第5話 邪気寄席

                 


 町中に、ゆっくりと、鯉のぼりが揚がっていく。傾き始めた陽光の下、その腹は白々と浮かび上がって、さながら鰯雲の風体だ。

 社交場解禁夜、北街では鯉のぼりを掲げることが古くからの習わしとして残っている。北の社交場邪気寄席ざけよせの表門では、ひどく立派な金糸遣いの絹製鯉のぼりが、温い風を受けきれずにだらしなく垂れ下がっている。

 また鯉のぼりを揚げるのは社交場だけではない。住宅街のどの家々にも、ピンからキリまでの様々なそれが飾られ、それはそのままその家の貧富を象徴していた。

 大きな鯉なら金持ち、おもちゃの様な申し訳程度の鯉なら貧乏。鯉の大きさが高台から海岸線まで、グラデーションを作るように段階的に小さくなっていく。一番下の漁場では殆どの家が古紙に描いた鯉の絵を飾っているだけで、更にその外れのスラムでは元々住宅自体が見当たらない。

 北街の貧富の差は近年一層深刻になっていた。しかしその絶対的な差を、十六年前に覆した人間が居るのである。

 現社交場の大旦那、太刀たち

 彼は、三百年近く北街の社交場を務めてきた鯒家こちや美食堂びしょくどうを、ある年突然出し抜いて、その翌年の解禁夜から社交場を開いた。社交場を開くことが許されるのは、前年に街で一番稼いだ店だと決まっていて、その売り上げの中には社交場を務めた時のものも含んで良いことになっているため、殆ど、社交場が入れ替わることは無い。大体は当主が逝って、一年服した喪の間に、取り返しのつかない売り上げと人気を持っていかれる場合が主で、ただの店屋が売り上げだけで社交場権を勝ち取ることなど、到底有り得ない話なのである。

 店屋が替われば客層も変わってしまう。社交場の地位を強奪したところで、今までの社交場を使っていた客が通わずに解禁夜以外で頻繁に元の店屋を贔屓にしていれば、何の得もしないまま一年でまた元に戻ってしまうのが道理である。

 しかし邪気寄席は、もう十六年、弛まず売り上げを伸ばし、民衆を虜にし、その地位を確実なものにしてきた。

「クソ野郎共! お前ら、汚ねぇ手を遣いやがって!」

 社交場が替わった年、老舗料理屋・美食堂の社交場の歴史を途絶えさせることになった鯒家の若旦那が、呻いた。三十路の祝言を迎えた矢先の霹靂であった。

「お前らの店の恐ろしい悪事は街中の噂になってるぞ! 何年かかっても必ず証拠を掴んで、お上に突き出してやる!」

 社交場の証書を受け取りに役場に来ていた太刀と、証書を返還しに来た鯒家が、示し合わせたかの如く鉢合わせた時のことだ。チンピラ風情の手下をこれ見よがしに引き連れた太刀の、その胸倉を掴み、凄んだ鯒家の目には涙が溜まっていた。浅葱色の短髪の下で、怒りに震えた顔が真っ赤に燃えた。責め立てられた当の太刀は、その親子ほど差のある若者を見上げ、鼻で哂った。

「宿場の飯で一杯やるだけの宴席なんて、そんな時代遅れな社交場に拘るな、若造」

「なんだと……」鯒家は思わずカッとなって目を剥く。

 しかし周囲に回った太刀の取り巻き達が矢継ぎ早に口悪く彼を罵った。

「そうそう! 老いぼれたジジイ共が溜まるだけだぜ。西や南みたいに社交場にはもっと華がなくちゃよ!」

「大体、貧乏臭くて不味いんだよなあ! お前の親父の飯はよお!」

 ドッと、大きな笑い声が役場に響き渡る。鯒家は唇を噛み締めて、俯いた。掴んだ太刀の開襟を破れそうなほど強く握り締める他に、出来ることは何も無かった。

 侮辱されても蔑まれても、一時の感情で拳を振り上げることは出来ない。この裏稼業の臭いを振りまく破落戸たちに自分が殺されれば、美食堂は社交場に復帰するどころか営業停止、運が悪ければ廃業に追い込まれる。若旦那として、そんなことは死んでも出来ない。否、今はもう大旦那として。そう思って耐えた鯒家の口の中に、血の臭いが溢れた。

先祖に義理立てて首を吊った父親の姿が、脳裏に浮かんだ。

 

 下働きの老爺が今夜の為に次々と幟を吊るし上げていく。午下の日射しを受け、鯉は口元に深い陰影を作った。年々肥大した邪気寄席の幟は、もはや客を食い荒らそうとする魔物の様な禍々しさを帯びている。

