第3話 木天蓼


「時は満ちました」


 薄暗い聖堂に、一人の女性の凛とした声が響いた。ひしめき傅く聴衆は皆、壇上の彼女を食い入る様に見つめている。


「わたくしたちは長きに渡り、王家に幾度となく苦言を呈して参りました。しかし獅子王ししおうの心には、世の真理を受け止め、神の御心に身を委ねる覚悟は芽生えなかったようです」


 聴衆の視線の熱気に反し、妙齢の尼は厳かに言葉を落とした。


 潔白の頭巾から垣間見える尖った耳と漆黒の髪と目は、この聖堂に詰めかけている眼前の信者たちと同じ人種であることを主張している。


「今宵、三百八年目の秋にして、ついに西街の王家はその幕を閉じることになりましょう。わたくしたちは偽王の邪悪な力を奪うことで世に放たれたウサギたちを護り、神の示された道標に従うのです。世を分かつご神託のあるまで、この身と心を賭して戦いましょう」


 尼が静かにそう宣言した瞬間、一転して聖堂は燃える様な喝采と怒号に包まれた。


 膝を折っていた信者たちは次々と立ち上がり、老いも若きも男も女も、年端もいかぬ子供までもが拳を振り上げて「獣種の恥晒しめ!」と獅子王を罵倒した。


 壇上の尼が何かを言いかけるのを制し、傍らに立っていた若い男が唸るような低声で吼えた。


「今夜俺達は、聖戦を起こす! 神は気付くだろう! 決して獣種が、王家や貴族どもの様な腐った人間たちだけではないということを! そして自らの街の王権を棄ててまで世の真理を全うしようとする我々こそ真の王に相応しいと認めウサギを与えるはずだ!」


