白い空の黒い星

高野祐

魔王と勇者

 魔族と人間が激しい争いを繰り広げている現在。

 大陸のはるか西端にある、魔境。その中に魔王城は位置している。

 世界中の魔族たちの王である魔王が住む場所であり、人間たちからは諸悪の根源とされていた。


 そんな魔王城の周囲だけは怪しい雰囲気を放っており、森や小川、墓場なども全て生気をなくしたように陰りを帯びていた。


 そして、普段は魔族しか出入りしないこの場所に一人の少女が足を踏み入れていた。


 彼女は白色の髪の獣人族の少女で、名前はアルプス。

 人類に神がもたらしたとされる魔王と唯一対抗できる存在である。

 人類が歴史上の文献から、勇者と呼ぶ存在だ。


 そんな彼女の顔には生気はなくただ無表情に、真っ直ぐと魔王の住まう城へ向かうだけだった。


 辺りからは鳥のさえずりや、小川のせせらぎも聞こえず、ただ静寂とした空気が漂っていた。


 そんな空間に、少女の足音だけが静かに響いた。



 —————————


「来たか」


 まるで彼女が来ることを知っていたかのように、窓辺から一人の男が少女を見下ろした。


 彼の名はアーテル。

 艶のある金色の髪は肩ほどまであリ、黒に覆われた服を身につけていた。

 男の耳は尖っており、彼が人間ではなく魔族であることを証明していた。


 そして彼が、魔族の王である魔王アーテルその人であった。


「ミーシア、問題はないか?」

「はい!とっても似合ってますよ!」


 という名目で、代々受け継がれている黒一色の正装(?)に不備がないかを確認する。


 そして、目の前で目をキラキラさせているのは、魔王軍幹部のミーシアだ。

 赤い髪に金色の瞳。口からは牙が見え隠れしている。

 彼女も当然、魔族である。


(そろそろ行くとするか。)


 部屋を出て大広間へと足を進める。

 途中、絵画集めが趣味だった先代の魔王が飾った、趣味の悪い絵画が目に入る。


 この城の回廊には、薄気味悪さを助長する絵画が至る所にかけられている。

 この魔王城の周りの自然なども、先代の魔王たちが不気味さを演出するために作ったという。


 なんでそんなことをするのかと一つ前の魔王の聞いてみたが「そっちの方がいいだろ?」と求めていた回答ではなかった。


 (まあ、人間たちを寄り付けないという意味では効果的面なのか)


 そんなことを考えながら、大広間へと到着する。

 そこは家が四軒ほど建つほどの大きさだった。


 またしても、壁には大きな絵画が掛けられていた。しかし、それは全て先代の魔王達の肖像画である。

 私が知っているのは二人しかいない。


 (…私が魔王の座から降りたら、ここに私の肖像画が飾られるのだろうか?)


 何だか複雑な気持ちだったので、考えないことにしようと思った。


 この広間は人間が王と謁見するための広間と同じ構造で、一番奥には王座が置かれている。


 そのことからも分かるように、この城は人間の城を参考に作られている。何でも、かなり昔の魔王が王座に座ってみたいという理由でこの城を作らせたという。

 それ以来、この城は魔王城としての役割を果たし続けているのだ。それにしても、動機が単純だということには触れない方がいいのだろうか…。


 そんなことを考えながら、私はその王座へと足を進める。


 そして王座へ腰をかけた。


 (おぉ、凄い座り心地だ)


 何だこれは?すごくフカフカしている。このまま気を抜けば眠ってしまいそうだ……。


 「はっ!いかん」


 気付かぬうちにうとうとして眠ってしまいそうだったので、思わず我に返る。

 これは魔の王座か……?

