第11話 美食堂
自分の家に帰る、と告げて同級生たちと別れ、慌てて自宅の隣の料亭へ駆け込む。
永く雨風を受けてきた門構えに掛かる
「おじさん! 大変なんです!
と叫んだ。
暫く経つと休業日のしんとした厨房の奥から、リノリウムの廊下を擦る音が近づいてくる。玄関で土下座する様に手を着いた鯏が見上げると、七尺はあろうかという巨体が、飛と同じ浅葱色の角刈り頭が睨みを利かせて立ちはだかっていた。
「鯏、今日は解禁夜だろうが。子供はさっさと家に帰れ」
年季の入った白衣姿で仁王立ちになる
「飛が、邪気寄席の蔵に閉じ込められちゃったんです! みんなで邪気寄席に行ってみたいって話になって、飛は帰るって言ったんですけど、僕のせいで無理矢理……。そしたら、飛だけ閉じ込められちゃって……僕、どうしたらいいか分からなくて……」
「そうか」
必死で説明する鯏を尻目に、鯒家はそれだけ答えた。
「とにかくお前はもう帰れ」
「かえ……っ帰れるわけ、ないじゃないですか。飛はどうするんですか。助けに行くなら僕も一緒に……」
「ふざけるな」
鯒家は少し苛立った声を出しながら、三和土に下り、座り込んでいる鯏の腕を強引に引っ張り上げた。
「それよりお前、さっきお袋さんが心配してうちに来てないかって訊きに来たぞ。解禁夜の日は学校が終わったら真っ直ぐ家に帰る決まりだろうが。心配かけるな」
鯒家はそのまま鯏を玄関の外へ押し出したが、小柄な鯏は、よろけながらも必死で食い下がった。
「飛は、普段あんな憎まれ口叩いてるけど、本当はおじさんのこと誰よりも尊敬してて、だから今日だってワザと寄り道したわけじゃないんです。仕込みがあるから帰るってずっと言ってたんです。サボったんじゃないんです、信じてください!」
「わかったから、早く帰れ」
鯒家の表情は渋いままだった。力任せに門の外まで締め出され、鯏は渋々自分の家の門を開けた。もう一度振り返ると、そこに鯒家の姿はもう無く、元社交場だったとは信じられないくらい質素な鯉幟が力なくしな垂れているだけだった。
調理場に戻った鯒家は、先ほどまで拵えていた常備菜の味滲みを確認し、刃物の手入れに取り掛かった。
板前や見習いを合わせ、十人ほどの小ぢんまりとした規模で営んでいる美食堂には、普段休みは無い。だが社交場を堕ちてからは解禁夜だけは休まざるを得なくなった。誰もいない静まり返った調理場に一人、鯒家は雑念を振り払う様な集中力で何十丁もの包丁を研いでいく。
「他の奴は休んでいいのに、なんで俺だけ解禁夜の日も仕込みがあるんだよ」
今朝、登校前に飛から言われた言葉が頭を過った。
「休みたいと思う様な奴は、もう調理場に入るな」
鯒家は息子の顔を見ずに作業をしながら背中で答えた。いつも仲裁に入ってくれる他の板前たちが今日は居なかったので、その後の言葉はどちらも続かなかった。不器用な男二人、面と向かって深く話す事など、殆ど無い。そもそも社交場だった頃の話も、自分の父の死や邪気寄席の遣り方に割り切れない思いがあること、お椋の話すらしたことは無かった。
飛に母親という存在を捨てさせてしまったことを、どう話せば正しく伝わるのか、鯒家には分からなかった。だから結局何も伝えず、それでも自分勝手に思い込んでいたのだ。
自分の息子ならば、当然自分と同じだけの思いの丈で美食堂再興に邁進していくに違いないと。
鯒家にとって、解禁夜の休みは苦い一日だ。自分が父親と過ごした修業時代、休みは一日も無かった。それが誇りだった。しかし飛はそう思っていない。この一日にどんな悔しさがあるかを感じない。そのことが鯒家の心を驚くほど重くした。自分が口で説明しなかった所為じゃねえかと思う一方で、理不尽な落胆と怒りを消すことが出来なかった。
「よりによって邪気寄席でお遊びとはな」
自嘲の笑みを浮かべながら、鯒家はゆっくりと包丁を研ぐ手を止め、顔を上げた。
「俺はまた、間違えたのか」
誰も居ない厨房の細い天窓から差す陽が、鯒家の眉間の影を濃く染めた。
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