 男の目は他と同じく漆黒であったが、その奥に赤く燃える怒りを秘めていた。握られた拳は硬く、首から上は真っ赤に充血している。


「俺達は救われる! この三百余年の偽りの富の影から、今こそ救われるんだ!」


 壇上の演説に鼓舞された信者たちの熱気から逃げる様に、尼は聖堂の外へ暗い表情で出て行った。その背を、男はちらりと目で追った。


 聖堂の中では、暫くの間「東狐とうこ様!」「東狐様!」と、尼の名を崇める声が木霊した。



 古の時代、世界には無数の王が立ち、争いと貧困で満ち溢れていた。


 心を痛めた神は遣いである兎の中に力を注ぎ、世へ落としたが、初めに兎を拾ったのは卑しい混血の男であったという。


 偽王となったこの男は兎の力を悪用し魔物の如き怪力で暴れ回った。


 次に兎を拾った男は美しい純血の男であったという。


 この男は兎と協力し偽王の息の根を止め、真の王として世を統一した。バラバラだった民の土地は三つの街に分かれ、それぞれの種族が調和する、争いの無い世となった。


 偽王に悪用された悪のウサギは報いを受け、偽王と共に死ぬ。


 真の王に選ばれた善のウサギは百年の王位をその者に与え、自らも共に生きるとされる。



 この「再来サライのウサギ」伝説を信仰の根源とする宗教組織が、『木天蓼マタタビ』である。


 彼らは悪政を布く獅子王を再び世に現れた偽王と断じ、世を立て直す真の王と善のウサギを復活させる為、今まさに聖戦を起こそうとしている。


 演説を終えた東狐は、足早に自室に滑り込んだ。袈裟の乱れるのにも構わず、そのまま寝台へ突っ伏して震える息を整える。


「わたくしたちは、間違っている」


「心の中に留めて置いてくれよ。そういう戯言はよ」


 背後で腕組みをしながら、先程演説していた若い男が不愉快そうに唸った。


 いつの間に部屋の扉が開かれたのかにも気付かなかった東狐は、振り向くことも出来ずに頬に張り付いた涙をそっと拭った。


犬遊けんゆう、本当にこんなことをして、獣種の貧民たちの明日が開けるのでしょうか。わたくしにはとても」


狐蓉こよう


 犬遊は苦々しい顔で舌打ちした。


「今夜だぜ。夜が明ける頃には三百年以上変わらなかった世界が、この国が、変わるんだ。今更ゴチャゴチャ考えんなよ。そんな顔でやられたんじゃ士気が下がる」


 東狐は弾かれた様に振り向き「子供もいるのですよ!」と悲痛な声で叫んだ。


「たとえ虐げられ続けている貧民の生活のためとはいえ、わたくしたちが革命だ聖戦だと煽って、それでまだ大人に影響されているだけの、意見の自由すら持たない子供たちの命が喪われたらと思うと、武力行使に価値など無い様に思えませんか」


「そのガキ共に、明日食わせるメシが無えから、戦うんだろうが」 


「貴方は今、自分の中の憎しみの為に動いているだけではありませんか」


 東狐は、長い間仕舞い込んでいた疑念を吐き出した。犬遊は、ハッと嗤って両手を上げた。


「じゃあお前は、憎しみの心を一欠けらも持ち合わせてねえのか? 貴族どもに親を殺されて、食いもんも布団もロクに無え場所にぶち込まれたってのにか。お前はあの憎しみを忘れられたってのかよ?」


 犬遊が可笑しくてたまらないという顔をして頬を歪めた。漆黒の瞳が真っ直ぐに東狐を見据える。


「言わせねえぞ、そんなふざけた事は。信者どもが崇め奉る東狐様が、どんなに痩せたガキだったか、俺は知ってる。植え込みの花食って腹壊して泣いてたのも、糞ジジイ共に好き放題されてたのも覚えてるぜ」


「人間としての誇りを忘れても、身体を穢されても、わたくしには同じだけ愛情を注いでくれる狼志ろうしの存在がありました。彼のおかげで私怨による醜い拘泥を捨てられたのです。わたくしの悲願は、この国を立て直す為の王権奪還のみです」


 先程まで自分たちが戦争を始めようとしている恐怖に打ち震えていた東狐は、人が変わった様な冷徹な顔で真っ直ぐに犬遊を見返した。


「そうかよ」


 吐き捨てる様に返事をすると、犬遊は首を振りながら部屋を後にしようと背を向けた。その背に向かい、東狐は畳みかけた。


「十年前の革命の失敗から私たちは何も学べていない。やはり今まで尽力してきた通り、南北への布教と友好関係を結ぶ交渉を続けて、それが結実するまで待つべきではありませんか。無血開城でなければ、いつかまた誰かから恨みの連鎖が始まります。不正に王家を継承し続けることよりも、戦争を起こして多くの血を流すことの方がよほど悪だとは思いませんか、犬遊」


