第23話 何者でもない男




 


 Pが『木天蓼マタタビ』に入ったのは十年前、二十二歳の時だ。


 傭兵上がりの犬遊けんゆうと、その兄の狼志ろうしという若い兄弟が、獅子王ししおうを殺す名目で人を集め、即席で作った組織だった。


 結成当時、夜府座よふざ襲撃の計画はずさんで、金も無かった為に武器もガラクタの寄せ集めだったが、集まった者たちの王侯貴族に対する怒りと鬱憤は凄まじく、屈強な男たちが多かった。


 また、獅子王は我が身を大事にする余り疑心暗鬼になり、しょっちゅう王宮騎士団の者の首を刎ねていることで有名だった。


 今夜と同じく、夜府座の警備はいつだって人手不足で完璧ではなかった。若い力で押せば、世の中を変えられると信じていた。

 

 Pは力自慢でも格闘技が得意な訳でもなかったが、獅子王に対する憎悪は相当なものだった。


 その負の感情をごまかす為に毎週街外れの聖堂へ通い、祈りを捧げていた。自分はいつか憎しみに駆られて見境なく「誰か」を殺すかもしれない。


 そういう血を引いていると思うと恐ろしかった。


 大きなステンドグラスが、整然と並ぶ青銅製のチャーチベンチに色とりどりの光を落とす。


 その美しい聖堂で、Pは狼志と友人になり、『木天蓼』に誘われた。


 彼は同い年で、他人の話を聞くのがうまかった。聖堂の神聖な空気も手伝って、気付くとPは誰にも打ち明けたことの無かった身の上話をしながら涙を零していたこともある。


 狼志は静かに背中を撫でたり、時には胸を貸してくれることもあった。

 

 聖堂には犬遊も来ることはあったが、兄とは正反対でいつもむっつりと黙り込んで碌に挨拶もしない男だったからPもそこまで良くは知らない。


 二人は祈りを捧げることは無く、礼拝が終わった後に尼の一人と、二言三言話して帰るだけだった。


 狼志は穏やかな男だった。

 

 およそテロ組織のリーダーには見えない穏やかな物腰に、肩まで伸ばした黒髪に包まれた顔は痩せて青白かった。


 いつも鷹揚とした口調で、Pのことを唯一、企鵝きがと名前で呼んでいた。



「だって、お母さんがつけてくれた名前なんだろ?」



 Pが何度もその名は捨てたと言っても、狼志は穏やかに微笑んで首を振った。



「オレは大事にしたいよ。お前そのものと同じくらいに」



 上納金がどうしても足りなかった年、南街の社交場・胡蝶屋こちょうやの旦那が、上物の女郎花おみなえしを一人獅子王に宛がった。悪のウサギの力を借りている獅子王は異常に精力があり、成した子も信じられないほど大勢いる。