 この品質を再現するのに一体どれだけの労力を費やしたのか。少しこの王座を作った魔王を尊敬してしまう。


 私は魔王だが、この王座に座ったのは初めてだった。なぜかといえば、この王座は基本的に使用されないのである。というか、この大広間自体が基本的に使用されない。


 この大広間が利用されるのは魔王と勇者が決闘する時だけ。つまり、王座に座ることができるのも魔王と勇者の決闘時だけなのである。


 何という無駄遣い……。


 この品質の王座を魔王は生涯で一回使えるか使えないかというぐらいなのだ。


 まあ、使える時間が限られているからこそその価値も上がるというもの。私はそう自分に言い聞かせることにした。


 ただ、この王座で私はただ座って待っているという訳にはいかない。

 先代曰く「迫力が足りない」らしい。


 そこで魔王達には代々受け継がれてきた伝統がある。


 それは王座の上で膝を組み、頬杖をついて、虎視眈々と勇者を待ち構えることだ。


 私だって本当はこんなことしたくない…。


 これもなのである。

 先代の「雰囲気が出ていいだろ?」という適当な発言が頭に浮かぶ。

 魔族と人類の勝敗を決める戦いなのだから、正々堂々でなくてはならない。

 そんな考えのもと、この伝統は生み出された。


 それはいいとしても、やはりこの姿勢で待ち構えるのは恥ずかしい…。

 だが仕方ない。割り切るしか無いのだ。


 そんな思いで私は、勇者が中へ入ってくるのを待ち構えた。



 ———————


 魔王城の中は月の光も差し込まず、薄暗くて静寂な空気が漂っていた。


「来たか、勇者よ」


 ギィィと開いた大きな扉から顔を覗かせた一人の白髪の少女を見て、魔王はそう言葉を発する。


 対する勇者は、感情をうかがわせない瞳で魔王の存在を捕捉するだけであった。


 魔王は王座から立ち上がりどこからか禍々しい杖を取り出した。

 その杖は樹木の根が編み合ったようにできていて、上部には黒く光る禍々しいオーブが取り付けられていた。


 同時に勇者も腰から一振りの剣を抜く。

 白銀に光るその剣は少女が持つには大きいように見えたが、軽々と持ち上げていた。


 魔王と勇者は互いに睨み合い、出方を伺う。


「さあ始めようじゃないか。魔族と人類の最後の決戦を」


 そう魔王が言ったところで、互いに目を離さないまま、二人の姿が消えた。

 否、速すぎて目で追えなかっただけである。


 キィィイン


 気がついた頃には、剣と杖の打ち合う音が聞こえてきた。勇者の攻撃に対して魔王はその杖で弾き返している。

 樹木の根のように見えた魔王の杖は、勇者の攻撃に対して傷ひとつついていなかった。


 目に見えないスピードで勇者が何回も攻撃を仕掛けるが、その攻撃が魔王へ届くことはない。


 凄まじい剣戟を魔王は杖一本で凌いでいた。


 そんな中、魔王が持っている杖のオーブが一瞬光を帯びる。


 その瞬間、魔王の背後に無数の氷の槍が現れた。

 それは等しく勇者の方へと直進する。


「……!」


 勇者は咄嗟に魔王から間合いを離し、放たれる氷の槍を全て切り捨てる。


 勇者はすぐに距離を詰めようとしたが魔王の狙いに気がついた。


 勇者が氷の槍を切り捨てている僅かな間。その間に魔王は魔法を詠唱していたのだ。


 勇者の無表情が、少し歪んだように感じた。


「私に間合いはない」


 魔王がそう言葉を発すると同時に、杖のオーブが大きな光を内包する。


 危機を察知した勇者は、咄嗟に自身も魔法の詠唱を開始する。

 しかしそれは、時間のない今では完成させることができない。

 それを悟った勇者は無詠唱ノースペルで魔法を行使するほか無かった。


月凍グラス・アルテミス


 魔王が杖を勇者へと向け、極大の魔力が放出される。


金光ラ・ルミエール!」


 ほぼ同時に、勇者が自身の手のひらを魔王へと向け極大の光が放出される。


 魔王が放った魔法により広間一体が氷に支配された。

 そして恐るべき勢いで迫る氷は、床を伝い一瞬で勇者の前まで到達していた。

 その名の通り、月をも凍らせる魔法である。


 対する勇者は、迫り来る氷を魔法で砕いては砕き続けた。

 金光ラ・ルミエールは己の身を魔力で守る魔法である。

 しかし、魔力で守っている以上本人の魔力が尽きれば魔法は途切れる。


 つまりこの戦いは消耗戦。魔力が尽きた方が負ける。しかし勇者が無詠唱ノースペルで発現させた魔法は詠唱がない分、不安定な魔法となる。そして相手はあの魔王である。純粋な魔力勝負で勝てる見込みはない。


