第14話 サライの大使



 四年後の秋、十二歳を迎えた馬綾と青猪は獅子王に呼ばれ、謁見の間を訪れていた。

 この頃の青猪はもう、王宮暮らしから抜け出すことしか考えられなくなっていた。母の様に慕っていた十毛朱を目の前で失い、しかもそれが自分たち王侯貴族に対して不満を募らせた同族による事件だったことが衝撃だった。自分が恨まれている側の人間で居続けることが本当に苦痛だった。

 王宮では父の書類整理や会合に帯同する様な簡単な仕事を手伝い始めていた。朝猪は齢七十を迎え、後継者を育てることに急いでいる様だった。幼い頃に比べ、毎日父に構ってもらえる立場になったというのに、あの事件以来完全に心を閉ざしてしまった青猪には喜びを感じられなかった。継ぐつもりの無い仕事を覚えるだけで毎日が終わる。もう長い間、大好きだった中庭のガゼボにも廊下にある静かなヌックにも、寄り付いていない。

 馬綾は正式に獅子王の跡継ぎに名乗り出て、本格的に帝王学を学んでいた。これまでにも他の兄弟たちが大勢、後継者の座を狙ってきた。しかし皆、不思議といつまでも若々しく衰えない獅子王を前に、諦めざるを得なかったのだという。今では馬綾の下にも何人か王子や王女が産まれていた。我が子を獅子王の一番のお気に入りにしようと躍起になる側室たちからの圧力や嫌がらせを跳ね除けながら、後ろ盾の無い馬綾もまた誰も信用できない立場になりつつあった。

 馬綾にはどんな時でも侍女の亜栗鼠が側仕えて居て、食事の毒見までする様になっている。亜栗鼠の生家は十毛朱が身を挺して馬綾を守ったことで莫大な褒美を与えられ立て直していたが、亜栗鼠は働く必要が無くなってからも王宮から出ようとはしなかった。

 あの事件を起こした『木天蓼』が何者なのか、その後どうなったのかは分からない。ただのテロリストが夜府座を襲い、獅子王陛下の御命を狙ったが失敗したのだと父から簡潔に説明されただけだった。青猪は、革命を起こすのだとバルコニーから叫んでいた男がどうして王宮騎士団の上着を羽織っていたのか知りたかったが、そのことについては誰も教えてくれなかった。

「王太女殿下、ならびに王宮相談役助役・青猪様がお見えです」

「入れ」

 侍女が謁見の間へ声を掛けると、すぐに扉が開けられた。

 深紅のベルベットカーペットの最奥、金と真鍮で拵えた荘厳な玉座に獅子王がゆったりと腰かけている。その脇に大臣の老人たちが何人か並び、末席にはあの事件で新しく任命された王宮騎士団長が背筋を伸ばして控えていた。

 普段の謁見の際に比べ、随分人が少なく、いつも必ず玉座のすぐ後ろに立っている朝猪の姿が無かった。

 馬綾と青猪は入り口近くで膝を着き、獅子王の言葉を待った。

「傍へ寄れ。お前たちに見せたいものがある」

 獅子王はひどく機嫌が良かった。元より子供たちには愛想の良い王だが、この日は特別声が弾んでいた。それに反して側近たちの表情は硬く、固唾を飲んで押し黙っているといった雰囲気だった。

「お父様、如何されましたの?」

 馬綾が先にスッと立ち上がり、玉座へ駆け寄る様にして進む。王宮の者に王太女殿下と呼ばせる様になったのはいつからだったか。後継者問題に興味の無い獅子王は、初めは馬綾の好きにさせているといった感じだったが、馬綾は本気だった。内外共に第一後継者らしく振る舞い続けた。その甲斐あって今では、第十五王女にして、こうして大勢の王の子の中で唯一政治的な集まりに呼ばれる様になったのだ。

 馬綾の後ろから少し距離をとって青猪が玉座に近づくのを確認し、獅子王は

「朝猪、見せろ」と明るく告げた。

 奥の緞帳の陰から、朝猪が大きな鳥かごを抱えて慎重な足取りで出て来た。銀製の、決して粗末では無い鳥かごの中には、眠っている赤ん坊が入っていた。卵色のおくるみにくるまれ、シンとした謁見の間にその寝息だけが微かなさざめきとなって揺蕩った。

「あ……赤ちゃん……? けれど……まるで、色が」

 驚いて声も出ない馬綾の隣で、青猪が小さく声を漏らした。

 遠目からでも分かる。獣種の赤ん坊とは全く違う。

 雪の様に白い髪が産毛程度に生え、閉じられた瞼に並ぶ睫すら白い。耳は尖らず長く垂れていた。

「色がありません。陛下」

 青猪が獅子王に噛み付く様に告げると、王は豪快に声を上げて笑った。

「主の息子はとぼけておるな、朝猪! 面白い」

「は、愚息が失礼を」と低く一言答えて、朝猪は青猪を見もしない。否、顔を背けて決して目を合わせなかった。

 美しい純白の赤ん坊は、朝猪が床に鳥かごを置いても、ぐっすりと眠り続けている。側近たちも食い入る様にその鳥かごを見つめた。誰もが頭の片隅で理解しているのに、恐ろしくて口にすることが出来ない。