 Pはその中でも一際珍しい、貴族でも獣種でもない女との子供として南街で育てられた。


 黒い髪と尖った耳は獣種そのものだが眼球を一つしか持たずに産まれ、その瞳もよく見ると灰色がかっている。


 母親の女郎花は子供だけでも獅子王の王宮に住まわせてやって欲しいと赤ん坊を見せに行ったが、不具の者と分かると、すぐに唾を吐かれて追い出されたという。


 獅子王のお手付きと噂が広まり生涯誰とも結婚出来なかった母は、死の間際まで恨み言を唱え続けていた。


 その後は胡蝶屋の旦那が面倒を見てくれたが、成人すると同時に西街で暮らすことを決めた。


 獣種の血を引く自分を南街は一生受け入れてはくれない気がしたからだ。


 南街を出るとき、胡蝶屋の旦那が一通の封書をくれた。Pが獅子王の息子であることと困ったときは後見人になってやってほしいと一筆書いてくれたのだ。


 その年の襲撃が失敗したとき、Pは夜府座には行かず、王宮の庭から事の次第を見守っていた。


 封書の話を聞いた狼志が、『木天蓼』加入と同時にPは王宮で働くべきだと勧めてきたからだ。



「何故ですか? 私は獅子王を父親だとは思っていません。民から毟り取った金で作られた王宮で働くくらいなら、貴方たちと共に志を持って戦いたい」



 Pは最初、猛反発した。誰も居なくなった後の聖堂で、狼志はPの肩を抱き、昏い声で囁いた。



「利用するんだよ、企鵝。お前の持ってるもの全部で懐に入り込んで、内側から王権を破壊するんだ」



 そしてにっこりと笑った。



「きっと獅子王にも大切なものがあるはずだよな。お前にはそれを探して欲しいんだ」



 狼志がどういう意味を持ってそう言ったのかは分からない。けれどPはその指示の通り十年間獅子王の大切なものを探し続け、そして見つけた。


 『鬼』――悪のウサギだ。


 大切なものを壊されてきた人間たちがそれをどう扱うかは、勿論決まっていた。『鬼』を確実に殺すためならば、Pはどんなことでもした。


 何の思い入れもない『鯨』に出向き、王宮を包囲するまでのつなぎに利用した。奥の間付きの侍女に近づき、優しく口説いて利用もした。

 

 今夜、夜府座の舞台の上に獅子王と『鬼』が立った時、Pは万感の思いでそれを静かに見つめていた。


 感情が動く感覚は久方ぶりだった。長い事、息を吐くように嘘をついて生きてきた。


 魚種に同情する反差別主義者、親切で勤勉な王宮の使用人、王の血を引きながらも出自の悪い不具の者、汚れ仕事を黙って引き受ける忠実な劣等感の塊。


 それらしく見えれば何でも良かった。


 とにかく獅子王が殺せれば、獅子王の大切なものが殺せれば、それで良かった。


 自分の行いに何の感情も湧かなかったのだ。

 

 しかし心の死んでいたPにも、この十年間、たった一つ拠り所にしていたものがある。

 

 それは、馬綾まあやだ。

 

 長い潜入捜査で貴族の生活に浸かり、既に故人となった狼志の思い出だけでは目的を見失うこともあった。そんなPを奮い立たせてきたのは、皮肉にも王位継承者の馬綾だった。

 

 十年前の襲撃の夜、夜府座の入り口前の広場は庭からもよく見えた。小さな王冠を載せた少女が銃を持った男たちに果敢に立ち向かっていく光景を今でも鮮明に覚えている。


 Pは、悪になりたかった訳ではない。


 『木天蓼』の革命の先に自分たちの暴力が正義に転じる日が来ると信じていた。


 それでもあの夜、銃の包囲網から堂々と声を上げた馬綾は、悪徒から民を守ろうとする正義そのもの、理想の王の姿そのものだった。


 奥の間の『鬼』を殺さなければ、次はこの姫君が餌食になる。こんなに気高い心を持った子供が、邪悪に染まり人で無くなっていくことこそが悪だ。


 馬綾を真人間のまま救うことは、Pの中で、世界を救うことといつしかリンクしていった。


 馬綾をウサギの呪いから守ることが、『木天蓼』と『鯨』に内通しながら王宮で働くPの、大切な正義となったのだ。



***




「随分と用意周到ですわね」



 王宮の果てにある物置の一角に集められた放送機材と使用人数名を見回し、馬綾は呆れた。



「偶然、片づけの最中だったのでしょう。運が良かった」



 Pは飄々と答え、使用人たちに放送準備の指示を出した。


 Pは何を考えているか分からない不気味な男だ。


 薄く色の付いた眼鏡のレンズで隠してはいるが、不自然な目があまり良く見えていないことにも馬綾は気付いていた。


 二年前、亜栗鼠を王宮の外へ出した後、すぐに宛がわれた側近が庭師をしていた男だったことに驚いた。


 怪訝に思い、大臣に確認したところ、彼が獅子王の息子だと知った。


 側室の子だろうが異種との落とし胤だろうが、自分の王位継承権を脅かす可能性がある者を好きにはなれなかった。


 以来、三年間事務的な会話以外は全くしていない。



「で、殿下、こちらへお願い致します」



 使用人たちがおどおどと怯えながら馬綾を促した。彼らは事態が把握できないままPに言われた通りにただ公衆伝達の準備を終えた。


 夜府座が開かれている間も使用人たちは王宮で食事を作り、清掃をし、何十人も居る王族たちの部屋の寝具を整えて回る。最前線で働き続けている彼ら使用人に情報が届くのはいつも一番最後だ。



