第19話 悪のウサギと偽王




 獅子王ししおうが謁見の間から再び奥の間へ戻ると、風呂から上がった悪のウサギ――『鬼』が、更紗染めの薄いドレスを纏い、ゆったりとしたソファへ腰かけて頬杖をついていた。


 濃紺に銀の大輪の花が染め抜かれたドレスは、南街の職人に特注で作らせた一級品で、この『鬼』の為に獅子王が直々に選んだ柄だ。


 垂らした白銀の美しい髪が濃紺の夜空に揺蕩う天の川の様に見える。



「もう戻ってきたか」



 扉を開けた獅子王に気付いた『鬼』は、呆れた声で言った。やや青ざめた顔色で、獅子王は足早に『鬼』の側へ寄り沿った。


 倒れ込む様にソファの下へ傅いてその膝へ額を付ける。



「のう、子獅子よ」



 齢百五十八にして黒々とした獅子王の豊かな蓬髪を手慰みで漉いてやりながら、『鬼』は語りかけた。



「そちにはもう一刻の猶予も無さそうではないか。ウサギはどうした? 早う食わせよ」



「間もなく大使が絞めたウサギをこちらへ寄越す。馬綾に見張らせておる。大事ない。もう、間もなくだ」



 うわ言の様に繰り返しながら、獅子王は荒い呼吸をゆっくりと落ち着けていった。やがてゆっくりと『鬼』の膝から離れ、ソファへ腰かけた。但し、『鬼』の身体に寄り添う距離でしか座れなかった。



「本来ならば、王位は百年じゃ。そちは八年分、慣例を破ったことになる。もう十二分に生きた。とうに人の寿命を超えておる。その分身体が辛かろう。その様にしがみ付かずとも、血を分けたあの娘に王位を譲ればよいではないか」



 わざと揶揄すると、獅子王は逞しい腕で『鬼』の身を抱き寄せた。力が入り過ぎ、『鬼』が眉を寄せるほどの強さだ。



再兎さとよ、何故その様な無慈悲を申すのだ。余の心の内は世界で一番、主が知っておるだろう。余はまだまだ生き足りぬ。この豊かな世界を維持するため、余は知恵の浅い民たちを先導する長であり続けなければならぬのだ」



 詭弁だ。『鬼』は心底可笑しかった。


 『鬼』が子獅子と呼ぶこの三代目獅子王は、人の倍ほど生きても尚、生に執着しているのだ。


 もっと富を得ることだけに執着し、贅沢な暮らしと全ての人間の頂点に君臨する愉悦に浸り続けていたいのだ。


 その飽くなき欲望、生き汚い邪念を感じる度、『鬼』は自らに力が漲るのを感じた。


 差別や貧富の差に塗れた世に蔓延る憎悪や不満の渦は、『鬼』に愉快な気持ちをもたらす。


 子獅子は命の引き際も分からぬ愚かな男だ。そして、自らの栄華を長引かせることしか考えていないが故に、荒廃していく世に目を背け続けている。


 かつて初代獅子王は、確かにもっと豊かな世界を創る為に王になった。手段の善悪は別にして、大義があった。


 しかしこの三代目には世のことも民のことも、自分の子孫のことすらどうでも良いのだ。

 

