第26話 絶望
三十年前、お
お椋の家には八人の子供が居た筈だが、父親らしき大人が居たことは無かった。
物心ついた頃には暴力を振るわれ過ぎた所為で口の利けなくなっていたお椋は、誰とも何の関係性も築けないまま、物の様に暮らしていた。
万年床で煙草をふかし、いつも苛々している母は暗い黄土色の髪をしていて、よくお椋の髪を忌々しそうに掴んで引きずり回した。
その後は大抵、年上の兄弟に蹴飛ばされる様に連れられて、近くの河原で夜明かしした。
長屋には親切な大人なんて一人も居なくて、皆、今日一日食いつなぐのが精一杯の人間ばかりだった。子供を見るや気楽でいいもんだと唾を吐いたり罵声を浴びせたりする。
上三人の兄は働いていて、残りはお椋と同じ様に、ある時から人買いに売られていった。
暮らしの為なのか、新しい男と一緒になりたかったのか、しんどかったのか分からない。
理由は分からないが、順々に減っていった。
違法である人買い業は如何わしい生業の者が少なくない魚種の専売特許だったが、その買い手はどの街にでも居る。
屠殺や死体運び、ガスの漏れている鉱山での採掘の仕事など、奴隷の使い道は多い。
他の兄弟がどこへ行ったのかは分からないが、お椋は人買いの元締め、当時北街で見世物小屋をやっていた
鮮やかで明度の強い毛色ばかりの鳥種では、お椋の様な淡色の髪の毛を持つ者は珍しい。
また、その数少ない鳥種の淡色と言えば大抵は灰青や山吹鼠など魚種に間違われる様なくすんだ色ばかりだ。そのため鳥種の中では淡色というと一般的には劣った外見の代名詞になっている。
しかしお椋の薄紅藤の髪は淡色でありながら枯山水に咲く早咲きの桜の如く美しいとあって、希少価値が高かった。
五歳の子供に色気を感じるのは初めてだと、戸も無い玄関先で邪気寄席の使いが薄く嗤ったのを覚えている。
お椋はその歪んだ唇の形を、紙幣を神経質に数える母親の背中から覗き見た。
買われてすぐに店へ向かう手押し車の荷台で裸に剥かれ、身体中確認された。
雪のちらつく夜だった。
お椋は、目を逸らしたくなるほど広く裂けた口から覗く男の前歯の数を数えて、少しでも寒さと痛みから逃れようと、ただ身を固くしていた。
何も考えず何にも抗わないことだけが、口のきけない少女が身に付けた唯一の自己防衛法だった。
太刀の家の地下牢にはお椋の他にも十人ほど居たが、その中に魚種は一人も居なかった。
お椋は獣種の美しさの基準は良く分からなかったが、少なくとも鳥種の女たちは皆、髪色に恵まれた者ばかりで驚いた。
窓の無い地下牢に手錠で繋がれ、一日一食、黴びかけたパンや煮た豆と乳を分け合って食べる。
お椋は一人だけとても幼かったので、暫くは下男に混じって働かされた。
何が入っているのか分からない重たい箱を一日中運び続け、へとへとで牢に帰ると、他の女たちは気にかけて優しくしてくれた。
貧乏長屋に居た頃よりも心は温かかった。
十歳を過ぎると、お椋も他の女たちと同じく太刀の寝所に呼ばれる様になった。
何をされても声を上げられないお椋を大層気に入った太刀は、葉巻を押し付けたり鞭や蝋を使って遊んだりと、随分お椋の身体に痕を残した。
「儂はなあ、偉そうにふんぞり返る異種共から、金も地位も女も、山ほど毟り取ることに決めているんだ。恨むなら
腰回りにでっぷりと贅肉を纏わせ、鼠色の豊かな髪を油で撫でつけた太刀は、事が済む度に愉快そうにそう言った。
笑っているのに瞳の奥には赤く燃える炎が見えた。
いつだって太刀は魚種の被差別に怒っていた。そして異種の女たちを使って報復しているのだった。
性奴隷として十年過ごした。
その間に、他の女たちは皆死んだ。
太刀は美しく成長したお椋を益々気に入り、地下牢から出してひけらかす様にいつも隣に置く様になっていた。
一方、ちんけな見世物小屋だった邪気寄席は、裏稼業である奴隷や盗品のブローカー業が勢力を広げ、莫大な儲けを得ていた。