 犬遊は振り向いた。頬には不敵な笑みが張り付いている。尖った耳にぶら下がるオニキスのピアスが、光った。


「おいおい、開戦宣言したのは、お前だぜ。東狐様」


「それは……貴方が別個隊でも決起して刺し違えに行く等と言うからです。元より同じ理想に誓いを立てた者。貴方だけに重荷を負わせることはできません」


 東狐の眉間に再び苦悩が浮かび上がった。言い淀む唇を見詰めながら、犬遊は諦めたように肩をすくめた。


「俺の為かよ、俺のせいかよ。違うな。お前は俺になんか頓着してねえ」


「貴方は狼志の大切な弟です」


「その兄貴は、死んだ」


 そうだろ? と首を傾げる仕草に、東狐は恋人を見ていた。


「獅子王に殺された。俺にとってもお前にとっても、理由はそれで十分な筈だぜ」


 見つめ返す犬遊の瞳には未だ炎の色が燻っている。この赤は、自分の瞳の奥にもあるのかもしれない。返す言葉が見つからずに東狐は黙りこんだ。


「お前は自分の為にしか動かねえよ。せいぜい汚ねえモンは俺に擦り付けて、祭壇で祈れよ。両手を血塗れにした俺が兄貴の仇を討ちますようにってな」


「犬遊!」


 今夜の襲撃の為に準備があるのだろう。組織幹部の犬遊はカーキ色の長い軍用コートを翻し、今度は東狐の声にも振り向かずに去った。


 勢いよく閉められた扉を見詰めながら東狐は立ち竦んでいる。


 自分の復讐心を抑えられないまま、狼志の作った組織を動かして戦争を起こそうとしている、否、起こしてしまった自分に、東狐は激しく後悔していた。


 後悔しながらも、流れに身を任せようとしている自分が居た。


「何故、神は、わたくしなどに呼びかけてくるのでしょうか」


 自室の前の廊下を勢いよく走り去る子供たちの足音に気付き。再び肩をきつく抱いた。

 


***



 西街はもう三百年以上王都のままである。


 獅子王はあらゆる事柄に高い税金をかけ悪法を布いている。


 北街の魚種や南街の鳥種は、獣種の民全てが豊かな暮らしをしていると勘違いしているが、実際は西街の貧富の差は開く一方だ。


 街の民の半分以上が貴族であるから残りの民たちは貧民窟に集まって声も上げられずにいる。


 犬遊は足早に廊下を進みながら東狐への苛立ちを頭の隅へ追いやった。主義主張が食い違うことは今夜に始まったことではない。元々自分と兄で作った革命組織に争いを好まない性格の狐蓉を引き込んだのは、彼女が天啓を受ける様になったからだ。


 宗教組織であることは良い隠れ蓑になるし、何より儲かる。武器や爆薬を買う為の資金源が必要だった。


「犬遊、Pとは連絡ついたのか」


 武闘派の作戦会議用になっている小部屋へ入ると、三十人ほどの男たちが頭を寄せ合って今夜の最終調整をしていた。


 顔を上げた犀太郎せいたろうが前日まで連絡の付かなかった潜入捜査員のPのことを強い口調で責める。


 Pは『木天蓼』結成当初からの同志だがその役職柄本部へは殆ど顔を見せない為、『木天蓼』内でも疑心を持っている者は多い。


 存在自体を疑われ、何かの隠語なのではと邪推する人間すら居る。


「Pが獅子王を夜府座に引っ張り出せなけりゃ、今夜の作戦は全部おじゃんだ。俺たちは全員殺されて『木天蓼』自体が壊滅する」


「分かってる。問題ない」


 犬遊は軽く手を振って頷いた。Pとは個別に連絡が取れている。 


 王宮と夜府座の拡大地図を机に広げ、頭を寄せ合っている男たちの間に割り込む。


「Pから連絡があり、予定通り正面突破でいくことで決まった。社交場が開始して三時間経つと客の出入りが落ち着くため、一度受付が閉められる。それに伴って王宮騎士団の警備が解かれ、騎士団は門番以外は近辺の警邏へと出動する。このタイミングで突入する。残っている騎士団を抑える班はお前に任せる、犀太郎」


 犬遊が相棒に顔を向ける。犀太郎とその周りの班員は頷き、目配せし合った。


「分かってる。その隙に犬遊たちの班が受付を抑え込んで夜府座へ入り、我々が夜府座を鎮圧している間に夜府座の外を一般信徒に囲ませ壁を作る。予定通り上手くいけば警邏から戻ってきた騎士団を多少は足止め出来るだろうな」