「ウサギだ」

 獅子王は、愉快そうにそう言った。馬綾が歪んだ顔を跳ね上げて父を見た。青猪は赤ん坊から目を離せなかった。伝説は本当だったのかという衝撃が、若い二人を蝕んだ。

 再来のウサギがと出たということは、王権が他の誰かに交代するということを意味する。

 それなのに何故、獅子王はこんなにも機嫌良く振る舞っているのか不可解でもあった。

「お……お父様……、ど、どうされますの……次の王は誰になるんですの……?」

 馬綾がようやくそれだけ吐き出すと、赤ん坊が小さく声を上げて伸びをした。思わずビクッと固まった者たちを尻目に、泣きもせず薄っすらと瞼を開ける。深紅の、宝石の様に潤んだ瞳が、ぼんやりと虚空を見つめていた。

「まだ眼も見えておらん。幾日か前に東の森の近くで兵に拾われたのだ」

「ど、どうされるおつもりですか……」馬綾は過呼吸になりかけていた。

「飼うのだ。この獅子王の手の届く場所に置いておく」

 獅子王は青猪と朝猪を玉座の前に呼び、並ばせた。茫然としながらも青猪は父に倣って片膝を着き頭を垂れた。

「王宮相談役・朝猪、その息子、青猪よ。主らに『サライの大使』を任命する。王宮より離れた場に特別な結界を施した屋敷を用意してある。そこでウサギを生かし、沙汰のあるまで待て」

「御意」

 朝猪は低く返事をし、そのまま王が下がるまで顔を上げずに居た。青猪は、泣きながら獅子王の後をついていく馬綾を目だけで追った。王が下がった後、側近たちは言葉少なに退室していった。謁見の間には、空の玉座と、鳥かごの中で小さく息をする赤ん坊だけが残された。

「父上、僕は……」

 やっとのことでそれだけ絞り出した。もう王宮の仕事を辞める気だとか、再来サライのウサギは次の王の元に来るんじゃないのかだとか、サライの大使とはどんな特命なのかだとか、どう続けたかったのか覚えていない。

 朝猪は一言、

「明日未明に出立する。荷物を纏めろ」

とだけ告げた。

 その日の夜、馬綾と亜栗鼠に上っ面だけの挨拶をして、青猪は混乱したまま王宮を後にした。

 晩秋の冷たい空っ風が吹き付け、夜明けの街は物悲しい寒さだった。正装を着込み、杖をついた朝猪と共に、青猪は鳥かごの中の赤ん坊を抱え、街の外れまで馬車で向かった。

 呪術やまじないが忌み嫌われている西街において、特別な結界という手法が使われていることに純粋な驚きがあった。しかし、御者を帰した後、朝猪が生活区にある住宅の塀と塀の全く隙間の無い境目に身体を捩る様にして滑り込むのを見たとき、結界というものが確かに存在しているのを目の当りにした。青猪も真似をして滑り込み、気が付くと空に浮かぶ不思議な住居に入っていた。

「今日からここで暮らす。国家機密保持のため、乳母も侍女も取らない。お前の仕事だ」

 朝猪はそう告げて、王宮からの支給であろう高級調度品の並ぶ部屋部屋を見て回った。青猪は、別れ際に亜栗鼠から渡された家事手伝いのメモを開いた。亜栗鼠は、恐らく馬綾からこのことを聞いたのだろう。何も言わずに励まし送り出してくれた亜栗鼠の、さっぱりとした笑顔がメモの文字に偲ばれた。

 隠れ家の中でも朝猪は殆どの時間を自室で過ごしていたため、青猪がミルクを与え、おしめを替え、抱っこして眠らせた。絵本を読み聞かせ、書庫の本からたくさんの知識を与え、美しい絵や音楽に触れさせた。

 高齢の朝猪はその後瞬く間に弱っていき、一年後には亡くなった。天涯孤独の身となった青猪は、何故自分が今でも上級貴族として王に仕えているのか、その意味を見いだせないまま、赤ん坊と二人きりで暮らし続けた。

 それでも、母を失い、十毛朱を失い、親しい友人たちと離れて暮らす青猪にとって、ウサギの世話をし、心配をし、成長を見守る暮らしは気持ちを慰めるには十分なものだった。

 再来のウサギ――通称・再兎さとは、やがて笑う様になり、そして喋るようになり、歩くようになり、走って跳ねて青猪に抱き付く様になった。

 青猪は、赤い瞳に映るもの全て、美しい調度品や人形や絵画で満たしてやった。白い綿毛の様な美しい髪の毛を、香油を含ませたブラシで毎日丁寧に梳かしてやった。大切に、壊れ物を扱う様に育てた。

 それは、王の命令だからというよりも、青猪が愛に飢えていたからだ。愛されることにも、愛することにも、飢えていたからだ。

 生前の朝猪から、ウサギは人の二倍の速さで成長すると聞いていた。その通りに、産まれて六年しか経っていない再兎は、現在十二歳の肉体を持って青猪と生きている。

 美しく、愛に溢れた心と身体で、生きている。





 

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