 八年前、戴冠百年を迎えた三代目獅子王に、『鬼』は崩御を打診した。


 ところが獅子王はこの世の泰平を存続することに興味が無かった為、後継を誰一人として育てて居なかった。


 後継者として名乗りを挙げていた者たちの中に王の器は居らず、唯一可能性のあった馬綾ですらその時まだ十歳。とても世を治められる力量は無かった。


 力の無い者が王になれば不満を堪えていた民たちからあっという間に攻め入られ、殺されることは分かり切っている。


 『鬼』もまた、王が絶えれば自らも滅びることを理解していた為、三代目の



「この世に余よりも王に相応しい者は居ない」



 という一言に甘んじる形となったのだ。


 『鬼』は、初代獅子王の時代から、代替わりの際はウサギを喰って力を維持してきた。しかし八年前、兵がどれだけ探し回ってもウサギを連れ帰ることが出来なかった。


 ウサギが何処かに出たとして、もしもそれを捕まえ損ねたのだとしたら今ここに獅子王と『鬼』は生きてはいない。


 つまり、王位百年を迎える周期で必ず出現していた再来のウサギが出てこなかったということを意味する。


 その所為で力を補給せぬまま王位を続けることとなったが、新たなウサギと王が立たないのであれば必然的に獅子王の存続は決まっていたのだ。


 更に、その二年後にようやく出現したウサギも、成人しておらず赤ん坊の状態だった。


『鬼』は一つの仮説を立てた。


 悪のウサギと呼ばれる自分が差別と貧困の蔓延した世の憎しみを感じる度に力漲ると同時に、新たなウサギの力を弱めているのではないか。


 だとすると、いつ再び現れるとも知れないウサギをただ待つ方法では心許なかった。そのため六年前の赤ん坊のウサギは、王位を維持する力の限界まで飼って、いよいよという日まで手元に置いておくことに決めたのだ。


 獅子王は今では一日の殆どを『鬼』と近しい場所で過ごさなければならない程に衰弱している。精力的だった側室たちとの交流も鳴りを潜め、より直接的に力を得る為に『鬼』と通じる様になっていった。

 

 それでもまだ生にしがみ付くみっともなさが、死を恐れる滑稽さが、『鬼』を一層愉快にさせた。


 それが、三代目獅子王が『鬼』の気に入りになった一番の理由だ。

 


 ただ一つ、『鬼』には不満があった。



「ところで子獅子よ、決め事を忘れてはおらぬな」



 逞しい腕からスルリと抜け、『鬼』は美しい笑みを湛えながら獅子王の両頬を手で挟み、じっくりと見つめた。


 その瞳の深い紅に魅せられながら、獅子王はゆっくりと頷いた。



「魚種のことだな」



 『鬼』は答えに満足して、にんまりと笑みを深めた。



「そうじゃ。今一度、あやつらを最下層の惨めな賤民に貶め、穢土のあらゆる辛酸を嘗めさせよ」



「八十年ほど前、余が魚種差別撤廃宣言を発布した折も、主は激昂したな」



「あの様な者たちを平民とすること、一時たりとも妾は承知しておらぬ。そちが下した愚策にはまこと心劣りしたぞ」



「しかしあの時分は北街全体が『くじら』の運動に参加しておった。あれを放置していたら主もろとも殺されておったかもしれんぞ。余とて苦渋の選択であった」



 獅子王はその頃は未だ『鬼』に依存しておらず、ウサギの存在は単純に自分を王たらしめる道具としか認識していなかった。その為、政治に関して意見されても自分の保身や安全を常に優先にしていたのだ。


 反論された『鬼』は、興冷めした顔で獅子王の頬から手を離し、静かに怒りを湛えて睨みつけた。



「妾は魚種サカナなどに殺されはせぬわ」



「何故、主はその様に魚種を嫌う? 我が祖父に水は穢れだと進言したのも主だと聞いておる。魚種の者たちはそれまで王都として豊かな北街に暮らしていたそうではないか。差別撤廃以降の今時分の関税でも、十分西街は潤っておる。煩わしい『鯨』も今は殆ど力を持たぬ。何故それでは不満なのだ」



 獅子王は宥める様な疲れた顔で『鬼』を真正面から見返した。


 我が身の振り方にしか興味の無い獅子王ですら、魚種を鳥種と差別化し賤民と誹ることに価値が無いことは理解できた。


 むしろまた『鯨』の差別撤廃運動が盛んになることの方が厄介であることは明確だ。政治にそこまで口を出さない『鬼』が、こと魚種に関しては狂った様に苛烈になる。その理由が分からない。



