襲撃者

 何を言われたのか分からなかった。


 星麗が、5年前に死んでいる?

 なら、目の前にいる彼女は、一体なんだ?


 彼女は、秀のように透けていない。身体はきちんとこの場にあって、息をしているし、触ることだってできる。


「わたしは、姫さまを助けるためにここにいました。でも、それももう終わりましたから。本来あるべきところに、帰らなければ」

「ま…待ってくれ!そんな、急に言われても…!」

「さようなら、蘭秀さん。わたし、あなたとこうしてお話することができて、とっても楽しかったです。幸せな思い出を、ありがとう」


 何を言っても、もう言葉は届かなかった。

 今までと変わらない笑みを浮かべる星麗は、見惚れるほど美しかった。


 月光に照らされた彼女の姿が、だんだん溶けるように薄くなっていく。星麗の身体を通して、背後の木々が見え始めた。


「星麗さん…!」

「蘭秀さん、彪家には気を付けてください。あの家は、血筋と利益を守るためならなんだってします。あなたのことも、利用しようとしかねませんから。どうか、これからも、生き延びてください」


 そう言って、星麗の姿は消滅した。名残のように、銀色の光の粒がぽうぽうと浮かんでいたが、それもやがて消えてしまった。


 大切な者が、今夜で一気に2人も消えてしまった。自分は何もすることができないまま。


 なんでこんなに無力なんだろう。

 悔しくて、グッと拳を握りしめた。それを、勢いに任せて岩肌に叩きつける。硬い手ごたえとしびれが走ったが、それだけだった。


 呆然としばらく岩に腰掛けて、どのくらい時間が経っただろう。

 このままここにいても、星麗はいない。もう会えない。


 ここにいても、仕方がない。


 立ち上がって、ふと星麗の最期の言葉を思い出した。


 彪家という単語は、前に僕と香をさらった人攫いも口にしていた。香と星麗の実家なのだろうが、それにしては物騒なことを言っていた気がする。


 僕の実際の身分を知った星麗が、消える間際に教えてくれたことなのだ。調べてみる必要があるだろう。


 それに、星麗が言ったということは、この国の建国神話に出てくる白銀の虎とも、何かしら関係しているのかもしれない。


 まだ、不貞腐れるわけにはいかない。ふさぎ込んでる暇はない。


 秀が最期に、僕が幸せに長生きすることを望んだのなら、それを叶えたい。そのためにも、星麗の忠告は聞いておくべきだろう。


 いつまでも、過ぎ去った時に縛られ、立ち止まってはいけない。前に進まなければ、生きていくことはできないのだ。


 ぽっかりと開いた心の穴を寒々しく思いながら、僕は『蘭秀』が寝起きしている部屋へと帰った。


「さようなら、星麗さん」


 儚い天女のようだった少女に、別れを告げた。





 翌日の朝は、何事もなく訪れた。

 鏡の前で、全身に色のついたおしろいを塗りたくる。そうすると、雪のような肌は、あっという間に浅黒く変色した。


 次いで水銀色の髪を掴んだ。こちらも、染料を使って黒く染め上げていく。5年の月日のおかげで随分慣れたもので、あっという間に文官『蘭秀』が出来上がった。


 髪を結い上げて、染め忘れがないかの確認も忘れない。完璧に支度が出来たようだ。


 部屋を出て隣を見るが、隣室の主はもうおらず、シンと静まり返っている。


 あの元気な声を聞くことができなくなって3日目だが、まだ慣れそうにない。


 他の部屋から出てきた同期たちに挨拶して、朝餉に向かう。

 今日は何が出るのだろうか。


 いつも通りの1日が始まった。



 李潤に言いつけられた職務を終えて、僕は本蔵に引きこもっていた。

 何か彪家に関する手掛かりがないかと思ったのだ。本に埋もれて読み漁っているうちに、とっくり日が暮れてしまった。


 これだけ時間をかけたというのに、それらしい記述や資料は何も見つからなかった。見つからなかったという収穫があったと思うことにして、急いで山を下る。


 途中、星麗と出会ったあの平地への道が見えた。いつもなら寄り道するが、これからは行っても空しくなるだけだ。


 そう思って、顔を背けて通り過ぎようとした時だった。


 唱が聞こえてきた。


 いつも星麗が歌っていたものだ。扇を広げ、朱色の打掛の袖を翻しながら一心不乱に舞う姿は、どんな美人図を並べても勝ち目がないほど美しかった。


 誘われるように、平地への道に足を踏み入れた。

 背中を押されているように、自然と足が速くなる。木々をガサガサとかき分けて、通い慣れた場所へと向かった。


