第10話 制空会
いつも母親と落ち合うのはここだった。
「今頃親父、腹立ててんだろうな」
厳しい父親の不機嫌そうな顔が目に浮かんで、憂鬱になる。しかし飛が真っ直ぐ家に帰らず、そのままこんな遠い所まで来たのには考えがあったからだ。
飛の家は北街の老舗料亭、
「母ちゃんには悪いけど、あそこなら安全なはずだ。胡蝶屋は良い人間ばっかりだって、こないだもそう言ってたし。お前を守ってくれるかもしれない」
月の光を受けて浮き上がる銀糸をそっと梳く。こんなことを、誰かにしたことは無い。それどころか同級生の女子ときちんと喋ったことだってなかった。それなのに今、飛は額が付きそうな距離で少女の顔を見つめることが出来る。心は凪いで居た。調理場で大人たちに揉まれ続けてきた飛が、初めて感じた庇護欲だった。自分よりも弱い誰かを助けるんだという使命感の様なものが、飛の心と身体を突き動かしている。
疲労で眠くなってきた身体に鞭打ち、飛は再び少女を背負って足早に街境を越えていった。母親はよく、胡蝶屋の話を聞かせてくれている。甘味屋で会うときも、胡蝶屋はここから一本道で来られるから休み時間に抜けてきたと言ったことがある。距離もそう遠くはない筈だった。
南街に入って暫くすると、林や緑道は無くなり、生活区を歩くしかなくなった。皆社交場に出かけているのか、静まり返って暗闇に包まれてはいるが、いつ人に出くわすか分からないので飛は気が気ではなくなった。
幼い頃、母親と暮らしていたのは、もっと田舎の方だったが、それでも魚種特有のこの外見で差別は嫌と言うほど受けてきた。誰かに会って、またあの頃と同じ目を向けられたらと思うと、飛は昏い気分になった。その時だ。
バリバリバリバリ!
飛の目の前で、突然強烈な光が広がり、耳がおかしくなりそうな爆音が鳴り響いた。
飛は一瞬、夜間警察の車に囲まれたのだと思い、身を縮ませた。しかし、鳴りやまない排気音に違和感を覚え、薄く目を開けると、目の前には一目でやくざ者だと分かるような単車が並び、『
旗の色は鮮やかな朱色。飛を取り囲んでいる人間は二十人ほどで、光に慣れた目を凝らすと、金や水色、桃色、赤、美しい髪の若者たちが、皆一様に群青色の長い上着を羽織っている。何人か女もいて、単車の後部座席から、飛の方に冷たい視線を送ってきた。
「なんだあ? テメエは」
少し静かになった排気音の中、先頭の黄味がかった金髪の男が、どすの利いた声を上げた。
「
なるべく顔を見られない様に俯きながらも、飛はどこか冷静に、父親が調理場で自分を怒鳴りつける時の方が数倍怖いなと思っていた。
「おい、ガキぃ!
