第9話 鬼
謁見の間に青猪たちが入った時、
「お父様はどちらへ?」
怪訝な顔で
「殿下が
馬綾は振り返り、無言のまま遠慮がちに
「馬綾?」
再び重く閉められた扉の外で青猪が伺い見た馬綾の顔は深刻そうに歪められていた。
「呼び立てておきながら、この様な非礼を働き、申し訳もありませんわ。王女として詫びます」
傾ぐ金のクラウンを見下ろしながら、青猪は自分の胸に軽く押しつけられた馬綾の両手が震えていることに気が付いた。声は気丈だったが、表情は暗く、王に対しての苛立ちを隠せていない。何を置いてもどんなことがあっても、常に王を崇拝してきたよく知る馬綾の姿とは思えなかった。青猪はきょとんとしている再兎から一度手を離し、馬綾の前に片膝をついた。
「馬綾」
「青猪、お父様はご病気なのですわ。貴方の居なかったこの六年の間に、どんどん悪くなっていきましたの」
優しく見上げられ、堰を切った様に零れ出した声は縋る様な色を帯びていた。青猪は深く頷くと立ち上がり馬綾の両肩を優しく擦った。
「落ち着いて。一体何が起こっているのか、教えてくれるね」
思い詰めた表情のまま、馬綾はそっと姿勢を正し、ゆっくりと長い廊下を歩き出した。再兎は置いていかれない様に慌てて青猪の裾を掴み、それに気付いた青猪がその手を絡め取った。心配することはないと、言い聞かせるように何度か力を込めるその仕草が、
「今回の解禁夜がその再兎の招集日に決まった理由は、わたくしも知りませんわ。けれど今夜お父様が青猪に秘密を明かすつもりだということは確かです。今朝お父様から直々に聞きましたの」
「その、再兎?」
青猪が眉を顰めて聞き返したが、馬綾はそのまま廊下の突き当りに飾られた小さな絵画を壁から外した。壁には鉄製のダイヤルが埋め込まれている。馬綾は躊躇無く数字を合わせ、壁を身体全体でゆっくりと押した。華奢な馬綾の肩が壁の一点に埋まった様に見えた途端ぐるりと大きく回転して人一人分が通れる大きさの穴が現れた。馬綾がさっさと潜って進んだので、青猪は再兎を抱え、後に続いた。
「昔は適度な距離を取っていた様に思いますの。確かに政治に関しては知恵を借りてきましたわ。けれど政務以外の理由で会いに行く回数がどんどん増えて、今ではこの有様でしてよ。政務を放ってあそこに入り浸って、莫大な血税で養っている何十人もの側室たちの所へは近寄りもせず。戴冠以来独裁政治を執り続けていたお父様が、今では実務をわたくしに任せることすらありますわ」
馬綾は一度も振り向かなかった。青猪は話が全く見えず、何度か馬綾に落ち着いてと諭したが、歩みが進むに連れて腕の中の再兎が「あおいちゃん、怖い」と震え出したのでそれどころでは無くなっていった。
「再兎、大丈夫だよ。僕がついているでしょう」
頭を撫でながら抱き締めてやっても、再兎は赤ん坊の時の様に理由も無く愚図った。青猪の胸を掴む小さな手には渾身の力が籠められ、黒いレンズの奥の赤が透ける瞳には、薄っすらと涙が浮かんでいる。
ベルベットも金糸の絨毯も敷いていない無機質な石の廊下の果てに着き、馬綾は目の前の簡素な鉄製の扉を見詰めた。小さく息を吸い、蹄鉄型のドアノッカーを掴んで二度鳴らす。
「青猪、長い人生の中の、たった六年の出来事ですわ」
扉を向いたままで馬綾が静かに呟いた。
馬綾の言う六年が、青猪と再兎の過ごした六年間を指していることはすぐに分かった。直接的な言い回しを避け、じわじわと外堀を埋められていくのは青猪の忌み嫌うやり方だ。形骸的な、様式美を求める貴族社会独特の言葉遊びを、しかしわざわざ彼女が自分相手にするとは思えない。青猪には、ここまで来てまだ言い淀む馬綾の心理が理解出来なかった。
「きっとすぐに、忘れられますわ」
「さっきから一体何が言いたいんだい。遠回しに再兎を苛めるなんて、君らしくないね」
