第12話 鯨
二週間前のことだ。
「ケッ! なあんで
罵声を浴びて思わずそちらを見ると、酒の滴の付いた空き缶が頭に当たった。愉快そうに高笑いした後、魚種の浮浪者は地べたに座りこんで寝てしまった。
西街で教師をして生計を立てている獣種の
長身と黒髪、隠そうともしない尖った耳が美鹿をこの北街の外れで目立たせている。それでも彼女は背筋を真っ直ぐに正し、颯爽と歩いた。
やがて海沿いの小さなモルタル製の建物に入る。表には「魚種差別撤廃協議会『
『鯨』は、何百年も続く魚種の被差別を撤廃しようとする社会運動団体である。
かつてこの国がまだ統一されて居なかった頃、それぞれの人種は各々平和に暮らしていた。否、統一されてからも初めは差別は無かったという。
ところがある時、獣種に王位が移り、初代
「水は穢れだ」
たったその一言で、海に囲まれ漁業を営む者の多いこの北街と魚に似た特徴のある外見が、穢れとなった。謂われの無い差別が、かつてその首の後ろに並ぶ鱗から最も美しい種族と称されていた魚種の人々を貶めた。
よその街へ行けば避けられ、人を助ければ物盗りと誹られる。音楽の分野で進んでいる西街や工芸や絵画の文化が栄えている南街では学びにくくなり、いつしか魚種の芸術家は生まれなくなった。
北街で獲れた魚を安く買い叩き、不平等な関税をかけ南街の衣類や西街の鉄鋼製品を魚種の人々が容易に買えない高級品にした。
初代獅子王は北街と魚種の人々を差別することで勢いのあった鳥種の反抗心を抑え、王権を永く続けようとしたとされている。
約八十年前、『鯨』が設立された頃、魚種は生きるか死ぬかの差別に苦しみ、北街の人間全てが差別撤廃運動に参加していた。その大きなうねりと熱量の高さ、決死の社会運動が関税を平等にし、三代目獅子王に差別撤廃宣言を発令させた。
差別は形だけ終わりを告げた。
外見を汚らわしいものとされ、貧民が多く芸術と娯楽の少ない文化だけが残った。魚種の人々は今、その被差別種族であることに慣れつつある。このことが何よりも不幸なことなのだ。
『鯨』は今、時代の遺物かの様に細々と運営されている。漁協組合長の
魚種の反差別組織ではあるが『鯨』には美鹿を始めとする獣種の同志たちも何名か在籍していた。魚種の差別は他人事ではない。自分たちが差別主義者だと気付けないほど獣種や鳥種の意識に根付いている。自分たちが誰かを無意識下で侮蔑し傷つけている(それも因果なく)ということに恐ろしい嫌悪が沸き上がるのだ。
もう三十年も昔のことだが、美鹿には一生忘れられない思い出がある。
美鹿の両親は教師だった。当然自分もそうなるものと思って育った。彼らの暮らす小さな集落は西街の外れの山深い場所にあり、清流が流れる山間の開けた場所に大きな学び舎が一つ建っていた。
集落の子供はそう多くなかったが、付近には学校を建てられる場所も教師の数も多くは無かったため、いくつもの周辺の村々や小さな町の子供たちが一斉にその山間の学校へ通っていた。
学校の山一つ越えた向こう側は、北街だったため、美鹿は獣種でありながら魚種の学友とも共に六歳から十五歳までの九年間、机を並べた。西街では都市部に人が集中していたが北街では都市部は治安が悪く、むしろ山間部の方が子育てしやすかったこともあり、生徒の数はどちらかというと魚種の子供の方が多かった。
美鹿の両親はどちらの種族の生徒にも分け隔てなく接したし、家庭でも差別や種族の違いにおける貧困はあってはならないことだと食卓の話題に上ることもあった。美鹿の住んでいた集落に限らず、街境の者たちは昔からその地域特有の個々のコミュニティを作り、穏やかに協力し合って暮らしていて、それは、都市部で種族間の衝突が起こったとしてもどこか他人事と思えるほどだった。
教師の家庭で育ち、農家や林業の多かった集落では少し浮いていた美鹿だったが、様々な場所の子供たちが集まる学校では親友が出来た。
彼女の、着古してはいるけれど上手に着こなした大きめの男の子用の服がやけに格好良く見えて、美鹿は自分が入学の際に街へ行って両親に買い揃えて貰った真っ白なブラウスや流行りのプリーツスカートが野暮ったく思えたものだ。
美鹿は集落では賢い子供で通っていたが、学生生活九年間の内、ついに一度も氷魚の成績を抜くことが出来なかった。内気な自分と比べ氷魚には他人を惹きつける華があった。いつもたくさんの友人に囲まれ、大人びた落ち着きを持つ彼女は同級生の憧れの的だった。
しかし、十五歳になり卒業を迎えた氷魚は安い賃金しか貰えない単純作業の仕事に就いた。重機を導入する金を惜しんだ缶詰工場の末端で、重たい箱を運ぶだけの仕事だ。学校一の秀才ならばもっと良い仕事がある筈だった。
それでも氷魚はその仕事を始める他に選択肢が無かったし、無償で高等教育へ進むことの出来る奨学枠には美鹿が推薦された。美鹿の成績は良い方だったが氷魚には遠く及ばなかった筈だ。美鹿が獣種で高等教育を受けた教員の娘だからその枠を取れたことは明白だった。その推薦枠は、氷魚が高等教育を受け貧しさから抜け出すことの出来る唯一の可能性だったというのに。
自分の推薦が決まった時に美鹿は産まれて初めて大人たちに抗った。教員室へ押しかけて抗議をし、駆け付けた両親にも食ってかかった。それでも決定は覆らなかった。彼女は、自分の生まれを恨んだ。