 儲けをひたすら注ぎ込まれて輝く漆喰塗りの邪気寄席。その裏にはいくつもの大振りな蔵が並び、その一つに二つの影が伸びていた。影の主は、朱色の巻き毛を持った小太りの男と、脱色しすぎて痛んだ様な茶金短髪の、華奢な女で、こそこそと辺りを見回してから足早に中へ入っていった。頑丈な南京錠が三つも付いていたが、それらの鍵は男が所持していた。

 蔵の中にはいくつかの小部屋に続く戸があり、二人はその中の最奥の扉へゆっくりと向かった。そこも施錠されていたが、やはり男が鍵を開け、女はその後ろを付いていくだけである。

 戸を開けると、そこは蝋燭が一つ灯っているだけの、湿った家畜小屋であった。

「皮肉なもんさ」

 沼底色の家畜小屋の薄暗い屋内で、男は女に囁く。両人とも魚種特有の広い口角、襟足からは背骨沿いに一筋、虹色に煌く硬質化した皮膚が覗いている。

「魚種の被差別を恨んで、憎んで、奮起して。出した結果がこれだもんな」

 男はそう自嘲すると、コンコンと家畜小屋の内壁を、示すように小突いた。小屋と言っても蔵の中を間仕切っただけのものだ。その扉は軽く、それなのに不思議にも音から光まで何もかもが遮断されている。まるで別世界に連れてこられた様だと、女は思った。現実感の無い恐ろしさが、それ相応の場数を踏んできたと自負している自分の人生経験を、一蹴した。

 男が何かを口にする度、「家畜」が不安げにざわめく。密閉された空間、晩秋に似つかわしくない蒸す様な熱気が室内に充満していた。

鯉市りいち、こんな大事な秘密を私に見せてしまって、あなた大丈夫なの?」

 女が、蔵の中を見渡して、ひっそりと耳打ちした。衝撃と湿気と焦燥で、滑らかな額には汗が滲む。女の目の前に閉じ込められている「家畜」たちは、腕が四本ある猿や、眼の六つついた鰐。

 そして、大勢の枷をつけられた人間たちだ。

 ある者は耳が尖っていながら目が鳥種の様に鮮やかな青であり、ある者は上背の高さと締まった細さが特徴の獣種の様な体型ながら耳は丸く髪はくすんだ黄色である。

 皆一様に薄汚れ、傷だらけで、人種の別なく同じ檻に閉じ込められている。驚くべきはその中に少なからず魚種の血の混じった様な人間も捉えられているということだった。

 もっとも、汚れと毛色の複雑さから一瞥しただけでは人種をはっきりと限定できない者の方が多い。怯えを孕みながらもどこか濁った瞳で横たわっているその一人一人と目が合わない様に、女は俯き続けた。

「大丈夫なわけないさ。君だから見せたんだよ」

投げ遣りなトーンとは裏腹に、彼の呟きは情熱的だった。

「それよりも亜海鼠あこ、今夜はこいつが高値で売れるだろうね」

 鯉市の手が人間の入っている檻の鍵をささっと開け、中から一人を引きずり出した。

 真っ白な髪の毛に怯えた瞳。どの人種か見当もつかない垂れ下がった長い耳と赤い瞳は奇形の中でも群を抜いていた。外に出されて見世物にされても微かに震えるだけで声一つ上げない。

「まっ、まだ子供じゃないの!」

 驚いて暫く絶句していた亜海鼠が、ハッとしたように小さく悲鳴を上げながらその奴隷の子供の縄を解いてやる。

「ボクは、この仕事をやめる気は無い。これからも、邪気寄席が存在する限りね」

 亜海鼠の行動を静観しながら、鯉市の丸みを帯びた肩も心なしか震えている。

 夜間警察の立ち会う解禁夜、邪気寄席の前座は他愛もない怪談話だ。しかし警察の引く戌の刻からは世界中から集めた残忍な処刑道具と奇形動物、そして外見の特殊さを売りにした愛玩のための、もしくは単純な労働のための人身売買が始まる。

 開いてからずっと、邪気寄席の社交場は監査の目を、かいくぐって成り立ってきた。

「だけど君を手放す気も毛頭無いんだ。君はどうかな、この現実を受け止める覚悟はある?」

「私が受け止める? それってどういう」

 くすんだ茶金の髪の毛が傾げられたのと同時に、ギギ、と、現実に引き戻される様な物音がした。家畜たちの密やかな小声とは違う。重たい金属の音と、人の騒ぐ様な声だ。

「蔵の扉の音だ。誰だ、一体」

 

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