強い口調で青猪が言い捨てるのと侍女が扉を開けたのは同時だった。馬綾は今にも泣き出しそうな顔でやっと振り向き、
「わたくしはただ、貴方が心配なんですの」と呟いた。
しかしその声は次の瞬間身を正した青猪の心に届くことはなかった。
「
金のクラウンの向こうから、青猪の身体を射抜く声がした。
六年間一度も耳から離れることの無かった、自分にとって否、西街の貴族全てに絶対的崇拝を誓わせる恐ろしい声。
扉の奥には玉座ではなく大きな天蓋付のベッドと、そこに身を起こした
髪は雪の様に白く、瞳は炎の様に赤く、整った顔の両脇に垂れ下がる長い耳。
「誰ですか」
女を目にした途端、青猪は絶対君主への挨拶も忘れ、殆ど悲鳴の様な叫び声を上げた。
「その女は、一体誰なのですか!」
ぐっと唇を閉じる馬綾とは対照的に獅子王は愉快そうに口角を上げた。若くも老いても見える傍らの女は、ただ青猪の腕の中で震える再兎を食い入るように見詰め、そして静かに、鈴の様な声で答えた。
「妾は鬼じゃ」
女が腕を挙げて長い後ろ髪を掻き寄せる。一点の曇りもない腋が惜しみなく晒され、滑り落ちたシーツが形の良い乳房を隠すのをやめたが、そのことに慣れきっているのか馬綾は悔しそうな顔のままじっと黙っていた。
「鬼……?」
先ほどまで青猪の腕の中にいた再兎は、震える身体を落ち着かせ、こっそりと青猪を見上げた。真っ青な顔をしてぽかんと呟いた彼は、驚きのあまり脱力して再兎の身体を滑り落としていた。
「この国の者は皆、ウサギと呼ぶのう」
そう、ウサギだ。
青猪は意識せず頷いていた。
その容貌は、紛う事無き再来のウサギのものだった。
女は裸のままゆっくりとベッドを降りた。そのまま茫然と立ち尽くす青猪の正面に近づき、視線を落とす。青猪がハッと気付いた時には、既に屈んで再兎の頬を撫でていた。
「触るな!」
自分の喉から聞いたことの無い怒号が捻り出された。青猪は混乱して震える手で必死に再兎を掻き抱き、部屋の隅まで後退った。抱えられ、再兎の小さな心は不安ではなく、青猪の頭を撫でたい気持ちで一杯だった。
今は、ほんの少しだけ嬉しい。
青猪の髪にそっと触れ、再兎は強い恐怖を感じる目の前の女から目を背けた。
「なにを忌む」
女は尚も青猪と再兎に向かって歩を進めた。白い肢体が妖艶に動く。青猪がちらっと馬綾に視線を投げると、怯えた様に王女は俯いた。自分たちの方に加勢してもらう望みが無いと分かると、青猪は純粋な恐怖に包まれていった。
「来るな……! この子は、僕の大事な……っ」
「ほう。大事とな」
小馬鹿にした顔で鼻を鳴らし、女は立ち止まった。二の句を待っている様だった。
「大事な、娘だ」
言いあぐねた結果口を突いて出たのは、今まで一度も思ったことの無い言葉だった。娘。自分は父親。そんな風に考えたことは無い。何故なら再兎は王から任命され、亡き父の後を継いで育てることとなっただけの、異形の落とし胤だ。しかし、口に出してみるとその表現はしっくりと馴染んだ。
「六年間、僕が育てた。大事に、大事に、硝子細工の人形みたいに育ててきた」
「大儀。それがサライの大使の役目ぞ」
女がゆっくりと振り向く。いつの間にか服を着込んだ獅子王が、少し大きな声で会話に割り入った。それに興を殺がれたのか、女は「湯を浴んでくる」と獅子王に告げ、別の部屋へ行ってしまった。女の姿が消えた途端、青猪の身体からは力が抜け、今にも座り込んでしまいそうになった。
「主には未だ打ち明けていなかったな。この西街が、三百有余年の長い歳月、王都であり続けている理由を」
そう言うと獅子王は長いローブを翻し、立ち上がった。そして「来い」とだけ低く告げると部屋の扉を勢いよく開けて大股で青猪たちの来た長い隠し通路を進んでいく。暫く茫然としていた青猪は、やがて機械仕掛けのからくり人形の様に、促されるまま、玉座のある謁見の間へ戻った。再兎は青猪の汗ばんで微かに震える手を優しく握り続けた。馬綾は一番後ろから少し遅れてのそのそとついてきた。青猪の縋るような咎めるようなあの視線から逃れた自分を恥じていた。
