第25話 きれい




 従業員用の浴場は当然ながら誰も居なかった。


 山の近くに湧いている温泉をパイプを通して引いている為、胡蝶屋こちょうやの風呂場には何時でも湯が張られていた。



「お世話の途中だけど、私も一緒に入っちゃおうかしらぁ」

 


むくは強張った表情で固まっている牡丹ぼたんの襤褸を脱がせ、少し逡巡した後ゴミ箱へ捨てた。


 服とは呼べない布きれは所々破れ、滲みや血や饐えた臭いは浸みこんでいて洗っても取れそうには無かったからだ。


 大人しくされるがままになっている牡丹の身体は、裸になると更に痣や傷が目立ち痛々しかった。お椋にはその一つ一つの傷がどの様にして出来たか、手に取る様に分かり、暗い気持ちになった。



「さあ、綺麗にしましょうねえ」



 出来るだけ明るい声を出し、怖がらせない様に自分も裸になり、風呂場へ促す。大人しく付いて来る小さな姿は、貧相だが不思議と美しさが内在していた。


 檜で出来た大きな浴槽の前の床に座り、ゆっくりと湯を掛けてやると、牡丹は控えめにため息を吐いた。


 白髪で遠目からは分からなかったが、良く見ると頭には粉が噴いている。始めは全く泡立たなかった頭は、何度も櫛を入れ、根気よく石鹸で洗い流すと、やがてすっきりと綺麗な地肌が見えた。


 虱ではなくて良かったと安堵しながら、労わる様に丁寧に身体も洗ってやる。


 牡丹はずっと黙ったままだったが、脱衣所では緊張していた顔がすっかり解けて心地よさそうにしている。

 

 綺麗になった身体で並んで湯船に浸かる。温かな湯から檜の良い香りが漂い、静かな空間に掛け流しの水音だけが響く。


 嵌め殺しになった天窓から煌々と照る月が二人を照らした。

 


 先刻、接客中に女中が酒と共に小さな手紙を寄越してきた。その鷲一郎の慌てた様な走り書きの文字で、すぐに異種の話と結びついた。


 開店前に鷲一郎の不器用な気遣いを受けた時には、大人しい自分の息子に限ってそんな大それた行動をする訳が無いと信じて疑わなかった。それがまさか、と驚いて声も出なかった。


 それも邪気寄席ざけよせから、監禁されていた女の子を救ってきたというではないか。


 小さな客間で再会した先ほどの飛は、お椋の中の小さな息子とは全く違う少年だった。



「ごめん、母ちゃん。安心して頼れる場所が、ここしか思いつかなかった」



 気色ばんだ顔で頭を下げ、それから子犬にでも話しかけているかの様に優しく、牡丹に自分を紹介した。



「この人は、俺の母ちゃん。優しい人だから大丈夫だ」



 飛の後ろからおずおずと顔を出した少女は成程、太刀が好きそうな異形だった。お椋は何とも言えないやるせなさを感じて、膝を折り、飛と牡丹を抱き寄せた。



 風呂からあがって客間へ戻ると、鷲一郎しゅういちろう鷹助たかすけが部屋の中央で難しい顔をしていた。


 社交場解禁夜の掻き入れ時に若旦那と一番人気の男郎花おとこえしがお茶を啜っている景色は異様だ。



「おう、戻ったか」



 鷲一郎はそう言った後、目を見張った。


 見習い女中の濃紺に朝顔の花が咲く浴衣を借りた牡丹は、清潔で光り輝く様に美しかった。


 真っ白な髪の毛を耳の長さと同じになる様に肩で切り揃えてもらい、血行が良くなった頬は少し赤みが差している。


 先ほどの薄汚れた少女とは見違えるものだった。



「うわ、綺麗にしてもらって、良かったなあ!」



 鳩兵衛きゅうべえと一緒に下座に並んで座っていた朱鷺ときが、嬉しそうに笑った。その隣からトビがひょっこり顔を出し、お椋と牡丹に駆け寄った。



「母ちゃんありがとう」



「いいのよお、トビ。それより鷲さん、どうしたんです、鷹助さんまで……」 



 鷲一郎に代わって鷹助が口を開こうとしたその時、胡蝶屋にも公衆伝達の放送が大音量で響き渡った。一同は固唾を飲んで聞き、やはりそのまま言葉を失った。

 

 やがて客室の方から歓声が上がり出し、大勢の女中が忙しなく行き交う音がし始めた。獅子王の治世に思うところあった南街の者たちが、祝杯を上げる為に酒や料理を注文しているのだと察した鷲一郎が、苦笑いする。



「いいねえ。客の羽振りが良くなって助かる」



「これで益々、その娘がウサギだという話には信憑性が出てきましたね」



 鷹助が冷静を務めようと静かな声で答え、鳩兵衛も小さく頷く。


 状況の掴めない朱鷺と飛は顔を見合せ、首を傾げた。放送の内容は難しく、崩御という言葉の意味が分からなかった二人には何が起こっているのかさっぱり分かっていない。



獅子王ししおうの野郎が死にやがったんでい。そんで次の王を選ぶ再来のウサギって奴が、その娘なんじゃねえかって話だ」



 鷲一郎が二人にそう告げた。



「つまり、その娘がこのまま胡蝶屋に居れば、次の王は旦那様か、もしくは鷲さんということになる。とにかく今はその娘を絶対に胡蝶屋から出すな」



 鷹助が続けると、飛は思わずお椋から牡丹を奪い取り、守る様にして壁際に寄せた牡丹の前に立ちはだかった。



「こ、こいつはそんなんじゃないと思います。ちょっと変わった見た目だけど、名前もあるし、人間です。ただ文字も読めないし、身体もボロボロで、だから、もう閉じ込めないでやってください。もうこれ以上、また檻に入れたりしないでください」



