第28話 非望





 忘れたい過去というものは、都合良く有耶無耶になっていくものだ。


 おむくにとってもそれは例外ではない。


 邪気寄席ざけよせに売られて十五年、性奴隷として十年、太刀たちの寝所に侍った記憶は、瞬く間に忘却の彼方へ追いやられた。


 否、忘れられる筈は無いほどにこれまでの自分の全てを象っているのだが、それでも自分が今すべきことは美食堂びしょくどうの品書きや、常連客の名前を覚えること、そして鯒家こちやの喜ぶ数少ない何かを探すことだと、必死で希望の尻尾を追いかけては掴んだ。



 鯒家は十も年上だったが、お椋に対してそっけなくしてみたり、過剰に甘やかしてみたり、躊躇う様に愛したかと思えば他人行儀に遠慮してみたりと、夫婦になってから精神的に不安定だった。


 お椋はただいつも同じ場所でそれを受け止め、愛を享受し、距離を取られることに甘んじた。


 どういう態度をとっていたとしても、鯒家はお椋を傷つけることは絶対にしなかったし、お椋はそのことを愛情だと感じられていた。

 

 二人は不器用な者同士、臆病に自分の心を曝け出し、時に隠し、時に凭れ掛かった。


 お椋はそれで充分だった。


 充分だったのだ。

 


 今日は少し客入りが少なかったかな、と感じる日が増えた。

 

 そしてその月の末には、昼時になっても客が全く入らない日が何度かあった。

 

 仕入れに行った先の市場で余所余所しくされることもある。

 

 何かがおかしいと感じながらも、鯒家も、美食堂の板前たちも、何も口にしなかった。


 ただ、皮膚感覚で理解していた。

 

 邪気寄席が社交場を奪い取ったあの年に、似た空気が漂っている。

 


 その日は唐突だった。

 

 美食堂の扉をガラリと勢いよく開けたのは、邪気寄席の太刀とその取り巻き達だった。



「偶にはこの店の時化た飯が懐かしくなるもんだ。流石、名店の味と言う訳だな。鯒家」



 悪びれもせずに、太刀は美食堂の敷居を跨いだ。厨房の奥で、見習いがひい、と息を飲む。


 やくざ者で店は一杯になり、その真ん中に座る太刀は、数年前に比べ、益々恰幅良くなっていた。



「おいおい、この店は客に品書きも出さないのか」



 愉快そうに太刀が皮肉を言う。緊張して固まる板前たちを庇う様にして、鯒家が客席へ出た。


 大柄な太刀より尚も大きい七尺の上背と筋肉の付いた身体は、まさに厚い壁だ。



「何の用だ」



 青ざめた顔でただ一言、そう訊いた。太刀は心底愉快そうに口を歪めた。



「ここに、儂の女が世話になっているそうじゃないか」



 鯒家は黙って見返した。



「ずっと探していたんだが、親切な人間が教えてくれてな、やっと見つけたんだよ。寂しがっていると思うから、早く返してくれないか」



 太刀はずっと笑っていた。取り巻きの用心棒たちも、にやにやと揶揄する様な笑みを浮かべて鯒家を取り囲む。



「うちにはそんな者は居ない」



 鯒家は喘ぐ様に呟いた。


 まさかそんな筈は無い。自分が嫁に迎えた女は、邪気寄席で売り飛ばされそうになっていた何処ぞの貧乏人の娘だと、心の中で唱え続けた。



「美しい髪を持った鳥種の女だ。遠くの街へ逃げたと踏んで随分探し回ったが、まさか北街のこんな近くに居たとは盲点だった」



 太刀は北街では高級なアカシア製の椅子をギイギイと揺らし、したり顔で鯒家を見つめる。


 上背は鯒家の方が高いが、横幅のある太刀の迫力は鋭い眼光と併さって、重たいものだった。


 まんじりともせず互いを牽制し合う空気を、奥から出て来た女の声が霧散させた。



「旦那ぁ、これ、どちらに置きますかぁ」



 泡菜の樽を抱え、奥からお椋が出て来た。


 邪気寄席に居た頃とは見違えるほど健康的な頬、肉付きの良くなった身体、艶の出た美しい紅藤色の長い髪。そして、初めて耳にする柔らかく甘い声。太刀が唖然とするほどに、お椋は美しく息を吹き返していた。



「おお! お椋、探したぞ」



 立ち上がった太刀を目にして、お椋は樽を落とした。


 カン、という鋭い音の後、水音と共に菜の漬物がリノリウムの床を汚した。


 息を吐くのも忘れ、ただひたすら酸素を吸おうと喘ぐお椋に太刀の肥えた身体がにじり寄る。


 その手を、やっとのことで正気に戻った鯒家が引っ叩いた。



「汚ねえ手で触るな! 俺の妻だ!」



 太刀の手は大きく冷たく老いた手だった。叩き落とされ、くく、とさも愉快そうに笑う。



「おい、お前はこの女のことを何も知らない様だな。こいつは、ただの奴隷じゃない。儂が人を売った金で贅沢な食事をさせ、贅沢な服を着せ、贅沢な暮らしをさせてきた女だ。儂の女だ。儂と一緒にたくさんの人間を虐げてきた女なんだよ!」



