第13話 十年前の、あの日
記憶の中の母はいつも泣いている。
王宮相談役の
庶民の中でも貧しい暮らしをしていた母は、ある日突然貴族の屋敷に住まうことになった。親子ほど違う歳の朝猪は仕事で殆ど戻らず、代わりに六人の妻とその娘たちに惨い仕打ちを受け続けた。
母が亡くなってからは、
獅子王には大勢の王子と姫が居たが、何人目かの正妻が馬綾を産んだのだという。獅子王は朝猪とは違い、世継ぎを誰にするかはまるでこだわっていない様に見えた。王子たちには王よりも歳が上に見える様な者も居て、日がな一日銘々勝手に過ごしていた。姫たちは年頃になると次々と貴族へ嫁いでいった。
多忙な父が青猪に会いに来る時間は徐々に減っていき、代わりに馬綾とその乳母の
十毛朱には歳の離れた妹が居り、一緒に住み込みで働いていた。それが
よく晴れた昼下がり、王宮の中庭にあるガゼボでサンドイッチを食べながら読書をしたり芝生で走り回ったりした。それは、今でも青猪の中で輝く大切な思い出だ。親の愛に飢えていた青猪にとって、四人で過ごした日々は数少ない家族団欒の図そのものだった。
青猪が八歳になった年のことだ。
暑い真夏の陽射しを避け、四人は日陰ができる廊下のヌックで寛いでいた。開け放たれた大窓の外には良く手入れされた木々がサワサワと風で揺れ、王宮の隅にあるせいかいつも静かな場所だった。小さなカフェテーブルで紅茶を淹れながら十毛朱が言った。
「さあ、青猪様。今日こそは社交場デビューしていただきますよ」
その晩は二ヶ月に一度の社交場解禁夜だった。社交場解禁夜に未成年が外を出歩くことは禁じられているが、王侯貴族の子女が親に連れられて顔見せをすることは夜府座では慣習になっている。
社交場の中は治外法権なので未成年がいることは特段珍しいことではなく、例えば馬綾は獅子王の息女として他のたくさんの兄弟姉妹と共にかなり幼い頃に社交場でお披露目が済んでいた。
逆に獅子王の側近を務める上級貴族の子息でありながら青猪が顔を一度も出していないことに、朝猪は難色を示していた。
「十毛朱、僕は、貴族じゃない。社交場には行かない」
「まあ……青猪様、またその様なことを」
青猪は十毛朱の真っ白い木綿のエプロンを引っ張りながら俯いて呟いた。八歳にもなる少年の子供染みた仕草に、亡き母への恋慕を感じた十毛朱は、黙って静かに青猪の頭を撫でてやった。こざっぱりと切り揃えられた艶のある美しい黒髪。形の良い頭。仕立ての良い服。青猪は貴族の生活に首まで浸かっているのに、母親が庶民の出というだけで貴族を否定し続けなければ生きていけないのだった。
「アンタって本当に、甘ったれてる!」
十五歳になった亜栗鼠が、横から呆れた声を上げた。十毛朱と亜栗鼠は下級貴族の出身なので王族の馬綾とも上級貴族の青猪とも随分身分は違ったが、馬綾は友人として尊称無しで接してほしいと頼んでいた。一回り以上違い、乳母である十毛朱はそれを固辞したが、亜栗鼠は年の頃も近く持前の明るい屈託無い性格も手伝って、馬綾とも青猪とも対等に付き合っていた。
「お母上のことは確かにお気の毒だけど、貴族として生きる以上、それ相応の義務も果たさなきゃ仕方ないじゃない」
亜栗鼠の少年の様に短く切った髪の毛は青猪より傷んでいる。彼女たちの家は貴族の端くれではあるが、娘二人が働かなくてはならないほど暮らしは逼迫していた。
西街の王族、上級貴族は本当に贅沢な暮らしをしている。毎日の様に競馬だパーティーだと集まり、庶民が見たことも無い豪勢な食事をとり、着るものも宝飾品も家具や調度品も、高級な素材のものばかり使う。しかしその豊かさは全て民の血税によるものである。貧しさから抜け出せない民は大勢いる。青猪の母は少なくとも貧しい暮らしから上流階級の仲間入りをしたのだ。貴族の暮らしから転落した自分とどちらが不幸かは考えるのも虚しいと亜栗鼠は自嘲した。
