第27話 希望




 美食堂びしょくどうの外観は邪気寄席とは真逆と言っても良い。

 

 年季の入った看板には銀製の重厚な雷文模様があしらわれて居るが、それ以外は質素ですっきりとしている。


 入り口脇の土壁にはかつて社交場だったことを物語る立派な鯉幟が飾られているが、湿気で垂れ、萎びたウツボカズラが重なり合う様にして真鯉が緋鯉たちを隠している。



鯒家こちや、俺だ」



 亨鮃きょうへいは横開きの戸をガラガラと開け、内側に掛かった暖簾を潜る。



「鯒家! おい、居るんだろ!」



 戸を閉めてから大きな声を出すと、厨房からリノリウムの床を鳴らし、七尺の大男が不機嫌そうに顔を見せた。店の蛍光灯では無く、常夜灯だけをぼんやりと付ける。



「おい、店側から入るな。営業してると勘違いでもされたら大事だろうが」



「うるせえ、そんなこと言ってる場合じゃねえんだよ!」



 土色の髪を掻き上げ、亨鮃は細く整えた眉を顰めた。二人は隣家同士の幼馴染だ。


 料理の修業しかしてこなかった職人気質の鯒家とは違い、亨鮃は遊び人であった。複数の女から貰った銀や金メッキのアクセサリーを身に着け、博打を打ったり頼まれごとをこなしたりしながら日銭を稼いで暮らしている。


 色こそ冴えない魚種の頭髪だが丁寧に手入れされた亨鮃の髪はいつもサラサラと流れ、美しい眉と切れ長な一重の目は、軽薄ながらも繊細な印象を与えるのに一役買っている。


 亨鮃は、美食堂が社交場から落ちた時も、鯒家の父親が首を吊った時も、荒れて手の付かなくなった鯒家から離れようとはしなかった。


 毎日顔を見せ、邪見にされてもあれこれと世話を焼いた。鯒家が立ち直れたのはその支えがあったからといっても過言ではない。


 亨鮃は女癖も悪いが人情に厚く、困っている人間を放っては置けない優しい男なのだった。



「何の用だ。晩飯時はとうに過ぎてるぞ」



 丸太の様に太い腕を組みながら、鯒家が訊いた。よく見ると亨鮃は小脇に長い髪の女を抱えている。薄明りの中では顔は見えないが、露出の高い悪趣味な服を着ていることは分かった。


 大方、こっそり夜遊びしている所を夜間警察にでも追われてきたのだろう。意識が無いのか亨鮃にしな垂れ掛かって一言も喋らない。



「お前、また鱇子こうこにどやされるぞ」



 呆れた顔で鯒家が溜め息を吐く。亨鮃は両親が亡くなってから一人暮らしをしていたが、一年ほど前から鱇子という五歳上の女と同棲している。


 この鱇子という女は働き者で生活を支えてくれる良い女房ではあるが勝気で腕っぷしが強く、浮気者の亨鮃をしょっちゅう往来まで蹴り飛ばしているのだ。



「違うって! よく見ろよ! こいつは邪気寄席ざけよせで奴隷にされてたんだよ!」



 亨鮃は苛立ちながら抱えた薄紅藤色の頭をぐいっと押し付ける様に見せて来た。女は意識が無い訳ではなく、怯えていた。


 揺らぐ瞳が鯒家を恐る恐る見返す。頬はこけ、目の下には酷い隈が出来ている。

 

 魚種に似た淡色の髪色で気が付かなかったが、口角が狭く、自分たちより十は若いであろう鳥種の女であった。



「こりゃ一体どういうことだ。お前、邪気寄席なんかに遊びに行ってたのか」



 怒りに震える鯒家を、亨鮃は細い身体で怒鳴り返した。



「馬鹿野郎! お前が面割れしてて潜り込めねえって悔しがってたから、俺が邪気寄席に潜入して来たんだよ! お前の仇の店に遊びに行くわけねえだろ!」



 その血相に肩を揺らし、お椋はその場に座り込んだ。薄明りの中でもカタカタと震えているのが分かる。



「……そうか。悪かった。とにかく二人とも奥へ入れ」



 鯒家は浅葱色の頭を素直にぺこりと下げ、腰の抜けているお椋を軽々と担いだ。お椋は、今からこの二人の男に何をされるんだろうと怯えながら、ただひたすら身を固くしていた。


