第4話 胡蝶屋


 着飾った女たちの賑やかな笑い声が飛び交う。


 つぶし島田に結った金の髪に大振りの椿が織られた打掛を引きずる女に、鮮やかな萌黄色の丸髷に珊瑚の豪奢な簪を垂らして金紗の羽織りを着た女、皆一様に美しい化粧を施して、その色鮮やかな髪色と着物に負けぬ顔を作り込んでいる。


 彼女らが導かれるように入っていく店の入り口では、そこから続く路を挟んで、並び連なる世話役の男たちが頭を下げている。


 その花道の果てに、宮殿さながらにライトアップされた金箔壁の建物があった。


 南の社交場、胡蝶屋こちょうやの名を持つ接客料亭の一等店である。


 花道の末尾、胡蝶屋の入り口には一際明るい鶯色の紋付き袴を纏った三十路過ぎの色男が立っていた。


 トレードマークの金髪を一括りに下げている、若旦那の鷲一郎しゅういちろうだ。


「いらっしゃいやせ。本日はおめでとうごぜぇやす」年より深みのある声が丁寧にお辞儀を繰り返す。


「こんばんは胡蝶屋さん。今夜も楽しませてよ」


 黒地に金模様の帯を締めた華族の血筋を引く大富豪の孫娘が鷲一郎の肩に触れれば、


「あら、鷲ちゃん。後で私の部屋にお酌しに来て頂戴ね」


 すっきりとした美しさの藤色の羽織を翻し、頬に唇を掠めていく旧家の奥方。


「解禁夜が待ち遠しくて、首が鶴みたいになっちゃった」


 身に付けていた七色真珠の帯留めをさり気なく手渡す大地主の細君も後に続く。 

 

 口々に鷲一郎に微笑みかけていく婦人たちは殆どが既婚者である。しかしその色仕掛けに遠慮が無いのは、まさに今この時、自分たちの夫が裏口から同じように入店しているからだ。


 社交場胡蝶屋には、男郎花おとこえしと呼ばれる男の世話役と女郎花おみなえしという女の世話役が存在しており、今、表口に並んでいる男郎花と同様に裏口では女郎花が出迎えをしている。


 夫婦揃って気に入りの世話役に入れ込んでいるのに、これで南街の夫婦間には殆ど離縁が無いと言うのだから、不思議なものある。


 社交場とはとても特別な場所で、解禁夜とはとても特別な夜なのだ。


 若旦那は、近頃上流階級の奥様方の間で流行っている、着物の背中が大きく開いた様な着崩し方をうっとりと眺めていた。胡の紋の染め込まれた入口の暖簾と、人妻たちのうなじの白粉が、まるで財布と金の様に見えてくる。


「鷲さん、ちょっと」


 鷲一郎のすぐ隣に立ってお辞儀をしていた世話役の一人が、羽織を引っ張る。中肉中背の若旦那とは対照的に、随分と体格の良い大男だ。橙色の短髪が凛々しい。


「あん? なんでい鷹助たかすけ


 鷲一郎は、野太い男の声に興醒めしたような惚けた声を出す。しかし鷹助は眉一つ動かさずに頭を下げた態勢のまま一層声を低くして零した。


「鷲さん、異種が来ます。どこから入れますか」


「異種?」


 相変わらず女性客に人好きのする笑顔を振りまきながらも、その動揺を隠せなかったのは鷲一郎の方だった。


 硬直した様にぎくしゃくとした体を若干鷹助の方に向けかける。しかし客の往来が非常に激しかったため、鷲一郎はそれの対応を明示できないまま取り敢えずは愛想笑いに勤しむ他なかった。


 幸か不幸か、結局その後も延々と「お出迎え」業をこなすことになった。門戸の松明がゆらゆらと大火を掲げている。花道を作って並ぶ世話役たちは皆、その灯りと月光と、列の頭に立っている案内役の行灯の光を瞳の中に貪欲に拾い集めながら客を迎えて居た。


