「そして今朝、あの赤ん坊を見つけたのですわね……でもあんな乳飲み子がたった一人で……?」



 獅子王は可笑しそうに目を細めた。



「ウサギは人に似た形をしてはいるが、本来異形の者。親だ子だという概念は無い。乳飲み子が森の外へ放り出されておったのは、流石に事故だろうが、一人では無かった」



 ドレスの膝に揃えて置いた手が汗ばんでいる。


 その、偶然森の外へ出てしまった赤ん坊を連れ去ってくることが神の意志に背いては居ないのか、馬綾は深く考えることを放棄した。



「一人ではなかった?」



「そうだ。早馬で報告しに来た兵によれば、同じ顔に同じ大きさの赤ん坊が二人、転がって寝ていたそうだ」



「なんて不吉な……」



 馬綾はドレスを握り締め、思わず呟いた。


 西街では占術師と並んで双子が忌み嫌われており、凶兆として貴族ではどちらかが養子に出される。貧しい民は死産として間引くこともある。


 いつからどういう理由で不吉とされてきたのかは、誰も知らないままに感覚で拒否してきた。


 当然どちらかのウサギを騎士団長が責任を持って間引かせたのだろうと馬綾は思ったが、獅子王は違う指示を出していた。



「双子とはいえ貴重なウサギだ。一度に二匹手に入ったと思えば喜ばしいことでもある。来るべき時に備え余は一匹をこの王家で飼い、もう一匹を誰も手の届かぬ所へ隠した」



 来るべき時とは、自分が獅子王から王位を譲られる時のことだろうと馬綾はこのとき、勘違いした。


 あのウサギは、次の王に勝手に他の者がならぬ様、後継者である自分の為に飼うのだと誤解したのだ。



「凶兆とはいえ、何故王家の手元を離れた場所でもう一匹を飼うのですか? 危険ではありませんこと?」



「案ずるな。手元は離れているが、息は掛かっておる。再兎が双子を忌み嫌っていてな、一匹は殺せと言って聞かないのだ」



 恋人の我儘でも語る様に、獅子王は見たことの無い顔をして笑った。


 部屋に闇が落ちてきて、美しい夕日がすっかり沈んだことに気が付いた。


 あれだけ美しかった獅子王の王冠はもう見えず、両目と歯の白だけが捕食しようとする獣の様に恐ろしく浮かんでいた。



***




「息の掛かった場所に隠している……獅子王はそう言ったのですか」


 Pは驚いてみせた。



「何をもって、善悪なのか、分かりませんわね」



 馬綾が呟いた。



「先ほどわたくしは、王家のウサギは悪のウサギだと民に伝えました。お父様もそう仰っていたし、あれはもうたくさんの同胞を喰って生き永らえていた。確かに、善のウサギとは思えませんわ。けれど、あれがもし、善の者だったとしても、王となる者はやはりウサギの力を借り、頼り、依存して生きていくしかないのですわ。寿命を超えた命を与え、百年の王の座を約束する存在に、どうして抗うことができましょう。誰にとっての善ならば良いのでしょうね」