 博打で買った金を掻き集め、初めて入った邪気寄席は噂通りとんでもない見世物をやっていた。


 珍獣と称した奇形の動物やキメラだけではなく、混血の子供や、明らかに栄養失調の大人たちを売り捌いていたのだ。


 営業を見回りに来ている筈の夜間警察は、示し合わせた様に人身売買の始まる手前で離席していった。


 必死に縋り付いて引き留めてみたが、亨鮃の方が警棒で殴られ、何故か逃げる様に去っていった。



「奴隷が何人も居てよ、なのに俺は間近で見てるのに誰も助けてやれなくてよ」

 


 亨鮃は暗い目をして続けた。


 『制空会』乱入で大騒ぎになった客席から一度逃げた亨鮃は、暫くして再び邪気寄席に戻った。


 せめて一人だけでも救いたいと諦めきれずに引き返したが、奴隷たちは鍵付きの頑丈な牢に入れられていて、道具も力も無い自分にはどうしようも無い。


 どうしようかと彷徨ついていると、一番後ろの出入り口に、腰を抜かして座り込んでいる若い女を見つけた。


 一瞥しただけで虐げられていると分かる痩せ細った身体をしている。


 中を覗くと邪気寄席の主人・太刀とその屈強な取り巻きたちが『制空会』の子供を囲んで詰めている所だった。


 こっそりと四つ這いで忍び込み、女の腕を引っ張る。女は驚いた顔で凝視してきたが、促す様に強く引っ張ると、抵抗せずに戸を抜け出すことが出来た。


 そこからは碌に歩けない女を担ぐ様にして、無我夢中で逃げた。そして行く先に困り、鯒家を訪ねたのだった。



「警察は、邪気寄席のやってることを知ってて見ないふりをしてた。あれは多分、何を言っても無駄だ。でもコイツがさ、もし証言してくれたら悪事を暴けるんじゃないか。そしたら邪気寄席はお取り潰しになるだろ?」



「誰に証言するんだ」



 黙って話を聞いていた鯒家が唇を噛みながら静かに答えた。



「夜間警察は獅子王ししおう直轄の組織だ。大方、太刀たちは獅子王と繋がってるんだろ」



 この世に権力は一つしかない。獅子王が首を縦に振れば、どんな悪行も合法だ。興奮して喋り続けていた亨鮃も、留めを外した風船の様に意気消沈して椅子に力無く腰かけた。



「じゃあ……俺のやったことは無駄足か」



「そうじゃない」



 鯒家はお椋を見た。お椋は座れと言われた椅子に座り、一言も口をきかず、微動だにしない。その状態はどう見ても異常だ。



「お前は人を一人救ったんだ。凄い奴だよ、お前は」



 鯒家にそう言われ、亨鮃は歪んだ笑顔で涙を浮かべた。


 今になって震えが止まらず、自分がとても勇気を出して奴隷を救ったことに気付く。


 この街の一番の大店が、人を売り買いしている。


 そのことがこの街に住む自分たち魚種までもを醜く薄汚れた悪に染めていく様で苦しい。


 この北街に、太刀の息の掛かっていない仕事など幾つあるのだろう。


 自分は知らず知らずの内に邪気寄席の資金源に繋がる仕事に就き、人を売り買いした様な金の末端で家庭を持ち、子を育て、やがて老いていくのだろうか。


亨鮃はそれが耐えられなかった。苦しくて堪らなかった。



「鯒家……ウチには鱇子が居るからよ、お前んとこでどうにか、頼むわ」



 亨鮃は無理して笑い、おぼつかない足取りで席を立った。



「どこに行くんだ?」



「帰るんだよ。帰って、鱇子にまたどやされて、それから慰めてもらって、安心して寝る」



 後ろ手をひらひらと振り、優男らしいことを言って出て行く。


 肩を落としたその姿に何も声を掛けられないまま、鯒家もまたやるせない気持ちで見つめた。

 