 一時間ほど経った頃、ようやく入店のピークが過ぎた。疎らになった客足の合い間を縫って、若旦那はこそりと言葉を紡ぐ。


「そんで、距離は」


「一里ありません」


「数は」


「一匹。気配が薄くて気付くのが遅れました。恐らく子供でしょう。歩みも遅い」


 若旦那は子供だと聞いて幾らか安心した様だった。ようやく落ち着いた門前の虚空に向い、それでも誰も気付かない様な小さな溜め息を吐く。


「何だってこんな夜にジャリが彷徨いてんのかねえ」


「さあ、それは。社交場解禁夜に異種が混じるなんて奇跡に近い」


 社交場が解禁される二ヶ月に一度の夜は、飲酒や淫行も当然の様に横行する。


 その為、十五歳以下である未成年者は一人歩きの外出が手厳しく取り締まられている。街境は異種同士の生活圏になっていることもあるし中心部に異種が居ても少々悪目立ちするだけだ。


 しかし解禁夜は特別だ。


 この夜の、それも住宅の並ぶ生活区ではなく、金も春も不法に取引されている様な社交場に、異種が迷い込み、あるいは忍び込んだとしたら、民族間の軋轢に呑まれどんな仕打ちを受けるか分からない。


 不要な争いを避ける為に王宮騎士団に所属する夜間警察が巡回しているが、それだって捕まれば実刑が待っている。何故夜間警察の厳しい補導網を掻い潜ることが出来たのか分からずに鷲一郎は唸った。


 すると鷹助の体に隠れて全く見えなかった細身な世話役の青年が裏返った様な声を上げた。


「ねえ鷹助さん、その子供は、獣種ケモノ? それとも魚種サカナっスか?」


「いや分からん。俺の目もそこまでは利かないからな」


 鷹助の肩の辺りからひょっこりと出した頭を上げ「どっちかなぁ」と青年は無邪気に笑う。


 この青年は数えで十六歳。春に世話衆入りしたばかりの新人である。


朱鷺とき坊よ、おめぇさん、そんなん聞いてどうするんでい」


 鷲一郎が、鷹助を挟んだ反対側から真似して顔を覗かせる。朱鷺と呼ばれた、鶏冠のような赤髪の男は、そのまま今度は鷲一郎に視線を向けて言った。


「俺、獣種は見たことあるけど、魚種は無いんスよ。吐き気がするほど不細工な面っての、一度見てみてえんだよな」


「ははぁ。おめぇ、まだ成人したばかりだろ。獣種を見たことがあるだけでも珍しいこった」


 元々偉ぶった所のある鷲一郎は、十以上も下の世話役に向かって更に尊大な笑みを浮かべる。それから子供のように嬉々として大いに誇張した魚種の特徴を話し始めた。朱鷺は「そうなんスか」と面食らったように目を大きく見開いて真剣に話を聞いている。


 鷹助は自分の頭の下で繰り広げられる危機感の無い会話に閉口して、溜め息を一つ吐いた。


「鷲さん、どうしますか」


「分かってらあ。おむくのことだろ。オメエは他の奴等に異種の不法侵入を伝えとけい」


「そんなことしたら事が大きくなります。親元へ来た子供なら許されるかもしれないが、見ず知らずの異種の子供だった場合はどうするんです。まさか警察に……」


「うるせえ! いいから言う通りにしてろ!」


 鷹助の二の句を無視し、鷲一郎は出迎えの列から外れてさっさと胡の字の暖簾を潜った。



***



 店内に入ってすぐ、女郎花の詰め所へ向かう。客室の並ぶ大廊下を忍び足で駆け抜け、最奥の襖をそっと滑らせると二十畳に整然と並べられた鏡台と箪笥が両壁を覆い、その奥では女中三人と一人の世話役が寛いでいた。


