第29話 宿望





 社交場解禁夜の営業が無くなってから、二ヶ月に一度、不名誉な定休日がある。


 解禁夜の昼はどこの店も閉まり、皆、夜を楽しみに過ごすのだ。


 美食堂びしょくどうの板前たちも休みを取り、鯒家鯒家こちやは一人道具の手入れや常備菜の仕込みをする。


 この日にしなくても済むことばかりだが、何かしていなくては気持ちが保てない。



「坊ちゃん、少しよろしいですか」



 昼過ぎ、厨房に脇板の鰹造けんぞうが訪ねてきた。かなり白髪の多い海松色の髪は五十半ばの鰹造を六十過ぎに見せている。


 彼は先代の鯒家が板長だった頃から厨房に入っており、代替わりした今でも、二人きりになると鯒家のことを坊ちゃんと呼ぶ。


 背も低く痩せた身体だが、卓越した技術で大きな魚を何匹も汗一つかかずに捌いていく。


 鯒家にとっては板前の先輩であり兄貴分でもあった。



「鰹造さん、どうしたんですか」



 薄暗い厨房で一人、鍋を磨いていた鯒家は手を止めて椅子を出した。


 小さな窓二つしかない広い厨房の、調理台の脇の丸椅子に腰かけ、鯒家は鰹造が話し出すのを待った。



「女将は」 



「今、家の方で繕い物をしてます」



 鰹造は小さく頷いた。


 お椋が邪気寄席から美食堂へ来た頃、ボロボロの子鼠の様だったもので、板前たちは皆、妹の様に気安く名前を呼んであれこれ世話を焼いていた。


 夫婦になった後も鯒家とお椋がそのままでと言い、美食堂ではお椋で通っている。


 しかし唯一鰹造だけは祝言の翌日から女将と呼んだ。


 鰹造は、幼い頃から知っている鯒家のことを美食堂の旦那として盛り立て、決して軽く見る事はしない義理堅い男であった。



「こんな話を私の方からするのは、どうにも差し出がましいんですが……」



 その鰹造が、俯きながら言い淀んだ。手持ち無沙汰に擦り合わせる掌は、かさついて血色が悪い。年中冷たい水に晒される職人の手だ。



「坊ちゃん、美食堂はあと何年で社交場に戻れますかねえ」



「……何です、突然」



「どうお考えですか」



「……まだ、暫くは、難しいかもしれません」



 鯒家は帽子をゆっくりと取り、浅葱色の短い前髪を扱く様に額を拭った。



「その頃、私はまだ脇板に立っていられるでしょうか」



 何処か遠くを見つめながら、静かに鰹造は続けた。



「少し前の貴方ならば、来年は必ず取り返してみせると息巻いていましたよ」



 そして悲しそうな顔で鯒家の逸らした顔を見つめた。



「親父さんの遺志を継ぐ気が無いのなら、板場から降りなさい。そんな覚悟の人間が作った料理を、誰が幸福な気持ちで食えますか」



 弾かれた様に顔を上げると、鰹造は厳しい表情で鯒家を見つめていた。



「鰹造さん、俺は……」



「太刀の側女であったことが苦しいのなら、切るべきです。女将はまだ若い。坊ちゃんが捨てても他に幾らでも喜んで見受けする男が居るでしょう。だが、美食堂の主人は貴方一人です。社交場復帰の悲願を叶えられるのは、貴方しか居ないんですよ」



 鰹造の声は涙声だった。決してお椋を嫌って言っている訳ではないことは重々分かっている。


 鰹造は他の板前たち以上に異種で訳アリのお椋に丁重に接してくれていた。


 お椋の問題ではないのだ。


 これは、自分自身の在り方について苦言を呈されているのだと、鯒家は冷や水を浴びせられた気持ちだった。



「女将は苦労されて来た分、他人の心の機微に敏感です。私ごとき老いぼれが気付くことに悩まれていない訳がありませんよ」



 静かに立ち上がり、鰹造は出て行った。


 放心していた鯒家は、暫くするとまた流しへ戻り、黙々と鍋を磨きだした。


 くすみの無い鍋底に自分の顔が映る。自分の店に居るはずが、所在無げな顔をしている。


 それを掻き消す様に、鯒家はもう十分美しい最後の鍋をいつまでも磨き続けた。

 