***




 それから十日ほど、おむくは離れにある客間で、ひたすら眠り続けた。


 朝晩は鯒家が様子を見に行き、昼の営業の合間には見習いが粥を持って行ったが、いつも寝ていた。


 悪いとは思ったが、夜尿で汚れた寝具や下着の儘で居させるのは居た堪れなく、鯒家は一日に一度、濡らした手拭いでサッとお椋の身体を拭き、清潔な寝具と鱇子から借りた寝間着に替えてやった。


 顔は美しいが身体には古い傷がたくさんあり、痩せこけてあばらが浮いている。


 見ない様に気をつけても目に入る若い娘の無残な身体に、自分たちよりも優遇されている鳥種とはいえ憤りを感じざるを得なかった。

 

 離れは美食堂が社交場として栄えていた頃、特別な客人の為に使われていた。


 手入れされた立派な庭園の奥にあり、四季折々の花と、小川の流れる音が美しい場所だ。


 特に今は夾竹桃の目の覚める様に鮮やかな桃色の花が咲き乱れ、夏の庭を元気に彩っている。

 

 窓を開け、簾だけ下ろした客間は思いの外涼しく、確かによく眠れそうな環境だった。

 


 店を閉めたある夕方、鯒家がいつも通り様子を見に来ると、お椋が薄く目を開けていた。



「ああ、起きたか」



 鯒家は思わず安堵の溜め息を吐いた。



「ずっと寝てたから、白湯を飲め」



 寄越された湯呑を受け取り、お椋は従順に口を付け、美味しそうに嚥下していく。鯒家はお椋の居る寝台には腰かけず、距離を取った場所から様子を見た。



「喉を潰されたのか?」



 ずっと声を出さないお椋に、鯒家は静かに訊いた。お椋は小さく首を振った。



「そうか。ここでは誰もお前を傷つけない。だからもう、声を出しても大丈夫だ」



 さあっと夕暮れの涼しい風が吹いて、チリリン、と軒先の風鈴が揺れた。


 水が石にぶつかる小さな音、鮮やかな夾竹桃の色、誰も入ってこない寝台、清潔な身体。


 全てが、お椋を優しく包んだ。


 暫くの間を置き、お椋は、口を小さく開け、掠れた音を出した。



「ん?」



 鯒家が湯呑にもう一度白湯を注ぎながら、聞き返した。お椋は喉に手を当て、何度か唾を飲み込み、また口を開けた。



「ぁ、……ぃ」



 幼い頃、冷たい地下牢でとりわけ仲良くしてくれた獣種のお姉さんが教えてくれた言葉だ。


 小さなパンを更に小さく分けて片方渡すと、必ず笑顔でこう言ってくれた。



「ぁ、あ、い、あ、ぉ、う……」



 ありがとう。ありがとう。大丈夫だから食べな。


 お姉さんは一番最初に死んだ。自分はその後、随分と生き永らえた。


 それなのにこんなに心地の良い場所で、こんなに優しそうな人と居て、胸が張り裂けそうになった。


 産まれた時は確かに出ていたはずの声が、どうしても上手く出ない。代わりに大粒の涙が溢れて目の前が歪んでいった。



「ぁあ……ああ、あ、あああああ……っ」



「おい、無理するな。ゆっくりでいい。」



 鯒家は心配そうな顔をして、慌てて清潔な布巾を渡した。


 お椋は赤ん坊の様に声を上げ、絶叫する様に泣いた。


 誰にも殴られずに泣いたのは産まれて初めてで、『邪気寄席』に来てからはもう涙も枯れていた。


 十五年分の心の澱が、獣の様な嗚咽と共に吐き出されていく。


 鯒家が時折差し出してくれる水分を補給しながら、とっぷりと日が暮れるまで涙は乾かなかった。


 鯒家は頭の後ろをガシガシと掻きながら、困った顔をして見守った。

 