それらは正規の売り上げではない為、本来ならば社交場としては認められない筈なのだが、お椋の知り得ない何らかの手段で太刀は邪気寄席を街一番の大店として花開かせた。
金も女も腐るほど持っていた太刀がずっと欲しがっていた名誉という名の財がついに手に入ったのだ。
ある夏の社交場解禁夜、お椋は太刀と共に特別室から邪気寄席の人身売買ショーを観ていた。
自分は一生、こうして生きていくのだと思っていた。
目下の舞台にはかつての自分の様に虐げられ見るも無残に殴られた跡のある裸の子供たちが並んで値踏みされている。
自分はそれを可哀想とも悲しいとも思えなかった。生きるとは、そういうものだと思っていた。
弱者にとっての生とは、強者に虐げられる時間のことだ。
希望を抱いたことは無かった。その時までは。
ガラス越しの客席が、舞台では無い方を見てどよめいた。そして次の瞬間、舞台上の競売人が横入りしてきた者たちに囲まれ、縄で縛り上げられる。
何事かと太刀がその巨体を揺らして思わず立ち上がると、群青の纏の背中に制空会の文字が見えた。
鳥種至上主義集団の『
この頃の『制空会』は今よりも血気盛んで、獣種の貴族の家に石や火炎瓶を投げこんだり、魚種の闇ブローカーの取引現場を嗅ぎ付け暴走行為で台無しにしたりと、異種の金持ちに対して徹底的に抗議し続けていた。
色とりどりの髪を靡かせ、若く美しい者たちが風の様に来ては富者を成敗するとあって、彼らは巨悪に立ち向かう阿修羅の如く神聖視されていた。
「暴れることしか能の無い餓鬼共が、この儂の邪気寄席に目を付けたという訳か」
やくざ者の邪気寄席の用心棒たちが駆け付け、客席はもみくちゃになっている。太刀はそれを上から見下ろし、広く裂けた口角で薄く嗤った。
首筋の鱗は逆立ち、黄ばんだ眼球は血走って怒りをあらわにしていた。
お椋は、『制空会』のことは知らなかったが、いつもと変わらない地獄の様な自分の世界に、今日は何か違うことが起こっていると感じた。
「あいつらは鳥種至上主義者だが……さて、魚種の儂が鳥種の上物の女を侍らしていると分かったら、さぞ喜ぶだろう」
鼻を鳴らした太刀はお椋を連れて邪気寄席へ下りることにした。
頭頂を鷲掴みにされ力任せに引き摺られながら、そういえばかつて自分によくこうしていた一番上の兄はまだ生きているのだろうかと、お椋の脳裏には故郷の記憶が過ぎった。
「てめえらのこの商売、お上も警察も知らねえんじゃねえのかい! どういう了見で社交場まで漕ぎ付けたのか知らねえが、聞けば鳥種の人間まで売り買いしてるって言うじゃねえか!」
散り散りになって逃げていく魚種の客を尻目に、邪気寄席の舞台に立った金髪の男、『制空会』総長の
死にかけの裸の子供たちの檻の前に立ち、舞台照明を燦々と浴びた鷲一郎は美しい顔と髪色に反して怒りを湛えた暗い表情をしていた。
用心棒と『制空会』が乱闘する邪気寄席の客席の一番後ろまで降りて来た太刀を物怖じせずに真っ直ぐ見据える。
金の羅紗帯の張り付いた腹を突き出し、太刀は鼻で笑った。そして右手をゆっくりと上げた。
「小僧、儂の玩具を見せてやろう」
引き摺られあちこちを擦りむいたお椋の髪を掴んだまま、高々と見せつける。
太刀の趣味で派手派手しい赤と金糸のマンダリンドレスを着せられているが、頬はこけ、鳥種の命ともいえる美しい髪には全く艶がなかった。
同族の鷲一郎を目にしても助けを請うこともせず、光の無い瞳で薄ぼんやりと見つめてくるだけだ。
「美しいだろう。こいつがどうして儂と懇ろになったか教えてやろうか」
鷲一郎は唾を吐き捨てた。太刀は続ける。
「こいつはなあ、母親に売られたんだよ。儂らは別に無理矢理奪ってきた訳じゃ無い。お前と同じ鳥種には、子供や女房を売る様な奴等が五万と居るぞ。まずは南街の中から綺麗に掃除した方がいいんじゃないか」
「……てめえらみたいな輩が居るから売るんじゃねえのかい。人買いなんてやってる下卑た
鷲一郎は怒りに震えながらも冷静に考えていた。
太刀の後ろには何人も用心棒が潜んで見える。それを自分一人で相手することは無謀だ。