 飛の浅葱色の髪の毛がぶるぶると震える。


 大人たちが邪気寄席の様に牡丹をどうにかしてしまうんじゃないかと考えると、胡蝶屋に安心しきって人心地ついていた自分が馬鹿に思えた。


 まるで窮地の野良猫の様に、懇願しながらも部屋中の人間を威嚇する気迫で睨みつける。



「鳶、落ち着いて、大丈夫」



 大人たちが呆気に取られる中、鳩兵衛がゆっくりと飛に近づき、震えて睨むその肩を擦る。そして抱き締めて背中を優しくトントンと叩いた。



「胡蝶屋は邪気寄席とは違う。素晴らしい大店だよ。若旦那様は絶対にそんなことをする御方じゃない。大丈夫」



 飛の後ろで、牡丹は薄く口を開けてただ突っ立っていた。時折煌めく首筋の鱗をじっと見つめ、その美しさに少しだけ目を細めた。


 そうっと右手を上げ、その鱗に触れてみるとまだ柔らかく瑞々しい皮膚がぷにぷにと跳ね返してきた。



「うわっ、何だ?」



 驚いて振り向いた飛と顔を合わせ、牡丹ははっきりと笑った。そして鱗を指さし、



「きれい」



 と言った。



「だろ? おれも言ったんだよ! 鳶の首、宝石が貼っ付いてるみたいだろ?」



 朱鷺が身を乗り出して答えた。


 緊迫した十畳の客間は、一拍の後、気の抜けた笑い声に包まれた。



「誰も酷えことはしねえよ。ただ、信じらんねえかもしれねえが、この状況とそいつの外見からして、ウサギだってことはほぼ決まりだ。俺あ正直、欲がある。鳥種が王になればって夢もあった。こんな幸運二度と無えなら掴み損ねることはしねえ。そこは聞き入れろ。伝説の再来のウサギを、お前には返せねえよ」



 一笑いした後、鷲一郎が出来るだけ優しい口調で飛に言った。飛は、自分は魚種だからこういうことを言われているんだと理解は出来た。



「俺が牡丹と一緒に北街へ帰ったら、北街が王都になるかもしれないからですよね」



「そうだ」



 どれだけ良い人たちだとしても、何の縁も無い自分と南街の王権とを天秤にかける訳が無い。そして自分も北街に王権を譲って欲しいとは思わなかった。


くじら』の鱒翁が言う様に、北街の子供たちは差別を受ける立場に慣れ過ぎていて、それを覆す発想が全く出来ないのだった。



「別に、いいです。牡丹が嫌な、痛い思いをしなくて済むのなら、それでいいです」



 飛はそれだけ言うと、部屋の隅から牡丹を解放した。鷲一郎は頷いた。



「放送じゃ王家が飼ってたウサギが逃げ出したって言ってやがった。今この世にはウサギが二匹いることになる。先にその悪のウサギが王を選んじまったら牡丹はもう王を選ばねえかもしれねえ」



「ただ、王太女の口ぶりからすると、もう一匹のウサギが殺されるのは時間の問題でしょう。加えて牡丹のことも探し回っているでしょうから、夜間警察が聞き込みに来たとしても、夜明けまで匿い続けるしかありませんね」



 鷲一郎と鷹助は二人で話し合い、胡蝶屋大旦那の元へ報告しに出て行く。


 火鉢の熱で温まった客間で、牡丹は再びうとうとと舟をこぎ出した。飛が布団へ横たわらせてやると、幸せそうな顔をして赤い瞳を閉じる。


 鷲一郎から見張りを頼まれた鳩兵衛と朱鷺を残し、お椋も客の元へ戻ることにした。



「鳶ぃ、もしも北街へ牡丹ちゃんを連れ帰って、あんたが王様になれば、美食堂をまた街一番の大店に戻すことが出来るかもしれないわよお? お父さんの為にそうしてあげたいとは、少しも思ってない?」



 部屋を出るときに、お椋が心配そうに訊いた。もしも息子がお椋に義理立てして鷲一郎に反論出来ないのだとしたら可哀想だと思ったからだ。飛がその気なら逃がしてやるのが母親の務めだとも思った。しかし飛は



「思ってない」



 と、首を横に振った。



「俺、美食堂のみんなが好きだよ。板前の仕事にも誇りを持って見習いに入ってる。けど、親父のことは好きになれない。美食堂が社交場じゃなくなったことだけが、親父の人生全部を塗り潰してる気がする。今の美食堂に来てくれるお客さんのことを見ようともしないで、社交場だった頃のやり方ばっかり押し付けてくる。俺、邪気寄席も気味が悪いけど、でも今の美食堂は、社交場に相応しくないと思う」



 傍で様子を見ていた鳩兵衛と朱鷺が、心配そうに顔を見合せた。お椋は寂しい気持ちを笑顔で取り繕った後、頷いた。



「そうねえ。鳶がそう思うのなら、それでいいわ」



 そして飛の浅葱色の丸い頭を二、三度撫でて仕事へ戻っていった。


 花の様な紅藤色の髪の毛を揺らし、姿勢よく歩いていく後ろ姿に、飛は自分の母親ながら何と美しいのだろうと、見惚れた。




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