 そう判断した勇者は決心をした。


 一か八かにかける決心をである。


 勇者は魔力の盾を全身に纏ったまま突撃した。


 このまま魔法を放ち続けられては埒があかない。

 魔王に勝つためには魔王の懐に入り、近接戦を強いるしかない。

 勇者はそう判断をした。


 勇者は魔王との間合いを詰める。

 魔法の発現下へ向かえば、魔王の位置を知ることは可能だった。


 魔王とて、距離を詰められれば魔法を止めるしかない。

 勇者はそう思っていた。


 そして魔王の首を目掛けて勇者の剣が薙がれた。


 しかし、迫り来る氷の魔法が止まることはなかった。


 「……!」


 近づけば魔王は魔法の発動を止めるだろうという勇者の読みは外れた。


 しかしこの状況で彼女は疑問を感じながらも、その剣を止めることはできなかった。


 わずか一瞬の間に、大きな時間が経ったように感じた。

 

 そして彼女の剣が魔王の首へ到達したと思った時。

 彼女の剣は空を切った。


 少女の顔に動揺が走った。


 確かに、そこに魔王はいるはずだった。


 しかしその場所には魔王の姿はなく、先ほどまで続いていた氷の猛撃はパタリと途絶えた。


 剣が斬り払った冷たい空気だけが、彼女を飲み込んでいた。


 何がどうなっているのか分からなかった。


 しかし彼女は迅速に判断し、一旦距離をおくという決断をした。

 一旦距離を置けばまだ勝算は消えない。そう考えた。


 だが、もう手遅れであった。


「………!」


 勇者が首を動かそうとすると、動かせないことにようやく気がついた。

 なぜなら勇者の首には魔王の杖が突きつけられていたからだ。


 勇者は敗北を悟った。


 しかし疑問は消えない。そう、勇者の顔が物語っていた。


 そんな顔を見てか、魔王が淡々と語り始める。


月凍グラス・アルテミスはその本質は魔術ではなく、精霊術だ。発動者を媒体として魔法を行使するのではなく、精霊術は魔法が発現したら魔法そのものが独立する。つまり、発現後は術者は自由に移動することができる。あとは気取られぬように気配を完璧に消すだけだ」


 全てが魔王の掌の上だった。

 勇者は悟った。きっと、初めに魔王から間合いを取ろうとした時点で自分は負けていたのだと。


(私は、勝てなかった……)


「楽に殺してやる」


 魔王はそう言い放ち、杖に魔力を込めた。


 対して勇者は相変わらず無表情であった。


(こんな時、普通は誰かの顔を思い浮かべるのだろうか)


 勇者は疑問に思った。


 普通は、母親の顔や、大切な友達の顔。恋人や、恩人の顔を思い浮かべるのだろうか。


(でも、私にはどれもない)


(私には勇者であるという責任と、周囲からの畏怖や軽蔑の目。そんな物しか持っていない)


(大切なものなんて、何一つない)


 勇者はすでに全てを諦めていた。

 誰かに愛されるという喜び、誰かに認められるという喜び。

 全てが自分には無縁のもので、決して手に入らないものだと知っていたから。




 ————————


 勇者アルプスは獣人族の里で生まれ育った。

 里の狩人である父と、絹織り業を生業とする母の元で生まれ、豊かとはいえずとも幸せな生活を送っていた。


 しかし、彼女が5歳の時。

 彼女は『魔の刻印』とよばれるものを授かった。

 それは突如として彼女の背中に刻まれ、突如として彼女の平穏な生活を奪い去った。


 彼女が覚えているのは今まで優しかった母の、父の、里の人たちの酷く汚いものを見るような蔑視の表情。

 突如として暗雲に支配された日常。

 この日から、彼女は普通の景色を見ることができなくなった。


『まさかこの里から、忌み者が生まれるとは…』

『早く手を打たないと』

『そうだな、早く始末しないと、里全体の問題になる』


 まだ幼かったアルプスは、里の大人たちが何を言っているのか分からなかった。しかし、自分のことについて話しているのだということだけは理解できた。

 この時彼女は里にある牢屋に閉じ込められており、そんな会話をする大人たちを見て、ただただ恐怖するしかなかった。


 そして彼女は里から追放された。


 彼女が里を出ていくにあたって支給されたものなどは無かった。ただ彼女の生活や名誉、生きる希望を失っただけだった。


 彼女が送られた場所はどこともしれない街だった。


 里へ来ていた奴隷を扱う奴隷商人に彼女は売り払われ、街へと送られた。


 その街の人々の目には活気がなく、まるで飢えるハイエナのような形相で辺りを歩いていた。そこはとある王国の貧困街であり、王国の手など行き届いていないまさに無法者の集まる場所であった。