 予測していたとは言え、その平然たる態度に少々呆れる。


「おめぇは毎度毎度、堂々と出迎えをサボりやがって」


 女中とお喋りをしていた世話役の女は、ようやく若旦那に気付いて向き直り

「あらぁ、忘れてましたぁ」と、悪びれもせず軽く会釈した。


 腰まで垂らした淡い紅藤色の髪の毛が艶々しい。


 三十路を過ぎてなお端正な顔に歪みは無く、滑らかな頬に痘痕は無い。南街一の大店、胡蝶屋の一番の稼ぎ頭、お椋である。


 その美しさも然ることながら、肝の座った態度と歯に衣着せぬ軽妙な話術が評判で、もう十年、女郎花長に君臨し続けている。


「そっちの姐さん方、ちょっと外してくれるかい」


 女中たちは暫く顔を見合わせた後、黙って頭を下げ退室していく。


「……実は、異種が胡蝶屋へ向かってるんでい」


「はあ、異種ぅ? それは大変」


 お椋は他人事の様な口調で髪を梳いている。


 鷲一郎は溜め息を一つ吐いてのそりと億劫そうに立ち上がると、詰め所の襖を少し開き、廊下に誰も居ないことを確認すると音も立てずに固く閉めた。


「ところで」と、不意に背を向けたままの鷲一郎が呟いた。その場でどっかりと胡座を掻き、襖に向かって項垂れたままだ。


「お椋」


「はぁい? 何ですか」


 若旦那の不穏な様子を特別何とも思っていないのか、女郎花は間の抜けた返事をした。鷲一郎は声を受けても向き直らないままで続ける。


「おめぇさん、確か間の子の倅が一人いただろう。あの、魚種との子でい」言い淀む心情を表わすかのように、指先は畳の上で遊んでいる。


「あぁ、トビのこと」


「ああ、そうそう、そいつだ。そいつぁ、今、北街で、親父と暮らしてるんだろう?」


「そうですよお」


 硬く背を向けた若旦那の緊張を余所に、お椋ははっきりとそう答えた。鷲一郎は反射的に振り向いて、お椋の顔を見た。嘘を吐いている様子は見えない。


 親と暮らしている子供ならば一人で街境を越えたりはしない。今夜の異種は恐らく浮浪児だろう。


 確信していたこととは言え、裏付けが取れたことにホッと一安心しながら、不自然に見えないように話を続ける。


「今年、いくつになるんでい」


「十と三つ。お蔭様で鱗も生え揃いましてねぇ」


「書簡かい」鷲一郎は肩を下ろしながら向き直って、興味なさそうに訊いた。お椋は相変わらずボンヤリとした笑顔のままだ。


「いいえぇ。ついこないだ会いに来たもんですから。その折に聞いたんですよお」


「あん?」思わず、鷲一郎の目が見開かれた。


「会いに来たって、倅が、かい? 一人で南街まで?」


 勢い余って前傾姿勢を取る。


「ふふふ」珍しく、お椋が声を漏らして笑った。張り付いたような笑顔を象る双眸が、一層細められる。


「鷲さんは、あの鯒家こちやの旦那が仕事以外にわざわざ出向くと思います?」


「畜生」


 鷲一郎が勢いよく立ち上がった。お椋は鏡を見たまま


「もしかしてその紛れ込んだ異種、子供なんですかあ」


 と呟いた。鷲一郎はお椋に不要な心配を掛けたくなかったのだが、その目論見が外れて舌打ちした。


「心配すんな。俺が見てくらあ。普段倅とは何処で落ち合うんでい」


「鳶はそんな危険なことをする子じゃないですけどねえ……」


「万が一があんだろ。確認して、違ったらそれでいいじゃねえか」


 お椋の息子で無かったのなら、夜間警察に突き出すつもりだ。縁の無い人間を匿ってやるほど鷲一郎は情の厚い人間ではない。


 王宮に隠し事をすれば胡蝶屋はお取り潰しになる。若旦那としてそれだけは絶対に避けなければならない。


「南と北の街境に団子屋があるでしょう。あの店で」


 お椋の言葉に背中で返事をすると鷲一郎は足を滑らすようにして静かに長い廊下を走り、暖簾を払い除けて飛び出した。