 引き出しの上手く納まらない机に機材に繋がれたマイクが置かれた。


 前に据えられた粗末な椅子はクッションが破れ、綿が出ていた。


 まるで今の自分の位置を知らしめられている様で、馬綾の心に悔しさが満ちる。


 唇を噛みしめながら肩を怒らせ、それでも馬綾は黙ってその壊れかけの椅子に上等なドレスで腰かけた。



「馬綾様、余計なことは決して仰らず、御身をお守りください」



 Pは小さな声でそう言って、三街全土のスピーカーに伝わる公衆伝達のスイッチを入れた。



「こちらは王宮放送である。緊急伝達の為、全ての社交場は営業を停止し、全ての民は謹聴せよ。これより獅子王陛下御息女、馬綾王太女殿下から御言葉を戴く」



 Pにマイクを向けられ、馬綾は唾を小さく飲んだ。思ったよりも大きい放送音がこの夜府座にも響き渡り、廊下の奥から使用人たちのざわめきが聞こえる。


 Pが先ほど言った通り、ここで良き先導者として西街の王侯貴族を諫め、大人しく一介の民に成り下がれば、王にはなれずとも西街の長では在り続けられるだろう。


 そして青猪あおいの連れ去った再兎さとが何処かで『木天蓼』に捉えられ、悪のウサギとして殺されるかもしれない。


 だがもしも、再兎がすぐに青猪を次の王として選んだらと思うと、馬綾の心は掻き毟りたくなるほどの憎悪でいっぱいになった。


 あの信頼関係ならばあり得る話だ。まだ子供でウサギとしての力があるのか甚だ疑問だが可能性はゼロではない。


 青猪が獅子王の様にウサギに拘泥し生き汚くなっていくことだけはどうしても耐えられない。


 馬綾もまたPと同じく青猪をウサギの呪いから守ろうとしていた。



「三街の民よ。王太女馬綾である。さきほど西街社交場・夜府座は宗教団体『木天蓼』によって武力制圧された。再来のウサギは喪われ獅子王陛下が崩御された。これより新たな王が選ばれるまでの間、暫定的にわたくしが王の代理を務める」



 言葉を紡ぎながら実感がまるで湧かなかった。


 どの者も口を揃えて獅子王の悪政を罵るが、馬綾にとってはかつての優しく偉大な父のままであった。その姿を胸に、大きく息を吸い、そして一息に喋る。



「民に正直に打ち明ける。我が王家は長きに渡り悪のウサギの力に縛られた王家であった。お労しい獅子王陛下は、悪のウサギに操られ言い成りになる他なかったのである。王家ではもう一匹、子供の姿をしたウサギを飼っていたが、これが現在夜府座から逃げ出し三街の何処かに潜んでいる。泰平の世にするため、ウサギを――」



 横からPがマイクの電源を落とした。反射的に顔を見ると、銀縁眼鏡の奥の瞳が困惑して揺れていた。



「馬綾様、ご自分が何を仰っているのかお分かりですか……民に偽りを伝えてはいけません。民を扇動し、己のために利用してはなりません」



 馬綾はPの手の上から力づくで電源をもう一度入れ直し、叫んだ。



「殺せ! ウサギは人を狂わすもの! 神の意志などではない! このウサギには生き別れの双子もいると聞いている! 白髪と赤い眼はどうとでも細工出来る。隠しきれぬ長い耳を持つ者を皆殺しにせよ!」