「この世界がいつ君主制になったのか、その記録は残っていない」
玉座に深々と腰かけ、獅子王がゆったりとした口調で話し始めた。青猪と馬綾はその正面に静かに片膝を着いた。再兎はそれを見て、馬綾とは反対側の青猪の隣に尻を付けてぺたりと座った。
「かつて王の乱立するこの世界は争いに疲弊し荒廃していた。そこにウサギが現れて真の王を立てた。これが唯一この世に残された記録。再来のウサギ伝説だ。ウサギが何者なのかは明かされていない。人物名なのか、神の使いの名なのか、何かの比喩なのか。民は知る由もなく、やがてこの伝承も何の根拠も無い荒唐無稽な作り話とされ、今は一部の高等教育を受ける富裕層にしか語り継がれてはいない。今日の暮らしに必死の者たちに千とも万とも分からぬ昔の世の王をどう決めたのかなど、腹の足しにもならないからだ」
自らの話を聞き、獅子王は妙に納得していた。そう。これは、下々の民には到底理解できぬ話なのだと。王たる自分とその周りの忠実な者たちだけが把握しておけば良いこと。長い王権に噛み付く恩知らずな民たちは、一個人の生活とその一生というような小さな尺度でしか物を見られていないのだ。まるで幼子の駄々同然である。
目の前で傅き震えるこの若い青年は、多少軟弱そうではあるがその分従順そうに見える。優秀な追従者であった父親の面影が少し浮かぶその姿に頷き、獅子王は腹を決めた。
「朝猪の息子、青猪よ。若い身空ながらよくぞ亡き父の遺志を継ぎ今日まで立派にサライの大使を務め上げた。これから聞かせる話は王族とごく少数の従者しか知り得ぬ事。よって主には今後、余の尚書にでも就かせよう。父同様の働きをせよ」
弾かれる様に顔を上げた青猪の顔は青ざめていた。獅子王はそのことに気が付かないまま、どこにも記録されていない、この王家の秘密を語り始めた。
三百八年前、獣種の暮らすこの西街の長が世界の王に推戴された。ウサギが長の元へ来て、魚種の王がもう間もなく命尽きるので次は獣種に王権を打診したという。
今ではウサギが王を滅ぼす使者と誤解されているがそうではない。王を選んだウサギは王の命尽きるまでその側に仕え、王と共に死ぬ。そして新たなウサギが新たな王の元へやってくるのだ。
その頃にはもう夜府座は存在していた。余は、その三代目である。カジノ、オペラ、サロン、舞踏会、競馬、晩餐会。あらゆる遊興を取り仕切る西街上流階級の社交場・夜府座の創業者であった我が祖父初代獅子王は、莫大な富とあらゆる方面に顔の効く特権階級であったと聞く。但し、長ではなかった。
西街は代々その霊視の力を受け継ぐ占術師によって束ねられていたのだ。民の行く末を先導し、神の様に崇め奉られる存在だった。
祖父は、占術師の元にウサギが来たという話を聞き、怒りに震えた。どの街よりも西街が豊かだったのは自分が街の経済を支えているからで、真に王に相応しいのは自分であると思ったからだ。この西街を、そして世界をもっともっと豊かに出来るのは自分だという強い自負があった。
占術師の屋敷へ使者を送り、毒殺を目論んだが、人非ざる力を持つ一族には勝てなかったという。祖父は焦った。そして何も出来ぬまま時が経ち、間もなく魚種の王が息を引き取るという噂が民たちの間にも広まった。夜府座に縁の深い者たちは次の王は貴方だろうと獅子王へすり寄った。だがウサギは占術師の元に居る。金も人脈も何の役にも立たない。
ウサギに選ばれなければ王にはなれないなんて、そんなのは可笑しい。祖父は思った。一番力を持つ者が世界を治めるべきだ。貧しい世界で慎ましやかに暮らすより、強く賢い権力者が王になった方がこの世界は豊かになる。何故それが分からぬ。ウサギとは一体何者なのだ。何故ウサギの言いなりにならねばならないのだ。