 社交場解禁夜、美食堂の料理は特別安価だった。

 

 北街の貧しい民をなるべく多く楽しませる為には、市場で捨てられる様な魚のあらでも内臓でも骨でも絶品の料理に仕上げる技術が必要だ。


 そして安く仕入れた材料をまた安く提供する。昼に食べに来る余裕の無い人々も、二ヶ月に一度の社交場解禁夜は家族みんなで貯めた金を握り締めて美食堂へ通った。


 板場は客の身なりや言動に注意して、その家族が無理をせずに腹一杯まで食べられる様、工夫して料理を提供する。


 そして目一杯の贅沢をした人々は、次の解禁夜を楽しみにまた口に糊する暮らしを耐えられる。


 貧しさが蔓延している北街で、美食堂は人々の生きる楽しみだった。



 利益の低いこの商売がそれでも長い間北街の社交場だった理由は、街中の民が美食堂に通っていたからだ。


 ほんの一握りの生活に余裕のある民だけが通う店ならば流行が変わる度に社交場も変わっていただろう。


 邪気寄席は、貧しい民には入場料すら払えない社交場だ。


 商売が上手くいっている者の他には借金して通う者も居るという。


 太刀は社交場を奪った時、時化た食堂が社交場をやるより華やかな演芸場が社交場になった方が北街は栄えると鯒家に言った。


 しかし鯒家は知っている。


 二ヶ月に一度の唯一の楽しみを失った貧しい人々が街の隅に溢れていて、働かなくなった者や家族が離散している者も少なくない。


 路上には子供の盗人が増えた。


 人の心は強くない。


 何の楽しみも希望も無い明日の為にこの灰色の街で明るく生きていくことは難しい。


 美食堂はただの食堂では無いのだ。


 北街の数少ない娯楽文化だったのだ。

 

 その責任が、鯒家一人の肩に重く重く、のしかかっている。

 

 鯒家は、これまでの人生、料理の技術を上げること、美食堂を盛り立てること以外に時間を割いて来なかった。


 お椋が花の様に笑う度、何もかも忘れてお椋の傍に居てやりたいと思う今の自分が恐ろしかった。


 そしてそこに、太刀の慰みものだったという事実が乗り、一層お椋から離れたいという気持ちが強くなっている。

 

 それは、お椋を軽蔑したという意味ではなく、むしろ逆で、太刀の愛妾だった女をそれでも嫌いになれない自分に耐えられないのだ。


 自分の中の美食堂社交場復活への情熱が薄れている。離れるべきだと焦れば焦るほど、尚更お椋を愛おしく思う気持ちが増していく。

 


 絶望にも似た嫌悪感が毎日自分を責め立てた。

 

 死んだ親父の仇討ちよりも、仇の女に骨抜きになっている自分は、板場に立つ資格が無い。


 鰹造に言われるまでも無く、自分が一番そのことを痛感していた。

 


***




 夕方になり、解禁夜に営業をしていると疑われない様、店の灯りを全て落として隣接する自宅へ戻った。


 考えても答えは出ない。覚悟を持ってどちらかに振り切るしかないのだ。



 玄関を開けると丁度お椋が三和土で靴磨きをしていた。



「あらぁ、お帰りなさい旦那ぁ」



 靴墨で汚れた頬を擦り、にっこりと顔を上げて笑ったお椋の頬に一滴、水が垂れた。


 それは七尺上から零れ落ちた鯒家の小さな涙だった。


 驚いて立ち上がり、お椋は呆けた顔のまま鯒家の巨体を抱き締める。他人の慰め方は鯒家から学んだ。


 何も聞かずにそっと背中を擦る。


 そして相手の気の済むまで傍に居てやること。



「……別れてくれ」



 鯒家は静かに呟いた。


 見上げると、鯒家は微笑んでいた。苦しそうな泣き顔で微笑んでいた。

 