「妾は水がいやなのじゃ!」



『鬼』は頭を振って吐き捨てる様に声を上げた。



魚種サカナどもが嫌いじゃ。臭い臭い。醜い醜い。のう、厭でたまらん。あれを好いておる様な者が憎うてたまらんのじゃ」



 歪んだ表情で誰かを憎んでいる。こんな表情の『鬼』は、差別撤廃宣言をしたあの夜以来見ていない。


 あの時も怒り狂って手が付けられなかった。物を自在に移動させるあのウサギの力で部屋中の高級品を四方八方に投げ回し、この奥の間の中に嵐を起こして壁を何枚も割った。



「のう子獅子よ、妾の言う通りにしておったらよいのじゃ。さすれば何もかも上手くいく。そちはそちの祖父よりも父よりも妾とぴったりと合うておる。心も身体もぴったりと。妾とこのまま幾年も添い遂げようぞ。そちは初めて百年を超えた王よ。特別な王なのじゃ。妾の言う通りにしておれば、千も万も王で居られるぞ」



 縋り付く様な、それでいて有無を言わさぬ迫力で、『鬼』は凄んだ。


 納得はしなかったものの、獅子王は、これから千年先まで自らの権力と富が続くのであれば結構と、それ以上の思考を放棄した。


 同情はすれど、そこまで魚種に特別思い入れがある訳ではない。『鬼』がそれで世が滞りなく治まると言うのであれば、それで構わなかった。



***




 その時、コンコン、と控えめなノックが鳴った。



「……陛下」



「入れ」



 申し訳なさそうな顔で、身を縮込めた奥の間付の侍女が静かに扉を開けた。



「何用だ。馬綾まあやはまだか」



 侍女の青ざめた顔を眺め、獅子王はとぼけた声で尋ねた。



「恐れながら陛下、夜府座よふざに『鯨』が乗り込んで参りました……」



「何故『鯨』が? あの下らん意見書を持って参る日は今日ではあるまい。よりによって解禁夜の西街に入るとは。正気の沙汰とは思えんが」



『鬼』の傍で随分回復した獅子王は、立ち上がり眉を顰めながら扉へ向かう。



「その、集団で、武装しております。陛下を出せと言って夜府座を占拠しておりまして……」



「何? 占拠だと? 騎士団は何をしておる! 何のための衛兵だ!」



 解禁夜の夜府座の売り上げは西街の王族が贅沢をする為に欠かせない資金源だ。その営業を邪魔されたと聞き、獅子王は思わず侍女を怒鳴りつけた。


 ヒッと息を飲み身を硬くした侍女は、涙声で



「も、申し訳ございません……騎士団は占拠の知らせを受け、夜府座に向かっているとのことです」



と、深々と頭を下げた。


 その背後に、ここに入ったことの無い馬綾の執事であるPの姿があった。



「何だ? 何故、主がここにいる」



「陛下、まずはどうか、この者を叱らないでやってください。陛下に直接お話したいと、私が強引に押し切ってここまでついてきたのです」



 夜府座で襲撃にあったのだろうか。肩や腹に灰のような汚れを付けた燕尾服のPは、最敬礼し続ける侍女を挟み、獅子王の奥の『鬼』に一瞥をくれながら続けた。



「『鯨』の者たちは、大変興奮しております。社交場解禁時間から随分経っておりますため、騎士団は一旦夜府座の外に警邏に出ていたとのことで、対応が遅れております。受付の二名が人質に取られており、出入り口が封鎖されているため御客人方も夜府座内に閉じ込められております。十年前の木天蓼の襲撃と同じ被害を出さぬ為にも、どうか、陛下御自ら『鯨』にお言葉をかけては頂けませんでしょうか」



 銀縁の眼鏡の中の視線は鋭い。Pは一使用人とは思えぬ強さで、世を統べる王に捲し立てる様に進言する。



「何十年も渡されてきた『鯨』の嘆願書をお読みになっているのは陛下だけです。その陛下にどうしても訴えたいことがあっての行動でしょう。謂われなき差別を受け、長い間苦しんでいる魚種の民の声にどうか御耳を傾けて頂きたいのです」



「良いではないか、子獅子。賤民共に再び差別をくれてやる大義になる。会うて宣ってやれ」



 Pの勢いに圧倒された獅子王が口を開けるより早く、背後の『鬼』が答えた。



「再兎」



 後ろを振り向いた獅子王がそう諫めるのを、Pは確かに聞いた。


 白い髪、赤い瞳、垂れた耳。噂には聞いていたが直接目にするのは初めてのことだった。これがウサギ。再来のウサギかと、今度はまじまじと無遠慮に注視する。



「何じゃ小僧。妾の姿に見惚れておるのか。しかしそちはまるで魚種サカナに肩持つ言い様をするのう。まことに娘の世話役か? 『鯨』には獣種も混じっておると聞くではないか。そちもその口ではなかろうな」