 そして重たい瞼を半分だけ開け、鯒家の顔を覗き込む。



「お前の妻だと? そりゃあ随分、趣味が合うなあ。だが、先に妻にしたのは儂の方だ。こいつは、儂の、妻だよ。鯒家」



 げええ、と鯒家は磨き抜かれた美食堂の床に嘔吐した。


 感情によるものではない。太刀の言葉が鼓膜から脳に届くよりも早く、喉が脈打って胃の中の物が噴き出した。反射と言っても良い。


 お椋は棒立ちになり、駆け寄った板前たちに落ち着け、落ち着けと背中を擦られて、何とか息を整えた。

 

 白い清潔な割烹着に三角巾を巻き、髪を一つに束ねた姿は、何処にでもいる町娘そのものだ。板前たちから見ても、お椋が人を虐げ贅沢をしてきた様には見えない。


 しかし、ここに居る皆が理解した。つまり、お椋は邪気寄席の商品では無く、邪気寄席で暮らしていた女で、太刀の相手をして生きて来た性奴隷だったということだ。



「儂と離れている間に他の男に取り入って住まいを見つけたか。思ったより生意気な女だったな。いいぞ。帰ってからいくらでも躾け直してやろう」



 地獄だ。


 またあの、薄暗い地下牢に何年か閉じ込められる生活から始まるのだろう。


 奇形の動物たちが隣の牢から涎を垂らして腕を伸ばしてくる。


 掘っただけの小さな排泄穴からはいつも悪臭が漂っている。


 腐った乳や黴びたパンを少しだけ受け取って生き永らえる。


 そして、太刀の寝所へ痛めつけられる為に通う。


 心も、身体も、誇りも、人格も、自分で自分が分からなくなって、何もかもを見失う。


 何度も想像した自由な世界は、いつも最後には連れ戻されて殴られる結末しか思い浮かばなかった。


 それでもあの夜、亨鮃きょうへいが強く引っ張ってくれた手に応えたのは、誰かに反抗することが恐ろしかったからだけではない。

 

 どこかで、期待していたのだ。


 希望はまだどこかにあるのだと、魂が叫んでいたからだ。

 

 自分はまだ、人間で居られるはずだと。 



「かえ、りま、せん……」



 ほんの微かな、衣擦れの様な声で、お椋は答えた。


 極度の緊張で肩が上がり、首は絞め付けられた様に苦しかった。髪と同じ美しい紅藤色の瞳はカラカラに乾いて、一滴の涙も浮かべる余裕が無い。



「わ、私……ここに、旦那のそばに……い、たい」



 割烹着の胸の生地をぎゅうっと強く握りしめ、喘ぐ様に言葉を一生懸命繋ぐ。


 言いたいことはこれだけだ。これが、お椋の心の全てだった。



「お椋、お前……」

 


 鯒家が振り向いて、お椋をまじまじと見つめた。脂汗と吐瀉物でぐしゃぐしゃに汚れた顔が、耐えられないとでもいう様に、苦しそうに歪んでいた。


 お椋が自分を慕う気持ちが愛おしくていじらしくて、尚更辛い。


 太刀が手篭めにしていた女を嫁に取ったという事実が、父親の仇と同じ女を抱いていたという事実が、鯒家の心を重く、昏く、蝕んだ。



「ほう、お椋はここに居たいのか。鯒家もお椋に惚れてるときた。ならば、無理矢理引き裂くことは、儂には出来ん」



 太刀は、感情の読めない薄暗い瞳で見返した。


 そして、鯒家に小さく耳打ちすると、取り巻きたちに顎をしゃくり、呆気なく出て行った。

 

 やくざ者たちがドカドカと椅子を蹴り飛ばしながらピシャリと店の戸を閉めると、腰の抜けた板前たちが一斉に詰めていた息を吐き出した。


 銘々にしゃがみ込む板前たちの真ん中で、お椋は信じられないという顔で固まっていた。


 そしてゆっくりと、その心に喜びが満ちていった。自分は鎖を断ち切った。


 今度こそ、自分の力で太刀から解放されたのだと、震えた。



「旦那ぁ……」



 か細い声で呟くと、ハッとした鯒家は汚れた顔を拭い、すぐに駆け寄ってお椋を力いっぱい抱き締めてくれた。


 緊張から解かれ、やっとお椋は泣くことが出来た。

 


 その日以降、客足はまた徐々に戻りつつあった。市場で避けられることもなくなった。何もかもが戻り、美食堂の板前たちは腕を振るうことに集中できた。


 鯒家は以前の様にお椋を避けることが無くなり、憑りつかれた様に続けていた料理の研究をぱったりと止めた。


 翌日の為の仕込みも最低限に留め、四六時中お椋の側に居る。


 傍から見れば仲睦まじい夫婦だ。だが、お椋は奇妙な違和感を拭えなかった。

 


 鯒家は、美食堂を社交場へ復活させるという夢を、語らなくなっていた。




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