第2話 隠された家
幾千年の時は流れ、現下の世。
とある春の一日、獣種の青年、
西、南、北の三街を統べる王都西街の上級貴族である彼は、普段から外出着にしているオートクチュールのスーツでこの場所へ来てしまったことを後悔していた。暑いくらいの強い陽射しを浴びる真っ黒な背中に、労働階級の視線が集まる。せめて顎を上げ涼しい顔をしてみせるものの、持ち慣れない重たい買い物袋が向こう脛に当たってその歩みは遅い。
「おーい、坊や! 忘れもんだよ!」
振り向くと、先ほど買い物をした店の店主が手を振りながら追いかけて来るのが見えた。青猪より頭一つ背の低い鳥種の店主だ。黒髪しか産まれない獣種とは違い、黄緑の鮮やかな髪が頭部で揺れている。
「坊やは止して下さい」
青猪は眉を顰めて反論した。
「僕はもう、成人しています」
息を整えながら店主はフン、と鼻で笑う。小さなことに拘る自分の子供っぽさを揶揄われている様に感じて、青猪は俯いた。
「分かった分かった。ほら、ペンキを一つ入れ忘れてたぜ。貴族の旦那」
店主は青猪の買い物袋にペンキ缶を捻じ込む。革製の美しい買い物袋がギュミ、と悲鳴上げた。
「しかしまあ、アンタみたいな高貴な人が、何だってこんなもんを買うんだい。西街はもう何百年も
店主は笑顔の奥に怪訝さを覗かせて首を傾げた。青猪は会釈だけして踵を返す。嘘を吐くのが得意ではないのでボロを出さないためには黙るに限ると、この六年で学んでいた。
「次来る時は、庶民の格好して来なよ。そんなんで来られちゃ変な噂が立って商売上がったりだからよ」
背中でそう言って店主は去って行った。青猪は尖った耳の先を赤く染め、口を真一文字に結んで帰路を急ぐ。
自分の様な人間が商店でどんなに悪目立ちするかも、そこでどんな民が生活しているのかも承知の上だ。
それでも、今日はどうしてもこのペンキが必要だった。
やがて商店からは随分離れ、家々の並ぶ生活区に入った。青猪は周囲を見回して人気が無いことを確認すると、塀と塀の五センチにも満たない隙間に肩を差し入れる。
目視では分からない空間の歪みが青猪をズブズブと侵入させ、彼は跡形も無く地上から消える。次の瞬間、天空へ浮かぶ我が家の敷居を跨いでいた。
「おかえりなさい! あおいちゃん!」
豪奢な内装の廊下の奥から、少女が息を弾ませ駆け寄った。
白い綿毛の様な髪、垂れて揺れる柔らかな耳、そして赤い宝石の様な瞳。十二歳ほどの外見の少女は青猪と真逆の特徴を持っている。
「遅かったのね! もう、待ちくたびれちゃった!」
口調とは裏腹に至極楽しそうに、少女は青猪に飛びついた。重たいペンキ缶を両手に山ほどぶら下げた青猪は、少女を支えきれず、玄関に尻もちを付いて破顔した。
「ただいま、
「どこから塗る? あおいちゃんは、何色が一番好き?」
再兎は買い物袋のペンキ缶を物色しながら、ラベルを忙しく見比べた。
最近読んだ物語の主人公が自分の部屋の壁を好きな色に塗り替えていた描写をえらく気に入り、自分でもやりたくなったそうだ。
「再兎の好きな色で塗ろう。それが僕の好きな色だから」
青猪は再兎とペンキ缶を一緒に抱え起こした。方便では無く、本心だ。青猪の全ては再兎が健やかでいるかどうかに左右されている。
それが、王から受けた特命でもあり、自分という人間の価値の全てでもある。
「あ、そういえば、あおいちゃんにお手紙が来てたの」
再兎がポケットから封書を取り出した。この空に浮かぶ隠れ家には一日一度、王宮から物資が届く。必要な物は今日の様に即日必要な物で無ければ、頼めば届けて貰えた。
青猪はジッと王宮の封蝋を見つめ、肉の様な弾力の固い赤に爪に食い込ませると、行儀悪く封を力任せに破り開けた。一度素早く目を通し、二度確認の為に目を滑らす。
「あおいちゃん、何のお手紙だったの?」
白い柔らかな髪の毛を青猪の顎に擦りつける様にして再兎が覗き込んで来る。彼女は文字が読めない。