『制空会』の総長が捕まったり殴られたりすれば士気も下がるし志に傷が付く。それはあってはならないことだった。
噂を聞きつけカチコミを掛けたはいいが、邪気寄席は想像の数十倍恐ろしい見世物をしていた。
それでも社交場に認定され、お取り潰しにならないということは、問い詰めても全く怯まない太刀が、何某かの方法で
勝ち目が無えなと、鷲一郎は瞬時に判断した。
今すぐ適当な理由をつけてここを出なければ『制空会』から死人が出ることになる。否、それどころか全員殺されるかもしれない。
「髪色に恵まれなかった善良な
鷲一郎の焦る心中を察したのか、ニタリと不遜な笑みを浮かべ、したり顔で詰る。
お椋を適当に捨て置き、太刀はゆっくりと舞台へと近づいてきた。予想通りその背後の暗闇からぞろぞろと出て来た屈強な用心棒たちも威嚇する様に胸を張り、その後ろに続いた。
頭から手を離されたお椋は、邪気寄席の冷たい床に座り込んだ。
すぐ横には客席の出入り口がある。そこは慌てて逃げ出した客が開け広げたままにしていて、夏の夜のぬるい風が僅かに吹き込んでいた。
鷲一郎は男たちに囲まれながら視界の端でお椋を見ていた。せめて目の前の同胞を助けようと、お椋が逃げ出すのを待っていたのだ。
だが正面まで来た太刀は可笑しそうに首を振った。
「分からん奴だな。逃げようなんて思うのは、希望を抱ける奴だけだ。こいつは、そんな暮らしを一度もしたことが無いんだよ」
お椋だって、逃げ出したいと思ったことはある。長屋からも太刀の屋敷からも、痛みからも恐怖からも離れた場所で、穏やかな日々を送る夢を見たことはある。
それでも、空想の終わりではいつも、見つかって連れ戻され、息も出来ないほど殴られるのだ。
これ以上の暴力を味わうくらいなら諦めた方が苦しくなかった。
振り向きもしない太刀の嘲笑に、何の反駁も無いお椋を見つめ、鷲一郎は絶望した。
こんな心の人間を、救うことは出来ない。
「鷲! 一旦引き上げるぞ!」
背後から副総長の
辺りで邪気寄席の用心棒たちとやり合っていた『制空会』は皆、頃合いを見て外へ撤収している。
周囲を塞いだ用心棒たちが嫌な汗を掻く鷲一郎ににじり寄る。正面の太刀が顎を上げ、裂けた大きな口を歪めた。
「二度とこの邪気寄席を汚すんじゃねえぞ小僧。お前の生首を競売に掛けられたくなきゃ今すぐ此処から消えろ」
ドスの利いた低声で呟かれ、まだ十代だった鷲一郎は呆気なく気圧された。
唇を噛み締めながら群青色の纏を翻し、その場から惨めに逃げ出していく。情けなくて涙が出た。
『制空会』という組織を背負って、何者かになれている気でいた。
貧しい鳥種を救う為にも三種族の頂点に自分たちが立つべきだと思っている。
けれども、目の前の同族一人救えないではないか。
笑われながら走り去る自分は、陳腐で、幼稚で、無力だ。
「糞餓鬼共の所為で今夜は終いだ。檻の中のブツは適当に売り捌け」
太刀がそう零すと、取り巻き達は大仰に驚いた。
「しかし太刀様、それでは納める金が足りなくねえですか?」
「獅子王には儂から話を付けておく」
首を鳴らし、退屈そうにする様子はどちらかと言えば機嫌の良い太刀の仕草に近かった。
太刀の心は、チンケな暴走集団に社交場を荒らされたことよりも、美しい鳥種の若者に勝ったことの方が多くを占めていた。
魚種の中でも更に醜い部類に入る自分の様な人間は、どれだけ人を集めても富を築いてものし上がったとは言えない。
自分たちは魚種よりもマシだと高みの見物を決めている異種共にあらゆる手立てで報復してこそ価値ある人生なのだと、そう怨念に塗れた信念を持って生きている。
「帰るぞ、お椋」
後ろを振り向くと、客席の床の何処にもお椋は居なかった。
開け放たれた出入り口のドアだけが、立て付け悪くギイギイと、ぬるい風に揺られていた。
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