恵まれた境遇であることを、猛烈に恥じた。
「では、今期分の署名並びに嘆願書を王宮へ提出致します。解散」
一か月に一度行われる『鯨』定例会は、いつもと変わらない内容で締め括られた。やれやれといったざわめきと溜め息を広げながら、会議室は立ち上がるパイプ椅子の音で一杯になる。議決された魚種の被差別撤廃運動の署名と毎度代わり映えしない内容の意見書をまとめたものが半年に一度ほど獅子王の元へ提出される。
読まれているのかも王の手元へ届いているのかも定かではない。もう何百年も差別的な風潮は変わらない。誰もが魚種の差別を恨みながらも何処かで諦めながら『鯨』の活動に参加している。この活動に参加すること自体が抗議と同じ意味を持つのだと信じながら。
美鹿が隣の席でうんと背伸びをしている鱒翁に、苦しくなってきた活動予算の相談をしようとした時である。廊下から騒々しい足音がドタドタと聞こえ、会議室のドアが勢いよく開いた。
「大ニュースです! ついに『
若い獣種の男性会員が乱れた息を整えながら大声で報告した。後ろからやはり若い魚種の女性会員が顔を出し、矢継ぎ早に叫ぶ。
「さっきPから連絡が入ったんです! 『木天蓼』の武闘派信徒が、次の解禁夜に王権奪取のためのテロを起こします!」
会議室が一瞬で静まり返り、誰もが生唾を飲みながら顔を見合わせる。二の句を告いだ者が言責を取らなければならない。長く活動を続けて来た『鯨』ですらその一線を越えるのには勇気が要る。しかし一方で、もうそれしか反差別社会を新しく作り上げる手立てはないのだとも解っている。
「……この好機を逃せば、私たちの悲願が叶うことはないかもしれません」
最初に口を開いたのは、美鹿だった。美鹿は、この宣言をするのは獣種である自分の役目の様な気がしていた。鱒翁にこれを言わせてはいけない様な気がしたのだ。
もしかしたら誰かが命を落とすかもしれない。王宮の誰かを、もしかしたら獅子王自身を殺すかもしれないこの戦争の火蓋を切って落とすのは、差別社会に胡坐をかいてのさばってきた自分たち獣種が負うべき役目だと思った。
震える手をぎゅっと握る美鹿の横から、鱒翁が静かに声をかけた。
「美鹿。今更だが、お前さんにとっては同族殺しになるかもしれない。これは魚種の問題だ。前線に行くのはワシら魚種だけでいい」
美鹿の気持ちを見透かしたかの様に、鱒翁がそっとその拳を下ろさせる。皺皺の、節くれ立った漁師の手。水仕事が穢れだと言われた時代からずっと、魚種は海で働き、その魚を獣種も食してきた。穢れとは何なのか。そんなものはどこにもない。どこにもないものに、もう何百年も苦しめられ続けている人々がいる。
「何を言うのです」
美鹿は鱒翁の目を見た。そして固唾を飲んで見守る会議室の『鯨』の仲間たちを見た。
「暴力はいけません。武力で世の中を思うままに変えようとすることは悪です。それでも我々は悪に染まろうではありませんか。力をもってしか浄化できない世もあります。後世の魚種のため、そして無意識に差別意識に浸かり続ける獣種や鳥種の未来の子供たちを救うためにも、私は戦いたい。どうか私にも戦わせてください。私をあなた方の友人として認めてください」
美鹿の漆黒の瞳には涙が溜まっていた。先ほど部屋に飛び込んできた二十歳になりたての魚種の女の子が歩み寄り、眼鏡の奥の眦をそっとハンカチで拭った。
「
「美鹿さん、あなたは私たちのリーダーです。みんな、あなたを頼りにしています」
緋鰤と呼ばれた女の子は隣に並ぶ鱒翁を見て頷いた。鱒翁は眉を寄せて黙っていたが、やがてゆっくりと美鹿から手を離し、一歩前へ出て宣言した。
「よし。これから『鯨』は王都への粛清計画を組み立てる! 二週間後、解禁夜に獅子王の元へ向かい、抗議と法改正を進言し、受け入れられなかった場合は獅子王を質に取り王宮に籠城する!」
会議室は火を放った様な騒々しさで沸き立った。彼らの三百年に及ぶ鬱屈した怒りと憤りが、今再び、渦巻き立ち昇る炎の柱となって走り出す目標を見つけたのだ。
「『木天蓼』に後れを取るな! 王を新しく挿げ替えてもまた獣種の差別に飲まれるだけだ! 苦しみを知るワシらだけが、この差別と貧困と選民意識に塗れた腐った世の中を塗り替えられるんだ!」
鱒翁は叫びながら漁協の帽子をかなぐり捨てた。浅葱色のくすんだ帽子。彼が誇りにしている仕事の大切な帽子。しかし彼は今この瞬間、一介の漁師である被差別者の自分を捨てた。その顔を怒りの色で赤く染め、年取って鈍く光を失いつつある鱗を逆立て、獣種を、王を、自分たちを差別する誰かを、そして自分を、殺す決意を固めた。
目の前の緋鰤を見詰め、美鹿は頷いた。緋鰤は恐ろしい空気に青ざめながらも、肩を上げ生唾を飲んだ。その横で若い獣種の青年も深く頷いた。この若者たちも闘うのだ。自分も前線で、その身を散らす覚悟でいなくては。否、どこかでそういう場所を待ちわびていたのかもしれない。
言われなき差別を続ける醜く肥えたこの人種であることを疎ましく思い続けてきた。世の中が正常になるには、自分たちは滅びた方がいい。魚種の為に死んでようやく彼らの仲間に、氷魚の友達に、なれる気がしていた。
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