 彼女は劣悪な環境の中、奴隷市場で五年間を過ごした。

 その五年は、本来ならば家族と楽しい日々を暮らしていたのだろうか。全ては彼女の身に刻まれた刻印のせいであり、彼女に非などひとつも無かった。しかしもうすでに何かを恨む気力など彼女には残っていなかった。


 だが、本当に神の悪戯か。彼女には二度目の呪いが刻まれることとなった。


 アルプスが10歳の時、その貧困街に隣接している王国内では、ある神託がもたらされた。それは王国内の教会の教主が授かったもので、その内容は「王国内に聖の刻印を持つ勇者がいる」というものだった。


 聖の刻印を持つ勇者。それは代々魔王を討ち滅ぼしてきた、まさに人類の希望と呼べる存在であった。


 人々は歓喜した。勇者がいれば、魔王を討ち滅ぼせると。


 すぐに王国は御触れを出し、聖の刻印を持つものの捜索が始まった。聖の刻印を持つものを見つければ報奨金が出るということもあって、人々は捜索に躍り出た。


 しかしひと月が経っても聖の刻印を持つものは見つからなかった。人々は信託の存在を疑ったが、捜索は続けられた。

 そして、さらにひと月後に聖の刻印を持つ者が見つかった。


 しかし、その者とは聖の刻印と魔の刻印のふたつをその身に刻む者であった。


 国王の前に連れて行かれた彼女は、すでに全てを諦めた少女であった。


『何と。魔の刻印を持つものが勇者とは』

『全く汚らわしい…。早く陛下の前から消え失せなさい』


 周囲からの蔑視はもう慣れたものであり、特別なものではなかった。だからこそ、彼女は自分を押し殺し、何も感じないようにするしかなかった。そうすることを世界は彼女に強制したのだ。


『全く気味が悪い…。早くそれを連れて行きなさい!』


 妃であろうか、一人の女性に命令された兵士たちに少女は連れて行かれる。それは勇者を扱う態度では無かった。


 そして彼女はまた外へと追い出された。

 渡されたのは、一振りの剣だけ。

 そしてそれは名実ともに勇者という存在の証明であり、勇者という責務の証明でもあった。


 世界は彼女から全てを奪っていったのに、今度は横暴にも責務を与えたのだ。魔王を討ち滅ぼすという責務を。

 聖の刻印など、彼女にとっては祝福でも何でもなく、ただの呪いに等しかった。まだそんなものがない方が、彼女は幸せだったのかも知れない。


 彼女は一人で旅を続けた。

 魔王を倒す旅を続けた。


 いったい誰のために?


 彼女はいつも疑問に思っていた。自分はなぜ、魔王を倒そうとしているのかと。自分に対してあんな仕打ちをしてくる人たちのために、なぜこんなことをしなくてはならないのかと。


 しかし、彼女がその答えに辿り着くことはなかった。


 たとえ、誰かを命の危機から救ったとしても。

 たとえ、誰かに優しさを分け与えたとしても。


 それを相手に返してもらったことはない。返ってきたのは、まるで汚物を見るかのような蔑みの視線。


 彼女はもう、人形となるしか無かった。

 ただ、責務というゼンマイで動く人形に。


 彼女は旅を続けた。胸の中にある疑問の答えを探して。


 そして、勇者アルプスはついに魔王城へと到達した。


 彼女は期待した。もうすぐ答えがわかるかも知れないと。ここで魔王を倒せば自分が望んでいるものが手に入るはずだと。




 ———————


(結局、何も分からなかった)


 彼女の中にあるのは、絶望でも死への恐怖でもない。ただ、もともと何もなかったものが、その状態を維持したというだけの話だった。


(このまま何も分からないで死ぬのが嫌なわけじゃない。むしろ、私はここで死ぬのがいいのかも知れない。だって、私には失うものも何もないから)