「朝猪様が王宮相談役だったお蔭で、青猪は上流貴族の暮らしが出来てるんでしょ」
「好きでここにいるんじゃないよ。母上を殺した貴族たちに愛想を振りまくなんて、できない。父上の跡を継ぐ気だって僕には無いんだ」
青猪は年上の正論にたじろぎながら、更に十毛朱のエプロンにしがみ付く。目尻に涙を薄っすら浮かべているのを見かねて、黙って傍で見ていた馬綾が口を開いた。
「青猪、確かに貴族の中にはいじわるな者もおりますわ。わたくしも幼い頃に母を自害で亡くした身。あなたの気持ちもわかります」
小さな金のクラウンを傾げ、同情的な眼差しで気難しい青猪を慰める。美しい黒々としたあどけない瞳はしかし王族の風格を備えている。
「けれど大丈夫。お父様は、とても正しく御心の優しい御方です。青猪の苦しみを受け止め、偉ぶって民を足蹴にする様な貴族のことはきっと叱ってくださいますわ」
馬綾は青猪とは違い、父親に愛されて育ってきた。獅子王は自分の大勢の子供たち全てを愛をもって接していた。特にこの時一番幼い子供だった馬綾のことは気にかけていて、公務の合間にしょっちゅう顔を見せた。
獅子王は、慌てて傅く十毛朱と亜栗鼠にも気安く接し、頭の下げ方も知らない青猪にも優しかったが、それは青猪を益々寂しい気持ちにさせた。
「馬綾は、王族に産まれて苦しかったことはないの? 低い身分の民たちだけが不作の年に貧しい暮らしをして我慢していたり、お針子だった僕の母上が貴族じゃないっていうだけで虐められたりしてたの、おかしいと思ったことはないの?」
幼かった青猪は、親から愛されている馬綾のことが妬ましくて堪らない時があった。しかし意地の悪い言葉で馬綾を責め立てた青猪を、馬綾は受け入れた。
「わたくしは、次の王になるつもりですわ。王になったら、王族と貴族だけではなく平民も豊かに暮らせる世を作ります」
「馬綾様……その様なお考えをお持ちだったのですね」
淀みなく毅然と話す馬綾を見て、十毛朱は乳母として感動していた。腰に纏わりつく青猪の頭を撫でながらも堂々たる馬綾の姿を抱き締めたい気持ちで一杯だった。
「わたくしは王族に産まれた人間しか成しえぬことを致します。青猪も、お母様のことにこだわるのならば、平民の気持ちに寄り添える上流貴族としてどうか誇り高く生きてくださいまし」
青猪はゆっくりと十毛朱から手を離し、馬綾に向き直った。誇り高く生きることがどういうことなのかは分からなかった。けれど、同じ歳の馬綾が放った「王になって世を変える」というあまりにも壮大な言葉に衝撃を受けた。
自分はどうだろうか。母の様な罪の無い民が謂われなき差別を受けずに済む世を創り出せるだろうか。貴族たちの選民意識を変えることは出来るのだろうか。そのために必要なものは何だ。力だ。この国では金と権力が物を言う。自分には貴族で居続ける理由がある。
「わかったよ馬綾。僕……行く。夜府座で挨拶をする」
自分の幼さに気付き、消え入りそうな声で青猪は呟いた。再び自分の頭を優しく撫でる手のひらを感じ、十毛朱かと思って見上げると、亜栗鼠だった。亜栗鼠は何故だか泣き出しそうな顔をして小さく頷いた。
初めて
「粗相の無い様にな」だった。
侍女たちが青猪にお仕着せの燕尾服を着せ、赤いタイを結ぶ間中ずっと、朝猪は注意事項を浴びせ続けた。無駄口は叩くな、言葉遣いは丁寧に、飲み食いはするな、そして、母親の話はするな。
鏡の前の青猪が上等な櫛で髪の毛を丁寧に整えられる脇から、朝猪は白髪交じりの髭を蓄えた自分の顔もさっと整え、無言で部屋から出た。青猪は慌てて父の後を追って、王宮から夜府座へ繋がる重い扉を開ける。緊張と寂しさで一杯の心を抱えたまま踏み込んだ扉の向こうは、目もくらむ眩しさだった。
シャンデリアの光で溢れる広大なホールに信じられないくらい大勢の人がひしめき合い、賭博やダンスに興じている。オーケストラの音楽とチップの擦れる音と人々の笑い声、囁き声の渦巻きは、いつも静かに王宮の離れや庭で過ごしている青猪を圧倒した。