 にやにやと嫌な笑顔を貼り付け、『鬼』は獅子王の背後ににじり寄り、ぴったりとその背に肢体を付けた。


 獅子王は振り払うこともせずまるで『鬼』の言葉を鵜呑みにしたかの様にPに疑惑の目を向けた。



「陛下、その者が我が王家の再来サライのウサギですか」



「主がそれを知ってどうする。これは王家の力にして急所。余の落とし胤とて、この奥の間に入ることを許した覚えは無いぞ」



 獅子王の言葉に、『鬼』は愉快そうに声を上げて嗤った。



「ほう……そちの子息であったか。これは一興」



「子息という程の者ではない。吐き出したものから出でただけの異形だ」



 獅子王は、大勢の子供たちに接する温かな姿が嘘の様に、痛烈にPを侮辱した。Pはそのことには眉一つ動かさず、



「陛下、どうか御慈悲を。『鯨』と対話を」



 と、夜府座に出ることを頼み続けた。


 傍で頭を下げ続けている侍女は、同じ重要使用人としてPのことをよく知っていた。


 Pは馬綾の側仕えながら、王宮の掃除や炊事洗濯をする者にまで挨拶や労いの言葉を掛ける様な人物だ。


 塵があれば自ら拾い、朝早く一人庭へ出て花を愛でる様な、心根の優しい男である。


 そのPが実は獅子王の血縁者であり、理由は定かではないが他の子息とは差別されていることに侍女は静かに動揺した。


 彼は、そんな言われ方をしなければならない様な人間ではない。下を向きながら溢れてくる悔し涙を成す術無く落とし続けた。



「余が夜府座へ下りて命を狙われたらどうする。自ら危険な場に赴けとは道理が通らぬ」



「しかし彼らはただの社会運動の団体に過ぎません。武装といってもゲバ棒やパイプを振り回しているだけです。私が陛下の盾になり、お守り致します。貴族の方々を御守りする御姿は獣種の民の支持を、『鯨』と対話する御姿は魚種の民の支持を得、陛下とこの世の益々の栄華に繋がりましょう。どうか、ご決断ください」



 獅子王と『鬼』が魚種にどういう仕打ちを与えようとしているかを知らないPは譲らなかった。


 呆れ顔の獅子王は自分の肩に顎を置いて愉快そうにしている『鬼』に目を向けた。



「どう思う」



「無論、危険が無いとは言えぬ。が、妾も連れて行けば良い。今までそちら獅子は三代に渡り妾の身を案じ秘匿してきた。しかしそちが危険な場に赴くのであれば最早妾が隠れる必要は無いのう。そちが死ぬも妾が死ぬも一蓮托生。なれば民の前に妾の姿を誇示し、真の王であると宣言すれば良い。ウサギを喰うのはその後でも構うまい。妾も久方ぶりに魚種(サカナ)の絶望する顔を拝みたいのじゃ」



 『鬼』はそれだけ言い放ち、まだ決めあぐねている獅子王を残しPと侍女の前へ立った。今まで長く隠してきたウサギが外へ出ると聞き驚いて顔を挙げた侍女の尖った耳元に口を寄せ



「そちはこの小僧を好いておるのか」



 と、心底愉快そうに揶揄った。


 目を白黒させて再び頭を下げる侍女を尻目に『鬼』はとても上機嫌だった。その短絡的な行動に一抹の不安を抱えながら獅子王も歩を進めた。


 気は進まないが『鬼』が行くと言うのなら自分に残る選択肢は無い。侍女に



「主は馬綾と青猪の部屋へ向かい、直ぐにでもウサギを絞めて夜府座へ下りる様申し付けよ」



 と言い残してPと『鬼』の後を進んだ。


 力の衰えが急激に自分を蝕む感覚がある。


 あの若いウサギが『鬼』と対極の力で自分を引っ張っている様な感覚だ。獅子王には、それが恐ろしくて堪らなかった。


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