「おやめください! 馬綾様っ!」



 公衆伝達に激しく争う雑音が流れ、不自然にブツッと切れた。それから先はいくら三街の民が耳を澄ましても放送は再開されなかった。



「何を企んでんだ? アイツは」



 膠着状態の夜府座の真ん中で、最早しゃれこうべ二つと化した獅子王と『鬼』を見守っていた犬遊が、口の端で少し笑った。


 その他の『木天蓼』の者たちは夜府座の内でも外でも皆、どよめいていた。



「双子……? 双子だと?」



 東狐とうこが二十歳を過ぎた頃から託宣を受けて来た神の声は信徒たちにとって経典となっている。


 獅子王は悪のウサギによる偽王であること。新たなウサギは複数存在していること。全てが東狐の言葉の通りであった。



「やはり東狐様の御言葉の通りだった……」



「六年前、世に放たれたウサギとは、このことだったのか……」



 狂信的な信徒たちが、感動のあまり夜府座の外ですすり泣き出した。



「……殿下の御言葉を聞いたか……」



 それまで押し黙って立っていた王宮騎士団たちが顔を見合せ、やっと息をした。


 獅子王亡き今、馬綾の命令を聞けば打ち首を免れるかもしれないと、一筋の希望を見出した騎士団長は周囲の者たちと頷き合い、ゆっくりと後退り夜府座を出た。


 それに気付いた犬遊は一瞬後ろを見遣ったが、愉快な気持ちで捨て置いた。


 王が殺され、この王権自体が無に帰すと言われてもなお命令を遂行すること以外考えられない衛兵たちは憐れですらあった。


 殺せと命令が出ている以上、『鯨』の様な脅威も無い。むしろ『木天蓼』の目的と一致している。



「我々に今出来ることは、殿下の御言葉の通り、あの子供のウサギを抹殺することだ」



 騎士団長を囲み五十人ほどで固まった騎士団は、『木天蓼』信徒を避ける様にして夜府座の前の広場から離れ、小声で話し合った。



「陛下の命で再来のウサギを探しに行く時はいつも、東の森の付近へ向かう。王宮に住まうウサギの指示だと聞いていたが、恐らくあの森が禁忌とされていることと関係あるはずだ。先ほどの放送を耳にしてウサギが隠れるとしたら、人の寄り付かぬ東の森へ帰るのではないか」



 古参の兵が早口で捲し立てた。彼は前任の騎士団長の頃から衛兵を務めており、十年前のテロの後、責任を取らされた団長の姿を思い出し焦っていた。



「このことは王宮騎士団しか知り得ない情報だ。『木天蓼』が見つけて殺す前に、我ら王宮騎士団の手でウサギを仕留め、その首を殿下に捧ぐのだ」



 若い騎士団長は、僅かに逡巡した後、静かに命令を下す。



「もうそれしか道は無い。東の森は西街、南街、北街のどこからでも繋がっている。三街に手分けして森へ入る」



「し、しかし団長、あの森へはウサギ捜索のため僅かに踏み込んだことがあるだけです。森の奥まで全てを捜索するということですか……」



 今年入ったばかりの衛兵の一人が震える声で意義を唱えた。


 太古より東の森は神の住まう森とも鬼の住む森とも言われ、誰も寄り付かぬ不可侵の聖域となっている。


 どんな罰が下るのかの逸話すら無い場所に立ち入ることが恐ろしくなるのは当然の反応だった。



「天罰よりも恐ろしい死を、俺は見たことがある。王族の逆鱗に触れたら、人としては死ねないぞ」



 古参兵が静かに呟いた。

 

 十年前のテロの後、その主犯である革命軍『木天蓼』の狼志と捕縛された他数名、そして襲撃を許した王宮騎士団の当時の団長は磔にされた。


 西街の中央に作られた処刑台の周囲は鉄格子で囲まれ、獅子王の命令でその檻の中には十羽ほどのハゲワシが入れられた。


 夏の暑い日差しが毎日照り付ける広場に、拷問を受け瀕死の状態の男たちが吊るされていく。ハゲワシはそれを、悠長に少しずつついばんでいった。


 辺りは酷い臭気で満ち溢れ、初めは集まっていた見物人たちが来なくなった後も最後の一人が食いつくされるまで処刑台の警護は続いた。


 団長が生きながら食われていく様を、自分は毎日背中で感じながら実に十日、地獄を味わったのだ。


 年長者に諭され、新人は言葉を失い、小さく頷いた。頷くしかなかった。


 自分たちの命が助かる可能性は何が潜むか分からない森へ入る方がまだ高そうだと感じた。黙った兵に一瞥をくれて団長は力無く号令をかける。



「では、各自、健闘を祈る」



 テロリストに制圧された王宮を捨て置き、騎馬を駆って去って行く王宮騎士団の後ろ姿を、夜府座の外周で捕縛されたままの『木天蓼』たちが見つけ、勝利の大歓声を上げた。



 王を失ったこの世の行方は今、残り二匹のウサギに託された。




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