第22話 代償




 外でバリケードを組む『木天蓼マタタビ』に応戦していた王宮騎士団が夜府座よふざの扉を開けたのはそれからすぐだった。


 少数精鋭部隊で襲撃した十年前とは違い、今回のテロは謂わば総力戦である。


 『木天蓼』信徒の男たちだけではなく、その妻、子供たち、病に罹っている者も老いた者も皆、銘々に大義を持ち、王宮騎士団が手薄の僅かな隙を突いて、夜府座の周囲を固めた。


 筋骨隆々の武闘派は夜府座のホールを占拠するに留まり、一般市民と何ら変わらないその虚弱な信者たちが武器も持たず幾重にもなってスクラムを組んで震えていたことが、逆に王宮騎士団の事態の把握を遅れさせた。


 若い騎士団長は、前任者が十年前のテロの際、姫君を救出したにも関わらずどの様な仕打ちを受けたか知らされている。


 銃口を突きつけられても引く気配の無い、最初から死ぬつもりでいる迷惑な信者たちを力ずくで縛り上げながら、自分も襲撃を許した時点でどうせ終わりだと自暴自棄になっていた。


 急ぎもせずやっつけ仕事をしながら重々しく夜府座の扉を開けると、既に武力制圧されたホールの一番奥に、見たことも無い醜い人間の姿があった。



「……王宮騎士団だ。外の『木天蓼』は全て制圧した。武器を捨て、投降せよ」



 静まり返り固唾を飲むホールの大勢の人間は、誰もこちらを見ない。騎士団の人間たちも皆、舞台上のその醜い、獅子王の姿に釘付けになった。




 湯気が出ている様だった。


 カラカラに乾ききった外皮は黒ずんだ褐色になり、皺が何層にも重なって木の年輪の様に深く刻まれている。そ


 の縮んだ皮膚の内側のズルリと剥き出しになった肉から、黄ばんで異臭を放つ液体が染み出していた。そこからまるで酸に溶かされているかの様に湯気が立つ。


 王は、膝をつき虚空をみつめ顎を突き出し首を押さえながら固まっていた。


 歯は全て抜け落ち髪の毛は一本も無く目は落ち窪み鼻の肉も削げ、床にはその人間の汚液と『鬼』の大量の血液が広がり、混ざり、舞台の下の高級なベルベットカーペットに垂れ流されている。

 

 血と汚液に汚されながらも高級と分かる美しい紋様のドレスを纏っている傍らの『鬼』の亡骸の中身は既に殆ど空っぽで、髑髏の下は溶けて無くなっていた。


 いつまでも消えない美しい白髪だけが長く揺蕩い、その汚濁の川に広がっている。

 

 前列の方に固まっている貴族たちが時折嘔吐する水音が聞こえる。それ以外は、オペラを聴く時の様に静かに、マナー良く、皆一様に舞台を注視した。


 誰もが歴史の目撃者であるという自覚があった。


 今夜、確かに獅子王ししおうは死んだのだ。


 誰よりも醜く、誰よりも汚らわしく、誰よりもむごく、誰よりも惨めに死んだのだ。


 シルクのシャツも深紅のマントも置いて、骨と皮と汚物だけになって、黄金も高級ワインも持たずに、泣きながら苦しみながら、未練を残して死んだ。



犬遊けんゆう



 舞台上で死体が溶けていくのを見守っていた『木天蓼』の一人が、ホールの中央に立っている若者に声を掛けた。



「終わったぞ」



「違うね」



 王宮騎士団の軍用コートを纏いオニキスのピアスをした若者――犬遊は、良く通る声で叫んだ。



「始まったぞ! 新しい世界が!」

 


 開け放たれた夜府座の扉の向こうで、その声を聞いた『木天蓼』の信徒たちがワアアアッと歓声を上げながら拍手をし出した。


 まとめて捕縛され床に座らされている彼らから夜府座の惨状は見えてはおらず、犬遊の勝利宣言に泣きながら勝鬨を上げている。

 

 同志を安心させ役目を終えた犬遊は笑いもせず、獅子王の亡骸をじっと見つめ動こうとしなかった。


 王宮騎士団は護る者を失いやるべきことも分からずにただ呆然と突っ立っている。


 貴族たちは報いを受けた獅子王の凄惨な死に様に恐怖し、これから変わる自分たちの生活を案じて震えるばかりだ。


 そして若者四人を外に出し、残り二十数名で固まり状況を見守っていた『くじら』たちもまた、自分たちの目的を見失い途方に暮れていた。


 誰もが、獅子王を中心に回っていたこの世界で、迷子になり立ち尽くしている。



「ずっと……こんな日を夢見ていた」



 鱒翁ますおうが、静かに零した。『木天蓼』信徒の拍手と大喝采の中、鱒翁は顔をぐしゃぐしゃにして泣いていた。



「ありがとう。こんなに惨めに、これだけ醜く、死んでくれて、ありがとよ」

 


 立てかけた大漁旗に凭れ掛かり我が子でも撫でるかの様に愛おしそうに掴んで寄せる。


 美鹿みろくはその鱒翁の背中を擦りながら、彼の苦しい気持ちをほんの少しでも分かち合いたいと思った。


 見回すと、他の『鯨』たちも泣いていた。皆苦しそうに、自分の中の、人を憎む気持ちを、人を恨む気持ちを、曝け出し泣いていた。



緋鰤ひぶりたちは、どうでしょうね」



 美鹿は鱒翁に寄り添いながら、零した。鱒翁は手のひらで顔を雑に拭い、二、三度頷いた。



「そうだった。そうだったな。ここは『木天蓼』に占拠されてるし、ワシら魚種は殺されるかもしれんから、せめて若いもんだけでもと逃がしたつもりだったが……危険だったかもしれないな」



