第18話 喜劇の主人公
「それで……? 結局、あれは、何処に居るんだ?」
青白い血管の浮いた額に朱色の巻き毛をへばり付かせ、首の後ろの鱗はペットリと寝そべる様に張り付いている。何か弁解をと思い必死で脳みそを回転させるが、何も浮かばない。
あの白い異形を
異形を仕入れた下っ端にも話を聞きに行ったが、檻に入れてから後は、自分の担当では無いと突き返された。管理を担当していた下っ端は、他の奴隷との違いを把握していなかった。
太刀に無許可で恋人の
「鯉市よ。儂は子が成せん。だからお前のことは息子として扱ってきたつもりだ」
珍獣が買い叩かれている舞台を一望できる大窓から漸く視線を上げ、太刀は初めて鯉市を振り返った。
「それをお前は、仇で返した」
真っ赤に充血した目の周りに血管が浮き、首の鱗が逆立ち、吊り上がった眉と裂けた口はまさしく鬼の形相を呈していた。ゆっくりと椅子から立ち上がった太刀の怒気に当てられ、鯉市は尻もちを付いて震え上がる。
「あ、あ、あ、お、おじっ、叔父貴っ」
涙を流しながら後退る鯉市は、恐怖で噛みあわない歯を鳴らしながら必死で声を出した。
「すみっ、すみませんでした、すみませんでしたっ!」
「儂が聞きたいのは、そんな言葉じゃない。あの異形の居場所を訊いている」
太刀がにじり寄って来る。壁に飾られた飾り刀を視線の端に捉えながら、鯉市はパニックに陥った。
どうしてこんなことになった、何故、あの白い異形は薬をあれだけ打ったのに逃げられた? 檻に入れられた人間たちはここへ来るまで何日も食事を与えられていない筈だ。行く場所だって何処にも無い。まさか逃げ出すなんて、そんな気力の残っている奴隷は今まで一人も居なかった。
「鯉市!」
気付くと眼前一杯に太刀の顔が迫っていた。
「ぎゃああっ!」
鯉市は尻から頭を串刺しにされた人形の様に手足を浮かせて叫んだ。その情けない顔を太刀が思いっきり平手で張り倒す。バチン! と耳が鳴ったと思ったら鼻血がブッと噴き出し、鯉市は漸く正気を取り戻した。
「いいか! 儂が言いたい事はただ一つ、お前は今からあれを探し出してここへ連れてこい! それが出来れば今日のことは不問にしてやる!」
大声で怒鳴られ、鯉市は壊れたバネの様に何度も頷いた。
「手ぶらで帰る場所は無いと思え。あれを連れ帰るか、死ぬかだ。いいな!」
太刀にそう凄まれ、鯉市はヒイヒイ言いながら、四足で逃げる様に部屋を飛び出した。
しかし鯉市は太刀に報告に来るまでに既に死に物狂いで異形を探している。最早当てが無い。
「亜海鼠……。亜海鼠に会いたい……」
鯉市はうわ言の様に呟き、フラフラと特別室を後にした。ビンタ一度で済んで取りあえず命拾いしたと安堵していたが、打たれた方の耳が膜を張った様に聞こえず、真っ直ぐ歩けなかった。廊下の壁を伝いながら転げる様に外へ出たものの、ぐるぐると揺れる視界に酔い、土の上に座り込んでしまう。
「亜海鼠……何処だ……」
とにかくこの不安な心を恋人に甘やかしてほしかった。豊満な胸の間に顔を埋めて考えることを放棄したかった。
胆力の無い鯉市には、もはや白い異形を探す気力は残って居なかった。見つけ出せなければ殺されるということを頭では理解出来るが肚が括れない。この疲れと痛みを抱えてでも頑張るということが脆弱な鯉市の心には選択出来ず、どうにかして逃げ道を探すことだけを考えてしまう。
そういう自分に辟易していた。
「ボクはいっつもこうだ」
鯉市はゆっくりと地面に両手をついて、億劫そうに立ち上がる。止まらない鼻血と涙と汗がごちゃ混ぜになって口元へ流れてくるのを拭いながら、蔵へ向かってフラフラと歩を進めた。
「根性なし。のろま。間抜け」
自嘲しながら、それでも、今回だけは頑張るしかない。ここで踏ん張らなければ、自分はこの街の王にはなれないのだ。そう言い聞かせて、鯉市は何とか自分を奮い立たせる。
開け放された誰も居ない蔵の中を呆然と眺めながら、鯉市は今日のことを何度も思い返した。亜海鼠にプロポーズしたことが遠い昔のことの様だ。
亜海鼠は、この邪気寄席で唯一鯉市を馬鹿にしない人間だった。
二年前、初めて出会った日のことを鮮明に覚えている。受付嬢の新入りがえらく可愛いと聞き、こっそりと見に行った。下っ端の男たちが砂糖に群がる蟻みたいに亜海鼠を取り囲んでいた。
ところが亜海鼠は鯉市と目が合うや否や、男たちを押し退けて、嬉しそうに駆け寄ってきたのだ。そして、深々と頭を下げた。
「若頭の鯉市さんですよね? 今日からお世話になります。色々教えてくださいね」
そう言って鯉市だけに微笑むのを、周りの下っ端たちが信じられないという顔で歯噛みした。あの光景全てが、鯉市にとっては宝物だ。一目惚れだった。そこから亜海鼠と恋仲になるまではあっという間だった。何の取り柄も無い自分がとびきりの美人と愛を育む毎日は、夢の様な時間だった。
この邪気寄席で散々馬鹿にされてきた自分にとって、亜海鼠という女は、まさに自分を価値ある男にしてくれる勲章だったのだ。