 太刀がお椋を探しに来たあの日、鯒家にしか聞こえない小さな声で、こう囁いた。



「女と北街を、交換ってわけだな」



 その言葉の真意をずっと測りかねていた。けれど、今なら理解できる。


 あれ以来、鯒家はお椋と太刀を離して考えることが出来なくなった。


 太刀の性奴隷だったことを気にしている素振りを見せない様、なるべく多くの時間、お椋の傍に居るようにした。


 しかし、お椋と一緒に過ごせば過ごすほど、太刀が頭を過ぎる。


 北街の為にも美食堂復興をと、長い間命を燃やして店を守ってきたのに、今では頭の中はお椋への愛情と太刀への憎しみだけに支配され、自分ではどうすることも出来ない。

 

 この目の前の美しく、可憐で、か弱い女を、捨てる。


 捨てなくては自分は美食堂を続けられなくなる。


 店を切り捨ててお椋と二人生きていくことは考えられなかった。それは、自分が自分で無くなるということだ。それは恐ろしくてどうしても決断できなかった。


 お椋は鰹造の言う通り、何処かで勘付いていたのだろうか。


 悲しそうに目を伏せた後、それでも鯒家の左の袂を掴んで離さなかった。



「……離せ」



 もう一度見上げた時、もう鯒家の瞳は冷たかった。



「もう慣れなれしく触るな。俺はやっぱり、……太刀の、女と、一緒には暮らせない」



 努めて平静な声音でわざとお椋を傷つける。お椋は何も言わなかった。


 空いている右手でお椋の百合の様な手をそっと掴み、引き剥がそうと自分の左腕を勢いよく振り上げる。



「離せって言ってんだ」



「……私は、旦那の料理に命を救ってもらいましたぁ。きっと他にもそういう……美食堂を社交場に戻してほしい人たちが、たくさん居ますよねぇ」 



 そう言いながらもお椋は、駄々をこねる子供の様に小さく頭を振った。



「それでも、これからずっと……旦那がひとりぼっちのままなのは、辛すぎますよぉ」



 自分には行く場所も連れ添う人も無いのに、お椋は美食堂で大勢の仲間たちに囲まれているはずの鯒家の孤独を憂いていた。


 鯒家がたった一人で背負っている重荷を理解してくれているのだと分かった瞬間、鯒家は堪らず膝を折り、三和土に座ってお椋を抱き締めた。



「俺は最低な男だ。器の小さい、情けない男だ……。もう俺のことは忘れてくれ、新しい人生を歩んでくれ」



「新しい人生は、もう始まってるんですよお」



 お椋の声は震えていた。


 俺は、お前にそこまで愛される価値の無い男だ。鯒家は奥歯を噛みしめながら俯いた。


 これからどれだけ想い合ったとしても、もう夫婦にはなれないのだ。

 

 女々しいこととは承知の上で、お椋を売女に、自分を悪人に仕立て上げたかった。もう目を逸らしたかった。


 しかしお椋はそれを許そうとしない。喘ぐように重く、真正面から鯒家に立ちはだかっていた。



「私は、旦那を独りにはしません」



 ふと、空気が揺らいだ。


 あ、と鯒家が漏らした。



「お前、まさか」



「……あんたの子です。私は、この子を産みます」



 鯒家の口は、だらしなく開いたままだった。


 きつく抱き締めたお椋の身体を解放し、短く刈り上げた自分の耳の上辺りをガシガシと掻く。驚いた時の癖だ。



「俺は、とんでもねえことを」



 出会った頃の柔らかな声に戻っていた。


 夫婦になってから少しずつすれ違ってきた。その寂しさを巻き戻せた様でお椋は少し笑顔になれた。



「旦那ぁ、出会えて幸せでした。一緒に暮らせて幸せでした。慕わせていただいて、愛していただいて、幸せでしたあ」



「お椋、俺は」



「その上、ややまで授かって、息が止まりそうなくらい嬉しかった。私の、塵芥みたいな人生に花が咲いた。こんな日が来るなんて夢にも思わなかったんですよお。この子を産んで旦那の手元に置けたら、その後すぐ死んでしまったって構わない」