(あぁ、やっと私は……死ねる)


 結局、彼女が最後に浮かべた表情は安堵であった。


「…………」


 勇者は安らかとも言える表情で、死を向かい入れていた。しかし、緩慢に流れる時に身を委ねていても未だ訪れない死に、どうしてまだ死んでいないのかと疑問を抱く。


 勇者は目を開けた。


 そこにあったのは、未だ自分を殺そうとしない魔王の姿だった。


「…………私を、殺さないの…?」


 勇者が初めて口を開いた。


 しかし、魔王は黙ったままだった。


 殺さないではない、魔王は勇者を殺すことができなかった。


 魔王は知っていた。彼女の表情は、絶望に打ちひしがれた故の表情だと。全てを搾取され、失ったものの表情だと。

 勇者と呼ばれる彼女に、どんな過去があったのかは想像がつかない。しかし、それだけに魔王は勇者を殺せなかった。殺されることを望むものなど、この世にあってはならないのだ。


 魔王は勇者をと思ってしまったのだ。


 そしてそれが、大きな仇となった。


 彼女に心を許してしまったが故の、一瞬の気の緩み。


 彼女はそれを見逃すほど、甘くはなかった。


 杖を突きつけられていた勇者は、ほんの一瞬で魔王の眼前へと移動していた。


 ほんの一瞬、彼は油断してしまった。敵であることを忘れるほどに、彼女のことを思いやってしまった。


 勇者は魔王を押し倒し、白銀の剣の切先を魔王の首元へと向けていた。


「ハハ…」


 魔王の口から出てきたのは空笑いだけ。まさか魔王ともあろうものが、敵に情けをかけて逆に手玉を取られるなど、一生の笑い物だろう。


(私にはもう何も言うことがない)


 魔王はただ、訪れる死を待ち構えようとそう決心した。


 しかし、その死は訪れない。


 カタカタカタ…


 魔王の首元で、白銀の切先が震えていた。

 まるで、彼女が魔王を殺すことを躊躇っているようだった。


「…殺さないのか?」


 魔王が聞くも、勇者は俯いて、ただ剣を震えさすだけだった。


 勇者には分からなかった。

 ここで彼を殺すことで、彼女が求めていた答えに辿り着くはずだった。

 しかし彼女は心の奥底で、たとえ彼を殺しても答えに辿り着かないと感じていた。


 "勇者は、魔王を殺すことができなかった。"