「Pは本当に夜府座に獅子王を連れ出せるんでしょうか」


 若い構成員の一人が口を挟む。思わず口から出たという様な反抗的な言い方だった。犬遊と犀太郎が同時に顔を向けると、慌てて俯く。


「何だ。言え」


 犀太郎が苛ついた様子で促すのを手で制し、犬遊は机の向かい側に回って若者の肩をポンポン、と叩いた。


「この世の為に命を賭けるんだ。疑う気持ちがあっては共に闘えないよな。何でも言え。俺たちは同志だろう」


 犬遊はそのまま背を撫でてやった。若者は現実味の無い死への恐怖と革命の興奮で震えていた。


「じゅ、十年前の革命決行の際、Pは既にこの『木天蓼』に居たと聞いています。その頃既に王宮へ潜伏済みだったとも……。しかし革命は未遂に終わり、多くの同志が犠牲になりました。リーダーを失った『木天蓼』は立て直すのに十年かかった。またPを頼りに突入することに、犬遊さんは不安は無いんですか。もしかしたら長い潜伏の間に王宮の贅沢な暮らしに首まで浸かり、心中では我々を裏切っているかもしれない。革命が失敗する様に仕向けているのかもしれない」


 堰を切った様に不安を吐露する若者の声が小さな会議室に不穏な空気を満たしていった。


 この部屋の武闘派の中に十年前のテロを生き延びた者は半分ほどだ。残りはこの十年で新しく加わった構成員の中の過激な思想の持ち主たちを掻き集めて作った。温度差は拭えない。


 Pは本作戦とは別で動いているのだが、この若者の言う通りPが寝返っている可能性もまた無いとは言えない。


 犬遊もPを心底信頼しているという訳では無かった。Pに腹の内を晒したことは無いし、相手もまた同じだろう。


 しかしPが夜府座に獅子王を連れ出せなければ自決覚悟で王宮へ突入するつもりの犬遊にとっては些事であった。


 周囲を大勢の非武闘派信徒に囲ませる作戦は獅子王逃亡を阻止する為の壁でもある。東狐には黙っているが、出立の際は全員に自決用爆弾を持たせるつもりだ。目の前の若者の何処か縋り付く様な目を見つめる。こんな所で命乞いをさせる気は無い。


「Pは俺やお前と同じ怒りを持つ革命戦士だ。信用していい。誰よりも憎い筈の王家に長く仕え、今日のこの革命だけをよすがに、よく耐えてくれている」


 宥める様に目の前の若者に語り掛ける様子を、部屋中の男たちが固唾を飲んで見守っている。


「いいか、十年前の革命は全てが足りて居なかったんだ。今とは違って準備も、資金も、人間の数も足りて居なかった。何より兄貴は、Pの所為で死んだ訳じゃない」


 若者の瞳の奥に希望がチラリと灯るのを見つめながら犬遊は続けた。


「兄貴は、獅子王の所為で死んだんだ」


 そうだ、と誰かが言った。そしてまた他の者がその通りだ、と叫んだ。小さな会議室の中にあっという間に怒りと興奮が満ちていく。


「今、この『木天蓼』には何がある!」


 犬遊は後ろを振り向き、他の者たちに呼びかけた。


「準備がある!」


 呼応する様に犀太郎が叫んで拳を振り上げる。続いて同志たちが叫んだ。


「金があるぞ!」


「そして大勢の同志が居る!」


 己を鼓舞する叫びで男たちは死への恐怖と猜疑心を抑え込む。犬遊には人を扇動する才能があった。


 彼が演説すればこの獅子王への憎しみに満ちた荒くれ者たちも、聖堂で祈りを捧げるだけの貧弱な信徒たちも、祭の狂乱のさながらに声を上げ、昂って命を差し出す。


 宗教組織へと変貌した『木天蓼』の資金は前回のテロよりも確かに潤沢であった。


「今は大瑠璃おおるりの金もあるしな」


 熱狂の中、犀太郎にスポンサーの名を呟かれ、小さく頷く。


「俺たちだけじゃない、三街全部が獅子王にもうウンザリしてるんだろ」


 闘志を燃やす男たちを余所に、犬遊の昏い瞳は何処か遠い所を見つめていた。


「今夜、獅子王を殺す。それが世界中の人間の望みだ」


 古びた王宮支給品の軍用コートを羽織り、犬遊はそう呟いて、じっと虚空を見つめた。

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