王宮からの公文書や書状を目にしても問題無い様に青猪がそう育てたからだ。意味不明な羅列を眺めながら、再兎が無垢な表情で見上げてくる。何の疑念も持たず、美しい心で青猪を頼っている。
「……何でもないよ。それより早く、壁にペンキを塗ろう」
青猪は慣れた作り笑顔をして再兎の鼻の頭を指先で突いた。再兎は、きゃっきゃと嬉しそうな声を上げ、寝室へ駆けていく。そこが最初の塗り替え先に決まったらしい。背中を見詰めながら、随分大きくなったなとぼんやりと思う。
この六年間、二倍の速さで年を取る再兎は、一度もこの屋敷から出ずに青猪と二人きりで毎日を過ごしてきた。青猪は。今でもまだ、初めて再兎をこの手に抱いた日のことを覚えている。
「次の社交場に再来のウサギを連れて来られたし」
小さな声で愛想の無い文面を読み上げ、胸ポケットへ仕舞う。そして寝室から響く急かす声に後押しされて、漸く立ち上がった。
***
「そろそろ準備しよう」
青猪は戸棚の中から洒落た細工の施された銀製小箱を取り出した。
促された再兎は、真っ黒なベルベットのワンピースをクローゼットから引っ張り出して、嬉しそうに着替え始める。
このドレスは今夜のために王家から贈られたものだ。再兎には知る由も無いが小さな車が一台買える程度には高級品だった。
それを着て立つと、燕尾服を着ている青猪の黒と丁度揃いに見える。セットになっているふかふかのフェイクファーを巻きながら、再兎はにっこりと笑った。
「あおいちゃん、おそろい」
「初めから、そう見えるように用意したんだもの」
無邪気に喜ぶ少女に苦笑しながら、青猪は彼女のファーを、耳が隠れる様に巻き直してやる。
「ねえねえ、似合う?」
「似合うよ、小さなお姫様」
戯けた賛辞に機嫌を良くして、再兎はくるくるとダンスの真似をしながら笑っている。反面、青猪は半ば神妙な面持ちに戻っていた。
先程出した銀細工の小箱を丁寧に開ける。
箱の中には、双眸のサイズに合わせてある小さなレンズが二つ、液の揺蕩うカプセルに納められていた。
再兎を椅子に座るように促してから、青猪はその正面に膝をついた。それから眼前のぱっちりとした大きな赤い瞳の中に、黒い色の付いたコンタクトレンズを一枚ずつ、丁寧にはめ込んだ。
二人がようやく家を出る頃には、随分と夜が更けていた。一層増した灯り、一層増した人通り。青猪は、再兎とはぐれないように彼女の小さな手を優しく掴んだ。
「繋いでおいで。迷子になるといけないからね」
再兎ははにかんだように頷くと、繋がれた青猪の左手に寄り添い、
「再兎、はぐれないよ」そう零した。
玄関を一歩出ると、周りは三百六十度足場のない空中。空に浮かぶ島のような家を取り囲むのは奇妙な蔓草ばかりだ。扉をしっかりと施錠して、青猪は実に六年ぶりに、踏み出すタイミングを見計らう。
「いくよ」
次の瞬間、彼のスラリとした長い足は、時計の長針のように真っ直ぐに、迷うことなく空中に重心を掛けていた。
下界から沸き上がる熱気のような空圧を上手く利用して、彼は静かにバランス良く、下っていく。
傍らの再兎は、初めて降り立つ下界への期待と不安を胸に、ただ呆然と身を任せていた。
「寒くないかい」
青猪は再兎の顔色を窺おうと、浮き上がった状態のまま屈んで覗き込んだ。
「平気……暑いくらい。それよりも、気持ちいい」
紅潮した頬を弛緩させて再兎は震えていた。
「気持ちいいよ、あおいちゃん」
深く一度頷き、青猪は小さな背中を片手で支えながら、ゆっくりと着地する。
解放感に大きく息を吐いた少女が見上げた空には、煌々と冴える月と星たち以外、何も見えない。
今出てきたばかりの、有るはずの我が家も、霞の如く消え去っていた。
「行こう。
繋いだ手は固く握りしめたまま、二人は西の社交場へ向かった。
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