 しばらく、そのままの状態で時が流れた。


 そしてついに魔王が口を開いた。


「……私の元へ来ないか?」

「……!」


 魔王の言葉に、勇者が驚くのが分かった。


 魔王は続けた。


「君にどんな過去があったのかは分からない。でも私ならその過去を少しでも埋めることができるかも知れない」


 勇者は気付けば、魔王の顔を見ていた。優しそうに語りかけてくるこの人を、どう思ったらいいのか勇者には分からなかった。


 しかし、勇者は知っていた。

 それは、意地の悪い大人たちの常套手段であることを。呪われた自分を受け入れてくれる人なんてこの世には存在しないことを。


「君の痛みを分けてくれないか。勇者アルプス」


 目の前の魔王を信じるか信じないかなど、もはや勇者にはどうでも良かった。勇者には今までの経験から、相手を信じるなどという選択肢はとうに存在しなかったのだ。


「嘘」


 勇者は睨みつけるように魔王の顔を見た。

 彼女は拒絶の意思を露わにした。


「嘘じゃない。私は君を助けたい。この気持ちは本当だ。私は君のことを———」

「嘘っ!」


 目の前の真っ直ぐな瞳で自分のことを見つめてくる男に対して、果たしてどんな感情を抱けばいいのか、勇者には分からなかった。本当に、分からなかった。


「理由はなんなのっ?私を助ける理由は!?」


 勇者は気付けば叫んでいた。

 魔王は少し、考える素振りを見せた。


「…君が優しい子だから」


 魔王は彼女の瞳を見つめながら、そう言った。


 唐突に発されたその言葉に、彼女は一瞬時が止まったように感じた。


「君は、君を殺せなかった私を殺せなかった」


 その金色の瞳は彼の言葉が本心であると、彼女に訴えていた。


「っ…!でも…呪いを持った私と一緒にいれば不幸になる!実際に私の周りの人たちは皆…!」


 彼女は必死で訴えた。


「呪い?」


 しかし、彼はなぜか少し不敵な笑みを浮かべてみせた。


「目の前にいるのは魔王だぞ?この私に効く呪いがあるのならに逆に試してみたいぐらいだ」


 彼は少しふざけたように言った。


 そして彼は、彼女の瞳を真っ直ぐと見つめて続けた。


「————大丈夫だ。私は君の呪いごと君を受け入れる。君にどんな過去があろうとも、どんな傷があろうとも、私は一緒に全てを背負う」


 その時、勇者は気づいた。この人はのだと。忌み者でもない、勇者でもない。ただ一人のアルプスという自分を。


「………」


 彼女の身に呪いが刻まれてから、彼女が人として見られたことはなかった。こんな風に、人の心を感じることはなかった。そしてそれが、こんなにも心地よいものだということを、彼女はすでに忘れてしまっていた。


 勇者は気付けば涙を流していた。しかし彼女がそれに気づくことはなかった。

 また、彼女を覆っていた仮面が涙と共に溶けかかっていることにも、彼女は気づかなかった。


 ふいに勇者の視界が暗くなった。

 自分が抱き寄せられているのだということに気づくのに、少しの時間を要した。


「話してほしい。君の事を」


 彼女は抵抗しようとは思えなかった。彼の言葉は本心であると分かったからだ。そして何より、彼の暖かさが彼女は心地いいと思ってしまった。


「……私は……必要とされたかった…。私は………認めてもらいたかった……必要なんだって、そこにいていいんだって。でもっ…誰も……私を見てくれなかった……誰も…私を受け入れてくれなかった」


 今まで身を潜めてきた本心が、喉の奥をつっかえていた本音が、やっと吐き出された。


「大丈夫。もう一人じゃない」


 彼は彼女をより一層強く抱きしめた。

 彼女の苦しみをしっかりと受け取れるように。


「……っ、……ぅ、………うん………」


 俯いて泣いたまま、彼の言葉に身を預けるように返事をした。

 彼女はようやく自分が涙を流していることに気がついた。でも、そんなことはどうでも良かった。ただ離れたくないという気持ちだけがあった。


 勇者は疑問に思う。自分はこの旅で何を求めていたのかと。地位、名誉、財産、強さ……。それらが脳内に浮かんでも、違うと分かっている自分がいた。


 じゃあ何を?


 いつもそれを考えていたが、実は心の奥底では分かっていたのかも知れない。


(私は……認めて欲しかったんだ。魔王を倒したら、皆が私を認めてくれる。受け入れてくれるかも知れないと)


(…そんな淡い期待を抱いてしまった)


 自分を酷く扱う人たちが、たとえ魔王を倒したとしても自分を受け入れることはないだろう。それは彼女も分かっていた。


 しかし、5歳で親と離れた少女にそれを望むなというのも、酷な話であった。そして、そうして望んでいくうちに彼女はそれが手に入らないと分かると、仮面を被るようになった。悲しみの気持ちを押し殺すように。


 ただ、勇者となった彼女はかすかに期待してしまった。決して手に入ることのない虚像を、ほんの少しだけ求めてしまった。


 そして、それは手に入らないはずだった。


 しかし、彼女の真っ白だった世界に突如として黒く光る星が現れた。

 その星は見た目からは想像できないほど、とても暖かく、優しかった。

 その星は彼女の暗雲に覆われた白い世界を光で満たした。

 まるで万物を導く、月の光のように————。




 ————————


 抱き寄せあった状態の二人に、大広間の窓から光が差し込んだ。それは外の黒い雲の間から光る、微かな月の光であった。


 ふいに、二人が窓から差し込む月の光を見る。

 それはちょうど、雲が移動し月の全容が明らかになった時だった。


 しばらくの間、二人はその月を眺めていた。

 しかし、月はまたすぐ雲に隠れてしまった。


 「帰ろうか、アルプス」


 魔王はそう言って勇者に手を差し出す。


 「……うん」


 勇者は少しはにかんだ笑顔で返事をし、魔王の手を取った。


 再び覗いた月の明かりが、二人を照らしていた。




















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