「青猪。ただ一人の我が息子よ。しっかりと励め」
父はそれだけ言うと振り向きもせず社交場の中央へ歩み出した。青猪はその「ただ一人の息子」という言葉を何度も何度も頭の中で反芻した。孫でも可笑しくないくらい幼い息子を連れ、朝猪は貴族たちに自慢げに自分のことを紹介して回った。青猪は精一杯笑顔を作り、初めて受けた父からのほんの少しの励ましと親子としての初めての関わりを、夢見心地で味わった。
暫くして、朝猪と随分親し気な様子の公爵に出会った。楽しそうに談笑する父と友人を見上げて静かにしていると、公爵は下卑た顔で
「この立派なご子息は、一体どこの何番目の妻の子かね」と、尋ねた。
父は少しも逡巡せずに側室の中で一番若い六番目の貴族の名前を出した。
青猪は心に一滴のインクが落ちるのを感じた。たった一滴だけ。
残りは幸せな時間だった。
「まあ、青猪! 会えましたわね!」
暫く大人たちに混じって過ごしていると、奥から自分を呼ぶ声が聞こえた。声のする方を振り返ると、そこにはいつも通り美しい服を着た馬綾と、いつもの木綿や麻ではなく上品な絹のドレスを纏った十毛朱と亜栗鼠が手を振り微笑んでいた。
「お父上、少しだけ馬綾様のお傍でお話してきてもよろしいでしょうか」
青猪が朝猪を窺い見ようとした瞬間、ドォンドォンドォン! という爆発音が夜府座に轟いた。凄まじい揺れと衝撃にバランスを崩した青猪は父にしがみ付こうとしたが、その手は鋭く払い除けられる。驚いて見上げると、朝猪は爆発音のした王宮に繋がる扉の方を見て大きく叫んだ。
「陛下はご無事か! 誰か陛下をお守りしろ!」
そしてそのまま一度も青猪を見ることなく、悲鳴を上げて出入り口へ動き出した夜府座の客たちに逆行しながら王宮の方へ進んでいった。一人ぼっちになった青猪は我先にと押し寄せる貴族たちの波に足を取られ、気付いた時には倒れ込みそうな身体を誰かに支えられていた。
「しっかりしなさいよ! この人波に踏まれたら死んでしまうよ!」
青猪の腹に腕を入れて抱えてくれていたのは亜栗鼠だった。すぐ近くに馬綾を抱きかかえる十毛朱も居た。辺りには徐々に熱を帯びた煙が立ち込めだした。四人は一体何が起こったのか理解できないまま、とにかく他の人と同じ方向へ流され、そのまま外へ押し出された。夜風がぬるく、煌々と照る満月が辺りをさめざめと暴いていた。広場は夜府座から出た大勢の貴族たちを取り囲むようにしてライフル銃を構えた男たちに占拠されていたのだ。
夜府座からもう一度ドォン! と大きな爆発音が上がり、再び激しく地面が揺れた。大勢の悲鳴と怒号で辺りは騒然となった。振り向くと夜府座から黒煙が立ち昇り、その奥にある王宮の窓からは火の手が上がっているところもあった。
「聞け!」
拡声器を持った男が一人、どう潜り込んだのか、夜府座入り口のバルコニーから叫んだ。
月に照らされたその姿は、黒い髪と瞳の獣種の一際若い若者だった。尖った耳にオニキスのピアスを嵌め、何故か王宮騎士団の軍用コートを羽織っていた。
「我らは『
『木天蓼』という言葉に思い当たる節があるのか、何人かの貴族がどよめいた。十毛朱も知っていた様子で、馬綾をバルコニーから隠す様にして立った。
「これは革命だ! 私欲を肥やし続けるお前ら貴族を今日ここで叩き潰す!」
吼えるという表現そのものだった。若者は拡声器を置き、バルコニーから下に小さな瓶を放り投げ、サッと窓から夜府座へ入っていった。瓶は地上で割れると炎を上げた。それを避けようとまた人の波が大きく動き、青猪たち子供は何も見えなくなった。
押し寄せる大人たちの背中を押し退けた時にはもう、周りを囲む『木天蓼』軍が同じく瓶を放り投げ続け、辺りは阿鼻叫喚になった。炎が立ち昇り、黒い噴煙が立ち込め、逃げまどう貴族たちの燕尾服やドレスの裾が燃え上がる。