後ろの方の、もっと若い男が甲高い声で飛を威嚇した。これだけ大きな音に囲まれているのに、背中の少女の寝息は、相変わらず飛の片耳に温かく触れた。
「通して、ください」
腹に力を込めたつもりだったのに、飛の喉から絞り出された声は、掠れていた。
何か言った様子に気付いた夕鶴が、片手で合図して全員のエンジンを落とさせる。顎をしゃくって促す仕草は、落ち着いていた。話の通じる人間かもしれないと飛は生唾を飲み込んで、震える後ろ手で少女の足を支えなおした。
「女の子が北の社交場に紛れこんでて、字も読めねえみたいだし、取りあえず安全なとこに匿ってやりたくて」
「安全な場所ってえ?」
先ほど怒鳴っていた若い男の後部座席から、ひょっこり顔を覗かせた女が場違いな明るい声を上げた。夕鶴とは違う、人形の様な明るい金髪をくるりと巻いた、化粧の濃い派手な女だった。
「
「きゃはは! なあんで、北の社交場が危なくて、南の社交場は安全なのよ? アンタ舐めてんの? 解禁夜、安全な社交場なんかないわよ。それも
つられて沸き起こった笑い声の中から、他の男が野次を飛ばした。
「おう、ガキよお。
「保守、派」
可笑しそうに笑う取り巻きを制して、夕鶴がまた飛を見た。その眼は静かだが優しさは感じられなかった。
「俺ら『制空会』は、鳥種による鳥種のためだけの組織だ。この南街こそが王家に相応しいし、鳥種こそが王族に相応しいと思ってる。
可笑しそうに笑っていた空気は鳴りを潜め、無数の視線が自分をねめつけ、追いつめていくのを感じる。飛は、からからに乾いた目を意地だけで夕鶴から逸らさずにいた。
「そんくれえにしてやんな。夕鶴」
『制空会』の向こうから、よく通る男の声が響いた。
飛と夕鶴は弾かれた様に視線を違え、暗闇から出てきた男にそのまま注いだ。
「テメエ、なんでこんなとこに」
振り向いた夕鶴の肩は少しビクついた様に見えた。飛は訳のわからないまま、この隙に逃げる算段をつけようと回らない頭を必死に叱咤した。しかし男は間髪入れずに夕鶴の脇を通り、飛の正面に立ちはだかった。
夕鶴とも鶉という女ともまた違う、格段に美しい金糸を一括りに束ね、男は、鶯色の羽織を纏った肩を面倒そうに何度か回した。ぐるりと『制空会』の連中を一瞥すると、ぴたりと飛の顔に視線を合わせ、それきりその眼は動かない。飛は、蛇に睨まれた蛙よろしく息もできないほどの気迫に圧されて身動き出来なかった。
「おい、
面食らった顔を隠そうともせずに夕鶴は、どこか媚びを売るような気安さで男の背中に声をかけ続けた。しかし鷲一郎は振り向きもせず
「ちょっとこいつにヤボ用でな。悪いが俺の面を立ててここは引いてくんねえかい」
とだけ静かに告げ、それきり黙った。暫く夕鶴は何か話しかけていたが、鷲一郎が一向に顔を向けないことに嘆息すると、固唾を飲んで状況を見守っていた『制空会』の取り巻きを引き連れ、派手な排気音を立てながら去っていった。
夕鶴よりももっと強い人間が、一体自分に何の用だと、飛は身構えた。少女の膝の裏と自分の手の間には滴り落ちる程の汗が溜まり、何度かずるずると滑り落ちそうになるのを力を込めて堪える。
「なんも、取って食おうってわけじゃねえ。黙って付いてきな」
暫く黙って飛を凝視していた鷲一郎は、やがてふっと息を吐くとそう呟き、踵を返してすたすたと歩き始めた。品定めする様な強い視線から解放され、飛はようやく大きく息を吸うことが出来た。それからどうするべきなのか分からずに逡巡する。
「おい、
棒立ちのままの飛に頓着せず、鷲一郎は民家の間の路地の奥へ声を掛けた。恐らく誰にも気付かれずに居たであろう鴒次がのっそりと顔を出すと、その二の腕をバシッと叩く。ひょろりとした茶髪の男はどこか上の空の表情のまま「すみません」と、小さく返事をした。後はもう無言で鷲一郎の後ろに付いてゆっくりと歩きだし、二、三歩進んだ後、ふと飛を振り向き「おいで」と手招きした。
「君が何処のどなたかは存じませんが、南の社交場、胡蝶屋の若旦那が直々にお迎えに上がったんです。せめてお茶の一杯でも呼ばれた方が身のためですよ」
「えっ」
飛の驚きの声は、乾いて張り付いた喉の中に沈み、誰に聞き取られることなく済んだ。母に連絡した訳でもない。いったい何故、と信じられない気持ちのまま、飛は取りあえず鴒次の背中に恐る恐る付いていった。
歩みの速い鷲一郎の姿は、既に見えなくなっていた。
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