 客入りピークの時間が過ぎたため、出迎えの花道は無くなっている。世話役たちは客室に入り始めている頃だ。代わりに行灯持ちの案内役が、点々と立っている。


 彼ら案内役は一晩中こうして店前に立つ。鷲一郎は大股で案内役の一人へ向かった。


 色白のなよなよしい肌が茶色い髪の毛で一層引き立っている腰細の男だ。案内役の制服である臙脂色の作務衣も、下衣の絞り裾に余りが目立つ。


鴒次れいじ!」


 背後から突然名前を呼ばれて驚いたのか、色白の顔を真っ赤にして、男は「ぎゃっ」と言った。


「びびびびっくりした! なんですか、もう。鷲さんは」


 慌てて振り向く鴒次の声に釣られて、かなり離れた場所に立っている他の案内役たちすら振り返った。


「異種が近づいてる話は聞いてるな」


 鴒次の眉間に引きつった様な皺が刻まれた。


「異種ですか? そんなお話聞いてませんよ」鴒次が小さく零した。 


「あん?」今度は鷲一郎が眉間に皺を寄せる番だった。


 鴒次を見れば、先程とは一変、今度は異種の恐怖に青ざめている。いつの間にか周りを囲んでいた案内役たちも皆、初耳と言った様子でざわめいた。


 上背の低い鷲一郎が、きょろきょろと辺りの顔を見上げる仕草は、さぞかし阿呆に見えただろう。しかし周りは迷子が入り込んだとは知らずに、全く見当違いのテロリストの恐怖に怯え初め、鷲一郎は鷲一郎で、勝手に命令を破られたことに怒っていた。


「鷹助の野郎。また勝手なことしやがったな」


 独り言ちて深呼吸を一度すると、鷲一郎は声高に詳細と対応を指示した。案内役たちは子供が交じっただけだと聞いて人心地をついている。小心者の鴒次も安堵の表情だ。


「ああ、えぇと、鳩兵衛きゅうべえだったか。おめぇさん、鷹助が今どちらさんのお相手をしているか見当つくかい」


 鷲一郎は案内役の新人に声を掛けた。


 案内衆は愛嬌が重視される世話衆とは違い、堅実さと真面目さが第一だとして、勤務理念を新人教育で叩き込まれる。世話役と客を部屋へ案内するのは新人の役目だ。


「鷹助さんは先程、外交官婦人の鶴見様からご指名を受けられました。只今は角部屋の寒椿でお勤め中かと存じます」


 言葉を間違えないようにゆっくりと紡ぐ度、鳥種には珍しい山鳩色の猫っ毛が揺れる。少しだけ強張った手が、緊張のせいか行灯を揺らした。


「そうかい」


 お勤めをしている世話役を接客中に呼び立てる訳にもいかない。


 父親である大旦那の命令で何処に行くにもお供に鷹助を連れていたが、今回ばかりは一人で行くしかなさそうだ。


「じゃあ、ここは頼んだぜぃ。鴒次」


「はい。指示通りに対処します。安心して下さい」


 へらりと笑った優男の顔は、行灯に照らされて、ますます白い。幽霊に化かされたんじゃなきゃ良いが。と、鷲一郎は苦笑して踵を返す。


 ところが背を向けた途端「あっ。忘れてた」と、呼び止められた。


「鷲さん。これを」


 自分より背が高い筈の男の声が、膝の辺りから聞こえる。ぎょっとして足下を見ると、屈んだ鴒次の旋毛が見えた。


 何をしているのかと思えば、自分の雪駄を脱いで鷲一郎の足下に揃えている。


「店までこれを使ってください」


 そう言われて、若旦那は今初めて、自分が足袋のまま走ってきたことに気が付いた。その汚れた白と邪気のない顔で見上げる鴒次をぼんやりと眺めながら、鷲一郎の心には妙案が浮かんでいた。


「いや、やっぱりおめえも一緒に来な」


 護衛の一人も連れて行けば親父も鷹助も文句はないだろう。ここで苛々と報告を待つより、自分で確かめに行けば良いのだ。

 

 生意気に意見しておきながら肝心な時には仕事で身動きの取れない鷹助に、自分との身分の違いを見せつけてやれると思うと、鷲一郎は胸のすく思いがして、俄然やる気が湧いてきたのだった。







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