「この無礼者が! 私は伯爵だぞ!」と歯向かった初老の男性がステッキで小突こうとすると、『木天蓼』軍の男はライフル銃を上に向け、何発か威嚇射撃をした後、伯爵の眉間に照準を合わせた。
「獅子王は偽王だ! 王家にいるウサギは悪のウサギだ!」
「闇の者に支配されていることにも気付かないのか!」
『木天蓼』軍の屈強な男たちが口々に叫ぶ。その目は血走っており、伯爵を名乗った男性はたじろいで後退りする。
「何を言うのです!」
炎の爆ぜる音の中に、甲高い少女の声が響いた。青猪と、傍に居た亜栗鼠が焦って辺りを見回したが、声の主――馬綾はずっと離れた場所から『木天蓼』の男にツカツカと歩み寄った。
「お父様は立派な王であらせられますわ! 第十五王女のわたくしが保証いたします!」
金のクラウンを戴いた小さな八歳の少女が、武装した男たちに銃口を向けられて尚、歯を食いしばって微動だにしない。ざわめく人込みを掻き分けて髪を振り乱しながら何処からか十毛朱が飛び出た。
「馬綾様! いけません、お下がりください!」
「いいえ、下がりません! 王家を侮辱することは許しません!」
「馬綾様っ!」
十毛朱の怒りの籠った金切り声が夜空に響き渡った。十毛朱のその様なヒステリックな叫びを、青猪も亜栗鼠も初めて耳にした。炎に照らされ、十毛朱の頬は汗と涙で鈍く光っていた。
「お前は何も知らないんだよ、お姫様。ウサギがどういうものかも知らないんじゃないか」
『木天蓼』の一人が馬綾を嘲った。青猪と馬綾は再来のウサギ伝説を教育係に教わった。勿論、三種族の中で最も優れた種族である獣種がウサギという名の神様から選ばれたということを、習ったのだ。獅子王は神から選ばれた存在。つまりこの王位は神の意志なのだと。
「無礼者!」
馬綾がそう叫んで正面のライフル銃を下げた男に飛びかかった。驚いた男が、勢いよく銃を構える。しかしその脇から一瞬早く、十毛朱が男の銃に覆い被さる様にして倒れた。
銃声は一回。
パン! と弾け飛ぶ様にして十毛朱の絹のドレスが真っ赤に跳ねた。
男は十毛朱の身体を勢いよく跳ね除け、馬綾をもう一度狙ったが、他の『木天蓼』に
「そいつは捕えて人質にとれ」
と、止められた。
転がされた十毛朱の身体は虚空を見つめていた。燃え盛る炎と月光に照らされて赤い血が黒々と流れて見えた。周りに居る大勢の貴族たちは次は自分が撃たれるんじゃないかと委縮し、大人しく生唾を飲むだけだった。泣いて暴れる馬綾を『木天蓼』の男たちが羽交い絞めにしようとした時、ピーーーーーッ! と警笛が響き渡った。
「王宮騎士団である! 王宮内及び夜府座の『木天蓼』軍は制圧した! お前たちの司令塔はもういない! 降伏せよ!」
団長らしき立派な口髭の男が銃剣を構え高らかに宣言した。その場は騒然となり、五十人ほど詰めかけた王宮騎士団が動揺した『木天蓼』の男たちを次々に捕縛した。
騎士団は急いで消火活動を始め、辺りは一気に冷え込んだ。貴族たちは自分たちの焦げた衣装を気にしながら、騎士団に「来るのが遅い」と文句を垂れ、さっさと帰っていった。全て、嵐の様な速さで事が進んでいき、目の前にある情景がオペラのワンシーンの様だった。
騎士団長が茫然と立ち尽くす馬綾の前で片膝をつき、恭しく礼をした。
「そんなことよりも他に、すべきことがあるでしょう……」
震える声は怒りに満ちていた。騎士団長は傍に転がっている十毛朱を確認し、
「恐れながら、既に絶命しております」
と報告した。
そんなことは分かっていた。
騎士団長は十毛朱を他の者たちに運ばせ、泣いて嫌がる馬綾を抱えて王宮へと戻っていった。火炎瓶の破片と硝煙の残る広場に、亜栗鼠と青猪は立ち竦んでいた。手を繋ぎ、十毛朱の流した血で汚れた地面を見つめた。
幸せな時間は、永久に奪われたのだ。
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