 歪んだ笑顔を作り、自嘲気味に続ける。この世は差別と貧困に満ち溢れている。


 けれど、僅かな豊かさを享受する西街の王侯貴族たちにとっては、この世は善だったはずだ。


 青猪も、亜栗鼠も十毛朱も、そして自分も、その豊かさを貪って生きて来た王侯貴族だ。美しいあの思い出は善だ。


 馬綾はPの瞳を見返した。


 銀縁眼鏡に縁どられた瞳の片方は恐らく義眼だ。平民に買える様な値段ではないからここへ来る前に居たという胡蝶屋の主人が用意したものかもしれない。



「貴方は王の息子で、平民ですわね」



「……そして、混血児で、不具者ですね」



 Pは、壊れかけの椅子に座る馬綾の前に片膝をつき、馬綾と視線を並べた。


 馬綾は初めて自らPに両手を伸ばし、ゆっくりと薄く色の付いた眼鏡を外す。


 右目が薄灰色をしていた。左目は眼鏡が無いと更にギョロリと不自然だ。


 Pはゆっくりと瞬きした。存外長い睫が乾いた目を庇う様に上下に揺れた。



「貴方にとっても、この世は悪でした?」



 祈る様な気持ちで馬綾はPに尋ねた。


 Pは、母から疎まれ父から異形と呼ばれ、身の置き所の無い街で育ち、自己同一性の無さに孤独を感じて生きて来た。


 やっと出会えた心から信頼出来る友は王に処刑されて死んだ。


 やりたくもない王宮の仕事を大義も無くこなし、最早所属していることに意味を見いだせなくなりつつあった『木天蓼』の諜報活動の為、多くの人を利用した。


 貧しい人生だ。


 何処にも居場所の無い命だ。



「善ではありませんでしたね。少なくとも、私にとっては」



 Pはあまり良く見えない目を凝らしながら馬綾の顔色が悪くならない様、出来る限り静かに伝えた。


 馬綾は眉一つ動かさず、受け止めた。



「けれど、悪だったかと聞かれればそうでも無かった」



 ぼやけた視界に彷徨う様に、馬綾の丸い輪郭に手を延ばす。はっきりと見える世界ではとても触れられない場所だ。


 だが、今Pにはこうする必要があった。



「この世界には、貴女が居ました、馬綾様」



 頬に触れる。掌にしっとりと尊顔が乗った。


 少し身動ぎはしたが、馬綾はその手を払わなかった。無礼だと眉を顰めることもしなかった。



「他のことは上手くいきませんでしたが、貴女の様な立派な方に出会えたのですから、悪でも無い筈です」



 獅子王の裏の顔をたくさん見てきた。その汚い仕事に自分も加担してきた。


 素知らぬ顔で『木天蓼』で革命戦士を気取り、『鯨』で魚種に心を寄せるふりをした。


 この世がひっくり返り、新たなウサギと王が善の世界を創った時、果たして自分にはそれを享受する資格があるだろうか。


 Pは世の泰平のことなど本当は何も考えていない自分を理解している。

 

 ただ、自分と母を見捨てた男を、殺したかっただけだ。



 それが自分にとっては革命の意味の全てだった。



「これから、どうして生きていきましょうか」



 浅ましい自分の悲願はもう達成した。元より生きる理由などこれ以外に無かった。


 未来のことを考えるのも億劫なはずなのに、気付けばそんなことを呟いていた。


 すると、馬綾が輪郭に添えられたPの右手の上に眼鏡を持っていない左手を重ねた。温かな手だった。



「わたくしにはまだやるべきことが残っていますわ」



「……恐れながら、貴女に出来ることはもう何も……」



「いいえ」



 馬綾は大きな瞳にまだ光を宿していた。



「わたくしは、ウサギの無い世を創りたいのです。人が、人だけで世を律していくことは出来る筈ですわ。神の意志だというウサギの存在が、人の世の王を選ぶから歪みが生じるのです。人の世は、人が治めるべきなのです」



 そっと手を離し、Pに丁寧に眼鏡を掛ける。


 夢の様な淡い時間は終わり、ハッキリとした視界には泣き顔の赤みが消えた美しい馬綾が映った。 



「ウサギに善悪を付けたのは、初めの王ではないかと考えてきましたわ。王権を勝ち得た者が善であり、負けた者は賊の汚名が着せられた。ただそれだけだとしたら、悪のウサギの所為でお父様が悪政を敷いたという言い訳はもう出来ませんわね。けれど、『木天蓼』の、善のウサギを手に入れさえすればこの世は平和になるという考えにも一石を投じることが出来ますわ」