祖父は憤怒と厭悪の情で気が狂い、媚びを売りすり寄ってくる周囲の者たちを次から次へと切りつけた。夜府座のホールが悲鳴と血に塗れた。
そしてそこに現れたのだ。
髪は雪の様に白く、瞳は炎の様に赤く、整った顔の両脇に垂れ下がる長い耳を持つ美しい女。その手と口も鮮血で染まり、ぬらぬらと照っていたという。
女は血で赤く染まったフロアをゆっくりと進み、髪を振り乱し吼える獅子王の前で言った。
「妾がそちを王にしてやる」
祖父の身体には力が漲り、一瞬にして十歳ほど若返ったという。その瞬間、祖父は王になったのだ。女はウサギであった。但し、悪のウサギであった。占術師の元に居るはずのウサギを食い殺し、祖父の邪気に惹かれ、この夜府座へやって来たのだ。祖父は女の足元に傅き、その身の朽ちるまで百年間、王を務めた。
祖父は自らの代で「社交場解禁夜」制度を作り、街一番の店だけが売り上げを総取りできる仕組みを作った。こうすることで街一つ一つが一極集中型の社会になり、金の流れが大きく明確になった。また、社交場になるには王の許可が必要な為、権力者が王に楯突くことが出来なくなった。更に、ウサギの助言で種族間にも格差を作った。不平等な世の中は様々な物が動きをつけ大きな利を生む。祖父はこの世界の仕組みの基礎を作り上げたのだ。
「陛下……、ウサギを喰うとは……、どういう意味ですか……」
昔話を語り終わった獅子王に、青猪がそれだけを訊いた。震える声だったが、王を見つめるその目は先ほどとは違った。怒りに燃え、体制を否定する反逆者の眼差しだった。
「文字通り、喰うのだ。ウサギの血肉は、新たな王に百年の力を与えるもの。あの 悪のウサギは祖父が死ぬときも父が死ぬときも、兵をもって世のどこかに居る新たなウサギを捕獲し、喰った。それ故この獅子王の名は三百八年続いておるのだ」
「では、さきほどのウサギは初代獅子王陛下の代からずっと変わらずに……?」
「左様。しかし余はもう百八年、王のままだ。そしてこれから先もずっと、余が王だ」
獅子王は青猪をじっと見据えて、そう宣言した。強い威圧感が場の空気を張り詰めさせ、再兎を震え上がらせた。獅子王は一体いま何歳になるのだろうか。青猪は、あまりの情報量とその闇に混乱したまま右隣の馬綾を見た。馬綾はゆっくりと青猪の方へ首を回した。後ろめたさをありありと湛えた顔をしていた。
「君は……知っていたんだね。馬綾」
自分の居ないこの六年の間に、馬綾はこのあまりにも重く苦しい真実を一人で負ったのだろうか。その時側に亜栗鼠は居てくれたのだろうか。もう一人ぼっちだったのだろうか。
幼馴染のあまりにも悲壮な現実に同情しながら、青猪はどこか他人事の様にも感じていた。
この王都が偽りのものであったこと、その偽りの王に自分も父も、否、自分を取り巻く全ての人間が仕えてきたこと。そして、自分が大切に育ててきた再兎が、あの悪のウサギに、『鬼』に、喰われるために今日ここへ連れてこられたということ。
全てがあまりにも残酷で、唐突で、受け入れ難かった。
「あおいちゃん……」
左手をぎゅうっと掴まれた。振り向くと、再兎が涙を堪えて縋る様な瞳で、青猪を見つめていた。黒く染めた髪と瞳、毛皮で隠した垂れた耳。この子を、僕は救わなくては。
「大丈夫だよ。再兎」
柔らかな子供の手を弱弱しく握り返し、青猪は小さく頷いた。獅子王は戸惑う若い二人をじっと見つめていた。この再来のウサギを喰ってもらえば、自分はまだ王で居られる。そんな穏やかな安らぐ気持ちで二人を見つめていた。
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