 翌日からお椋は粥を食べられる様になった。


 邪気寄席に居た頃、太刀はお椋を会食の席に着かせることもあったが、その脂のぎっとりと回った豪勢な食事に味を感じることは一度も無かった。


 ゴム毬の様な脂の塊を無理矢理飲み込み、毎回胃液が出るまで吐いた。長年の食事量の少なさに胃が委縮し、どうしても身体が受け付けなかったのだ。


 しかし、鯒家の作る食事は滋味深く、消化も良く、何よりも心穏やかに時間をかけられたので、スルスルと身体に力を与えていった。


 お椋は相変わらずよく寝たが、翌日の仕込みを終えた鯒家が訪れる夜は大抵起きて待っていた。


 縁側に並び、何を話すでもなくゆっくりと茶を飲む。


 ひと月ほど経つと、お椋は少量ながら普通の食事が取れるようになり、やや間延びした話し方ではあるもののゆっくりとなら言葉が出る様になった。



「郷里に帰りたいんじゃないか」



 ある夜、鯒家が尋ねた。秋が深まってきた頃で、離れの庭園には金木犀の香りが溢れていた。鈴なりに咲いた橙色の花を眺めながら、お椋は呟いた。



「帰るところは、どこにも、ないんですよお」



 心配を掛けない様に少し笑う。その横顔は月明かりに照らされ、何とも儚く見えた。



「……ここには俺一人しか住んでない。お前さえ良ければ、いつまででも居ていい」



 鯒家も庭に目を向け直し、静かに答えた。お椋は一瞬、大きく目を開き、心底嬉しそうに唇を噛み締めて微笑んだ。今度は本当の笑顔だった。


 こうして二人は夫婦になった。


 美食堂の板前仲間たちには、異種であることを非難する様な者は居らず、ささやかなお祝いもしてもらった。


 隣家の亨鮃と鱇子もお祝いの席に着き、亨鮃は酒に酔ったのか男泣きして手が付かなくなり、皆に笑われた。


 やがて美食堂の配膳を手伝う様になったお椋は、口数は少ないがいつもにこにこと微笑んでいて頗る評判が良かった。


 初めは鳥種が店に立っていることに眉を顰めていた客も、気付けば常連客になり、お椋ちゃん、お椋ちゃんと親し気に声を掛けてくれる様になった。

 

 このままでも良いと、思うことが増えた。

 

 このまま、先祖から代々引き継いできた大切な社交場の暖簾を下ろしたままでも、美食堂の味を愛して通ってくれる客は大勢居る。社交場じゃなくたって、夜の営業ができなくたって、夫婦二人、贅沢をしなければ食うに困る訳ではない。


 このままでも十分幸せだった。十分幸せであることが、鯒家の心を時に苦しく追い詰めていった。

 

 自分の中の誇りを、見失いかけている。

 

 社交場に復帰するため血眼になって料理の研究を重ね、真っ当な売り上げで邪気寄席から社交場の地位を奪い返してやろうと躍起になっていた頃の自分が徐々に遠くなっていく。


 お椋が美しい顔で嬉しそうに微笑むのを見る度、楽な道に、幸せな道に、逃げようとしてしまう自分が居た。



「旦那ぁ、今日は元気が無いですねえ……」



 お椋は夫婦になった後も、出会った頃の様に鯒家を旦那と呼んでいた。その柔らかく間延びした声を聞く度、鯒家の心には穏やかな風が吹いた。



「いや……、何でもない」



 鯒家はお椋から逃げる様にして、仕込みが終わった後も厨房に残り、研究に没頭する様にした。


 そうしなくては自分が平和ボケしていく様で恐ろしかった。

 

 そんな穏やかで不器用な日々が一年ほど続いた。

 

 お椋の生涯で最も幸せな一年だった。



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