受付嬢たちは邪気寄席で何が行われているかを知らない。だから鯉市は、人身売買という秘密を亜海鼠に隠していた。魚種として差別を受けてきた同胞として、この非人道的な商売を受け入れて貰えないと思っていたからだ。
「実は私、邪気寄席を辞めて実家へ戻ろうかと思ってるの」
今日の昼、亜海鼠は鯉市の執務室へ来て、深刻そうな顔でこう告げた。
「親が結婚しろってうるさくて、お見合いすることにしたのよ」
突然のことに驚いた鯉市が大きな音を立てて立ち上がるのを、どこか冷めた顔で見つめてきた。鯉市は瞬時に、亜海鼠の気持ちが自分から離れかけていると感じた。
「な、なんで? だって、君には僕がいるだろ?」
「だって鯉市……何度おねだりしても邪気寄席のお仕事のこと話してくれないじゃない。いつか太刀様から鯉市が継ぐ大切なお仕事のこと、私と結婚する気があるなら教えてくれるはずでしょ? いつまでも秘密にしているってことは、私のこと、遊びなんでしょ」
悲しそうな、今にも大粒の涙が溢れそうな表情で、亜海鼠は俯いた。鯉市は、未だ邪気寄席の商売について打ち明ける決心はついていなかったが、どうしても亜海鼠に見放されたくなかったので、つい今夜の社交場用の蔵を見せると言ってしまったのだった。
散々不安に思ってきたことだったが、亜海鼠は蔵の中でプロポーズを受け入れてくれた。これで自分は全てを手に入れた。そう思っていたのに。今となってはどうして今日に限って蔵に入れたのかと後悔しかない。人間を檻に入れることに慣れていた自分には、まさか彼女が奴隷を可哀想だと思い錠を外すなんて思いもよらなかったのだ。
「なんでボクはこんなに間が悪いんだろうな」
空っぽの蔵に声が空しく響く。太刀があそこまで激怒するほど失いたくない異形が今夜たまたま入っていて、今まで一度も結婚をせがむことのなかった亜海鼠がたまたま仕事のことを話さないなら別れると言ってくるなんて、天文学的確率だ。
「あれ、兄さん。どうしたんですか」
声に振り向くと、蔵に台車を戻しに来た下っ端が立っていた。満月の逆光で表情は良く見えないが、恐らく邪魔そうな顔をしているのだろう。
「ひっどい顔して。例の奇形、まだ探してるんですか?」
「いや……今は亜海鼠を探してる」
鯉市はゴシゴシと袖口で目を擦りながら小さな声で答えた。すると下っ端が
「ああ。亜海鼠ちゃんなら、さっき太刀様のお屋敷に入ってくとこ見ましたよ」
と答えながら、台車をさっさと入れて踵を返した。
鯉市は背筋の鱗がすーっと冷えていく感覚を覚えた。理由の知れない胸騒ぎが早い鼓動と一緒に鯉市を襲った。居ても立っても居られなくなり、考えることをやめて蔵の隣の屋敷へ向かう。破れた鼓膜のせいで真っ直ぐ歩けず、地面に手をつきながら、無我夢中で急いだ。
一介の受付嬢が太刀の屋敷に入ることを許される筈がない。
亜海鼠は美人だが魚種の女だ。太刀は、決して魚種の女を抱くことはしない。いつも見せしめの様に獣種か鳥種の女を囲い、自分に傅かせるのが趣味なのだ。
では何故、何の目的で、亜海鼠は太刀の屋敷に入ったのだろうか。あの屋敷には太刀以外は自分と僅かな側近たちしか入ることは許されていない。どんなに金の動く取引でも、太刀は必ず邪気寄席の応接間を使うほど屋敷へ人を入れるのを嫌っている。人を信用できないのだ。一度誰かを入れて間取りを知られれば、いつ寝首を掻かれるかもしれないからだと零していたことがある。
喘ぐように屋敷の前に着くと、用心棒たちが駆け寄ってきた。
「兄貴、大丈夫ですか?」
「ボクは大丈夫だ。それより、亜海鼠が来なかったか? 亜海鼠は何処にいる?」
屈強な用心棒の身体に半ばしがみ付きながら、鯉市は叫んだ。用心棒たちは怪訝な顔を見合せ、
「亜海鼠ならついさっき帰りましたよ。兄貴がなかなか来ないからそっちへ行くって……」
「すれ違いになっちゃいましたか?」
折角シャワーを浴びて綺麗になったのに。と揶揄しながら用心棒たちは可笑しそうに笑った。鯉市はどういうことか理解出来ず、暫く荒く呼吸をすることしかできなかった。
「ボクは、亜海鼠と約束なんかしてない! あいつは、叔父貴の家に何かをしに来たんだ!」
「はあ? どっ、どういうことですか?」
「早く探して来い! 叔父貴は絶対に家に人を上げない。このことが知れたらお前ら殺されるぞ!」
驚いた用心棒たちが、罵声を上げながら亜海鼠の去った方角へ走っていく。大声を出して最後の力を使い果たした鯉市は、小太りの身体を屋敷の大門にもたれかけ、殆ど寝そべるように座り込んだ。もしも亜海鼠に裏切られていたと知るくらいなら、このまま死んでしまいたいと、静かに絶望していた。
見上げた夜空から満月の光が降り注ぐ。まるで舞台照明だ。
鯉市はこの滑稽な自分が、夢見た人生が音を立てて崩れていくのを嘆く、喜劇の主人公の様だと思った。
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