 Pは馬綾の前に立ち、眼鏡を整えた。



「歴史を繰り返さずに済むと、仰っているのですか」



「そう。王宮騎士団が二匹のウサギを始末していれば良いけれど、人数が少ないから難しいかもしれませんわ。わたくしはもう誰にも、あんな……爛れた王になって欲しくないのです」



 青猪の顔が浮かんだ。青猪が、今こうしている間にもあの再兎に王として選ばれないか不安だった。


 その時、Pの腕から機械音がした。ガガ、という小さな雑音の後



「おいP、いつまで裏に引っ込んでるつもりだ。娘はどうした」



 と見知らぬ男の声がした。


 Pの通信機は『鬼』を狙撃した『木天蓼』の武闘派と繋がっていた。ボタンを押せば少し離れた場所から会話が出来る小型のトランシーバーだ。



「……それは……何を……?」



 馬綾は突然の第三者の声に驚いてそれきり言葉が出てこなかった。Pは口元に手首を近づけ、



「娘は拘束しました」



 と短く返す。



「計画通り、夜府座内の貴族共は捕縛。夜府座前の信徒たちは解放したぞ。あとは娘だけだ」



「『鯨』はどうしました」



「『鯨』共は人数が少ないから放置している。ここで揉めても意味は無い。向こうさんもウサギを追わせてる以上、万が一がある。『鯨』がウサギを持ち帰る場合を考えると北へ返すより夜府座に待機させた方が良い。その場合はウサギを強奪する」



「了解。すぐ向かいます」



 Pは手首から口を離し、腕時計の様に巻き付いた小さな通信機を外した。鈍い音を立てて馬綾の脇の壊れかけた古い机に置く。


 そして馬綾へ軽くなった手首を返して差し出した。



「夜府座へ下りれば『木天蓼』が貴女を殺します。他の王子たちは貴族と同等の扱われ方で捕縛されると思いますが、貴女は違う。貴女は獅子王の正統な王位継承者です。生かされることは無い」



 公衆伝達でPの指示通り抵抗の意志が無いことを宣言していればまだ可能性は僅かにあった。


 しかしそれももう考えても仕方のないことだ。



「裏口から抜けましょう。もう、この王宮は安全な場所ではありません」



「……わたくしに就くのですか、『木天蓼』が」



 聡い馬綾は、公衆伝達の準備の整い方とPの境遇を繋ぎ合わせ、合点がいっていた。


 何処か長い事Pのことを信用できなかったのは、彼が『木天蓼』の人間だからだと分かると腑に落ちた。


 許しかけていた心を固く閉ざし、白けた眼差しで見返す。


 よりによって『木天蓼』だ。十毛朱を殺したあの組織だ。獅子王に公衆の面前で非業の死を遂げさせた反逆者だ。



「私は『木天蓼』に諜報活動に入っていた王宮の人間です。彼らはまだそのことに気が付いていない。今の内に逃げましょう」



 早口で捲し立てた後、失礼、と有無を言わさず馬綾の身体を抱え、Pは物置の外へ飛び出した。


 嘘は吐き慣れている。


 これからも幾らでも嘘は吐く。


 この灯と共に歩めるのなら、何者にでもなれる。



「P! この無礼者!」



 担がれた肩の上で馬綾が慌てた声を出した。久しぶりの馬綾の威勢に口元が緩む。


 王家の厩舎には馬は何頭も居るが、馬綾はクリノリンを仕込んだ正装のドレスを身に纏っている為に跨ることが出来なかった。


 抱きかかえられる様にしてPの腰にしがみ付き、馬の首と鞍の間に横座りするという女性的な乗馬に一瞬屈辱を覚えたが、暫くして、そんな必要はもう無いのかと気が付いた。


 かつて正統後継者となるために数多の王子たちを狩猟の場においても圧倒させてきたのは、何も男になりたかったからではない。


 後継者では無くなった今、馬の乗り方など些事だ。


 物置の机の上に置き去りになった通信機が再び催促してくる頃には、二人は裏口から拝借した狩猟用の馬に乗り、駆け出していた。



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