「いえ、むしろ正しい判断だったと思います」



 美鹿は首を振った。



「それに、先ほどあの『木天蓼』の青年が言っていた通り、ここからが始まりです。魚種の人権を取り返すには、権力を得るのが一番早いでしょう。あの幼いウサギが我々の手に入れば次の王権は魚種に与えられます。魚種といっても、あの如何わしい社交場の邪気寄席などに王権を譲る気はありません。『鯨』で独立自治区を創り、そこを王都にしましょう。魚種が王になるのです」



 美鹿がそう提案した時、鱒翁の持つ大漁旗の竿がギッとしなった。


 驚いて身体を離すと、そのままビリビリビリビリ! と勢いよく旗が裂けた。


 死してなお残穢によって魚種に牙を剥く『鬼』の力に『鯨』の一団がどよめく声が、夜府座と王宮を繋ぐ扉の向こうの馬綾まあやにも、微かに聞こえた。



***





「終わった、と誰かが言いましたわ……」



 自分を包む様に抱き締めて、最後の最後、獅子王が息絶える前にPは王宮へ入って扉を閉めた。


 それが思いやりによるものだということくらい馬綾にも分かっている。


 最早抵抗を止め、ただ静かにその場に立っていた。Pは頷いた。



「ええ。そして、始まったとも言いましたね。新しい世界がこれから始まるのです、馬綾様」



 気安く名を呼ばれ、馬綾はじろりと睨んだ。額の付くほど近くに顔を寄せたPが、じっと目を見て諭す。



「貴女は馬綾様です。もう第一後継者でも王太女殿下でも無い。恐らく次の世では崩壊するであろう貴族制度の中で、人を支配することしか、王になることしか、学んで来なかった方です」



「……何を言われようと、貴方の様な人間に呼ばせる名はありませんわ……」



 いつもの覇気は見る影も無いが、馬綾は意地でPを押し退けた。



「これから新しい世界が始まる? 貴族制度が崩壊するですって? そんなことまだ分かりませんわ。王宮騎士団にあのウサギを捕まえさせ、次の王にはわたくしが就けば済むだけのお話」



 そう言って押し開けようとした夜府座へ続く扉をPが身体で押さえた。



「今ここを出たら、貴女は殺されますよ、夜府座は王族を恨む者で溢れかえっています」



「だから何だと言うのです! 殺すなら殺せば良いのですわ。わたくしはもう、生きていたって……」



 Pが馬綾の頬を軽く叩いた。


 ペチンという小さな音を立て、産まれて初めて馬綾は暴力を受けた。驚いて目を丸くする馬綾の肩を両手でしっかりと掴み、Pは語気を強める。



「しっかりなさってください、馬綾様。貴女ともあろう御方がなんと軽率で浅はかなことを口にするんです。貴女の生き残る道はただ一つ。陛下に代わり、西街は王権を失ったと宣言するのです。そしてこれより西街の貴族と王宮騎士団や王宮の使用人たちを束ね、次の王の指示を待つのです。決して反旗を翻すつもりは無いこと、神の意志に委ね次のウサギが王を選べば受け入れると三街の民に伝えてください。獅子王の遺志を継ぐ者と思わせてはなりません。新たな世を受け入れるのです」



『鬼』と共にこの場で葬り去る予定だったウサギを逃がしてまで『木天蓼』の気を逸らし、一瞬の隙を作って馬綾を王宮へ下げた。


しかしあの子供の様な大使が一人ついているだけではウサギが殺されるのも時間の問題だ。


『木天蓼』の興味が馬綾に向く前になんとか敵意が無く利用価値があることを世に知らしめなくてはならない。



 Pの焦燥を余所に、馬綾の脳裏には最後に見た青猪の顔が過ぎっていた。大事そうにウサギを抱え、必死に夜府座から走り抜けていく青猪。


 馬綾の知っている青猪は、心に寂しさを抱え、非力な自分を嘆くだけの泣き虫で甘えん坊の男の子だった筈なのに。


 何も変わっていないといったのは嘘だ。


 再会した瞬間から気付いていた。


 彼は、自分とは正反対の場所に進んでいた。愛を知り、人に優しくすることが平和に繋がると気付いていた。


 あの世界が新たな世なのだとしたら、自分は受け入れられるだろうか。否、ウサギに対する憎悪を抱えたまま、次の王の選別もまたウサギに頼ることなど出来ない。


 かつて大好きだった父をゆっくりと蝕んでいったあの『鬼』の様に、次は青猪をウサギに奪われる。


 馬綾の心は嫉妬で満ちていた。



「……分かりましたわ。それが王家の最後の務めならば、わたくしが果たします」



 青猪に繋がれた再兎の手がもしも自分の手だったならば、王位を投げ出してでもきっとついていったのに、自分は選ばれなかった。誰からも選ばれなかった。


 馬綾は恭しく傅き差し出されたPの手を取りながら、空虚な気持ちでいっぱいだった。

 



 通常、三街全土に獅子王から挨拶がある場合は夜府座のバルコニーで執り行っている。


 西街の上流貴族はそれを直接拝観しに訪れ、その他の民には王宮の放送担当の者たちが音を撮って電波に乗せ、各街の至る所にあるスピーカーに公衆伝達することが出来る。


 公衆伝達は夜間警察や消防、役所で使うこともあり、誰にでも開かれた機能であり祝賀の際には音楽が流れることもある。



「どこから流すつもりなのです」



「放送機材は別室に用意させます。こちらへ」



 馬綾の手を握ったまま、Pは歩き始めた。主従の関係からすると可笑しなことだが今は誰でも良かった。


 誰かに触れていることが馬綾の心を安定させた。Pはそれを見透かしているかの様だった。

 



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