 身体を離されてからも、お椋は鯒家の肩を強く掴んでいた。一秒でも離れるのを遅らせたかった。


 目には涙が浮かんでいた。鳥種特有の美しい毛色の中でも一際珍しい薄紅藤の柔らかな髪。


 その合間を伝い落ちる雫は、まるで紫陽花から滴る雨粒だ。



「やっと、生まれてきた意味を知ったんですよお……」



 自分たちは、無二だと感じてきた。


 鯒家にとっても、お椋にとっても、他の誰かとでは救い合えなかった。そう感じていた。


 それでも時に人は、複雑な心の奴隷になって世界一愛している筈の相手を遠ざけるしかなくなってしまう。



 その夜、夜間警察の目を掻い潜ってお椋は北街を出ることにした。


 解禁夜ならば、邪気寄席の人間は皆社交場で働いている。


 太刀は北街で唯一、邪気寄席よりも人気のある美食堂を目の上の瘤の様に感じていた。


 お椋を宛がうことで鯒家が腑抜けになると見込んでいるから今はお椋を自由にしているが、鯒家と離れ街を出たとあってはまた手下を使って探し回り邪気寄席に連れ戻すに違いない。


 解禁夜に抜け出し、美食堂に居続けていると周囲を騙すしか道は無かった。



「鳥種だから、南街へ行ってみます。この子が産まれて乳離れしたら、旦那の所へ届けますねえ」



 街境の小さな茶屋の陰で、二人は最後の抱擁を交わした。


 鯒家はこれで良かったのか考えるのは止めた。


 お椋を傷つけ、捨てたのなら、自分がやることはただ一つ。ただそれだけに残りの人生の全てを捧げることに決めた。



 茶屋から一人、当てども無く歩いて暫くすると、大きな排気音と共に目も開けられないほどのライトがお椋を照らした。



「あん? ……てめえは……邪気寄席の……」



 一番先頭の男が手を上げ、後続車のエンジンを止める。単車から下り近づいてきた金髪の青年は、かつて邪気寄席に奇襲をかけて来た『制空会せいくうかい』の鷲一郎しゅういちろうだった。



「見違えたぜい、すっかり別嬪になりやがって……俺ぁてっきりあのまま邪気寄席で……」



 鷲一郎はお椋の手をそっと取り、弱く両手で包んだ。その手は少し震えていて、顔を見ると美しい頬に涙が流れていた。



「あんときは……すまなかった……俺あ、一人ケツまくって逃げて……おめえが太刀の野郎に良い様にされてんのに気付いてたのに」



 鷲一郎が肩を震わせながら泣いていることに気が付いた『制空会』の何人かが驚いてざわめいた。それを気にもかけず、鷲一郎はお椋に深々と頭を下げる。



「俺に出来ることはねえかい。あんときの詫びにもなりゃしねえが、何か、させてくれ」



 この縁で、胡蝶屋を出奔していた放蕩息子の鷲一郎が『制空会』を辞めて店に入ることを条件にお椋は女郎花として仕事と住み込みの部屋を手に入れることが出来た。


 見習いから入り、周産期になると胡蝶屋の旦那が近くに家を借りてくれた。


 訳アリの者も多い胡蝶屋では慣れたことの様で、産婆を呼んでその家で飛を産んだ。


 お椋は仕事に復帰してからも飛が五つになるまでその家で女中たちと協力して子育てした。


 乳離れしたら鯒家へ渡すつもりだったが、可愛くて可愛くて離れられず、学校へ上がる年まで手元に置いてしまった。

 

 その頃既に女郎花おみなえしとしてかなり稼いでいたこともあり、事情を知っている胡蝶屋の旦那が北街へ戻るのは危険だと反対したため、飛を渡しに行ったのは、鷲一郎と目付け役の鷹助だった。


 

 離れて以来、お椋と鯒家は一度も会っていない。


 飛が手紙を寄越す様になってから時折父親の様子が伺えると思わず泣いてしまうほど、お椋は今でも、鯒家を想っている。


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