第8話 蔵の外で
じっとりと浮いた首筋の汗を拭おうとして、指先が硬い鱗に当たった。この感触にはいつまでたっても慣れない。それでもやっと黴臭い蔵の中から解放され、
晩秋の風が心地よく頬を撫で、鬱蒼と茂る木々の葉を喧しく擦り合せる。それをぼんやりと見上げながら、この森に紛れれば割と遠くまで行けるのではないかと、手縄を外した異形の少女のことを想った。
今宵もまたあの下衆な人身売買ショーが始まるのかと思うと、亜海鼠は気が重かった。それでも主に命じられた任務をこなした充実感の方が心を占めていた。本来の目的は完璧に達成できなかったものの、少なくとも今自分の状況で出来る最善は尽くしたつもりだ。
「二年も、この日を待っていたんだもの。何の当ても無く、こんな、姿で」
醜い、という言葉は飲み込んだ。倫理的にそんなことを言ってはならない。邪気寄席で生活し続けることで魚種全てが醜く悍ましい人種の様に感じてしまうが、しかし街に出ればそうではなく心清らかな魚種の人間が多くいるのだということも知っている。
それから、社交場解禁夜以外の、普段の寄席で受付嬢をしている自分に強請られ、特別な客たちと一部の働き手しか知り得ない
美しい言葉を使うことで美しい生き方になると言っていた姉の顔を月に浮かべて口を引き結ぶ。
亜海鼠を一人残し、鯉市は小走りで邪気寄席の一番上にある
「もしかして、亜海鼠を連れ込んだことかな」
可愛い恋人の存在は鬼より恐ろしい叔父に対してのたった一つの隠し事だ。今まで一度たりとも口答えしたことのない自分が、蔵を見せてしまったなら別れろと言われたらどうするべきだろうかと考えの纏まらないまま漆塗りの戸を叩いた。
「叔父貴、鯉市です。失礼します」
返事を待ってから開けると、今年七十を迎えた太刀が機嫌よく出迎えた。繻子織の長衣に包まれたでっぷりと肉の付いた腹回りには、豪奢な銀糸の帯が張り付く様に巻かれ、黄ばんだ白髪ながら豊かな髪の毛を撫でつけた浅黒い顔には眼光鋭い両目と凶悪な笑みを湛えた口が備わっている。
天地が返っても聖人面とは呼び難い、夜の男の姿だ。自分には無い、男としてのあらゆるものに、鯉市は憧れ、心底から叔父を畏敬している。
「鯉市。今夜の商品に一匹上物が混じっていただろう」
「は、あ、はい」
上物と言われてすぐにあのアルビノのことだと分かった。
仲買人が仕入れたものを検品していて驚いた。雑な手書きリストには記入漏れがあり出所の詳細ははっきりとしないが、今まで見たことも無い奇妙な容姿に一瞬で目を引かれた。それに加え子供で、メスだ。これだけの上物は十年に一度とないと鯉市も感じていた。
考えていた話題とは違い、尚且つ太刀がえらく上機嫌なことに、鯉市はほっと安堵の息を漏らす。
「あれは相当高値で買われるでしょうね」
「いや、あれは絶対に売るな」
揉み手をした鯉市を振り向いた太刀の目は笑っていなかった。ぎょっとして目で問うと
「あれは儂が長年探し求めていた獲物だ。数刻前に下の者があれの特徴を報告してきた時は久々に身震いしたわ」
思い出してまた喜びを感じているのか、太刀は再び顔中に皺を作り舌なめずりでもしそうな顔をした。あれほどの逸品を売らないのは勿体無いが、太刀には珍品を収集する趣味が以前からあった。もう二度と生まれないだろうものや世の中の誰もが想像すら出来なかったような異形のものを売らずに、ここではなく広大な自宅の地下室に飼っているのだ。
「叔父貴、ではあの白いのは、地下のお部屋の方に?」
満足そうに頷いたのを確認して、鯉市は足早に退室した。下の者に商品を運ばせているため、もう舞台袖に上がってしまっているかもしれない。嫌な汗が額に滲む。もし万が一にでも手放す様なことになっていたら、今度こそ本当に半殺しにされるなと、鯉市は朱毛の頭と小太りの体を弾む様に揺らしながら元来た道を引き返す。
蔵の近くまで差し掛かった時、下っ端たちが談笑しながらノロノロと歩く姿が見えた。
「おい、商品はどうした。もうすぐ幕が上がる時間じゃないのか」
鯉市は意識して強い口調で問い詰めた。下っ端たちはめいめいバラバラに会釈をしながら顔を見あわせた。
「商品ならとっくの昔に袖に全部運びました。俺たちは蔵の中の掃除を済ませてきたところです」
息せききった鯉市の丸い姿に面白そうに視線を残しながら集団の一人が答えるのと同時に、鯉市はまた弾かれた様に今度は邪気寄席の舞台袖へ駆け出した。長い廊下の途中で何度か躓く度に、育ちの悪い下っ端たちの無遠慮な笑い声が響いた。
社交場解禁夜以外の昼間の営業では、邪気寄席はただの街の演芸場だ。寄席の他に、演劇や音楽会をやることもある。専門的な設備は大したことは無いが、経営者である太刀の趣味で装飾が豪華絢爛であることから、ここ最近では東街の文人がここで講演会を開いたり南街の前衛芸術家が個展を開いたりしている。その度に身分ある異種も多く訪れ、太刀は魚種が寄席を開く際の何十倍もの値段でチケットを売り捌く。
鯉市はそんな叔父の商魂に関心すると同時に鬼気迫るものを感じていた。いけ好かない異種たちから巻き上げてやろう等という甘い考えではなく、もっと憎悪に溢れた商法だった。
甥でありながら、自分にはそういったカリスマ性も何某かの思想やら主義主張やらも無い。それでも、この巨大な闇組織に通じる大店が、もう先の長くない老いた叔父からいずれは譲られるのだと想像すると、鯉市は胸を掻き毟りたくなるほどの高揚感にじっとして居られなくなる。
何の才能にも恵まれなかった、容姿も頭脳も冴えない自分に、誰もが傅き、頭を下げて媚び諂うのだ。そのことを考えれば、今の生活は何も辛くなかった。例え来る日も来る日も叔父のご機嫌取りをしながら使いっ走りをさせられようが、チンピラの集まりの様な店の下っ端たちに表立って馬鹿にされようが、何も感じない。
やがて自分はこの街の王になるのだ。
真の勝者は自分だ。
鯉市は心臓を押さえながら、やっとのことで開幕の準備にバタついている舞台袖へ到着した。
それでなくても時間がおしていた為、自分の話を立ち止まって聞いてくれる者は無い。鯉市は自分で、檻の一つ一つを念入りにチェックしていくしかなかった。
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