 星麗がいた。


 こちらに気付くことなく、舞を舞っている。

 焦がれた姿に、僕はフラフラと彼女に近づいた。持っていた燭台の火が揺れる。


 星麗のもとまで、あと数歩という距離になった時、小さな違和感を覚えた。


 その瞬間。


 ガサッと自分のものでない音が真横から聞こえた。ハッとそちらを振り返ると同時に、木々の上から数人の人影が踊りかかった。全員が、キラリと光る何かを持っている。


 何かなんて、考えるまでもない。


「蘭秀‼」


 硬直して動けなくなった僕の目の前に、何者かが立ちふさがった。

 その人は銀色の扇を手にして、大きく横に振った。襲い掛かってきた全員が、扇から生まれた巨大な風によって吹き飛ばされた。


 見覚えのある扇に、僕は驚いて、燭台で目の前の人物を照らした。


 風になびく黒い髪に、黄金の瞳。僕の肩くらいまでしかない、華奢な体型。

身体に沿った黒い衣を着ているが、それが不思議なことに、どんどん朱色の打掛に変わっていく。

 そして、濡羽色の髪も、根元からじわじわと白銀色に変わっていった。


 変身途中のような人物は、僕が星麗より長い時間を過ごした者だ。同期として一緒に仕事をして、時に厄介事に巻き込まれた。


「香…⁉」


  3日前に文官を辞めたはずの、男装をしていた少女が、なぜかここに立っていた。




「蘭秀、悪いけど、今は説明してる場合じゃないから!」


 そう言いながら、香の髪は完全に白銀色に変色していた。黒い衣も完全に消え失せ、代わりに朱色の打掛を羽織っている。


 その姿は、何よりも見覚えがあった。

 星麗だ。


 だが、先ほどまで香の姿があったはず。

 一体、どうなっているんだ?


 星麗の姿をした香は、ゆらりと立ち上がっている襲撃者たちを見据えていた。扇を握りしめて、臨戦態勢をとっている。


 襲撃者は全部で5人。全員が、体格の良い男だ。そして、その手には刀や昆、槍が握られていた。


 岩場に目を移すと、星麗が舞をやめて、じっとこちらを見つめていた。


「ほんっと、紛らわしいことしてくれる…!」


 毒を含んだような顔をして、香は開いた扇を持ち上げた。

 同時に、男たちが雄叫びを上げながら突進してくる。男の持った武器が、キラリと目の前で閃きながら目前に迫る。


 香が危ない!


 とっさに香の腕をとろうとすると、背後から突然羽交い絞めにされた。はずみで燭台が落ち、ふっと火が消える。


 しまった、背後の警戒を怠っていた。

 僕の身体を押さえ付ける襲撃者の足を踏みつけて逃れるしかない。


「おい待て、やめろふざけるな。ここは大人しくしてろ。香麗にまかせとけ」


 聞き覚えのある声に、振り降ろした足が止まる。恐る恐る振り返ると、近くに李潤の顔があった。


 切れ長の目はいつも以上に細くなり、明らかに不機嫌そうだ。


「え、李潤さん?」


 思わぬ人物に呆気に取られていると、前から唱が聞こえた。

 目を向けると、香が唱を歌っていた。静かな声音に詞が乗って、やがてそれが可視化する。


 鎖のような詞の羅列が、香の周りで銀色に光りながら螺旋を描いた。どこからともなく風が吹き上がり、香の白銀色の髪が舞い踊る。


 香が扇を縦に振り降ろした。すると、香の周りをまわっていた詞の鎖が、一斉に男たちに襲い掛かった。


 香の目の前まで来ていた男たちを雁字搦めにして、動きを封じる。ガシャンという音と共に、鎖に拘束された男たちが、その場で膝をついた。


 静寂が訪れた。


 何が起こったのか理解できず、頭が現状に追い付かない。


 とりあえず、自分が襲われたらしいこと、なぜか香が星麗の姿をして助けてくれたこと、この場に李潤がいること、ということくらいしか分からない。


 混乱していると、ふうと息をついた香が、岩場の方に足を向けた。そこには、もう1人の星麗がいる。だが、本物ではない。


 近づいた時に違和感があったのだ。昨日まで会っていた星麗は、纏う空気に温かさがあった。精錬された、気高さがあった。


 対して、星麗の姿を真似たこれは、それがなかった。

 白銀の髪をなびかせながら、香が偽物の星麗の前に立った。


「死んだ娘に化けるなんて、随分な趣味をお持ちですね、お父さま」


 今まで聞いたことが無いほど、冷たい声だった。

 思わず身体を震わせたが、彼女の前に立つ偽星麗は動じた様子がない。


 やがて、偽星麗の姿が揺らいだ。靄がかかったように霞むと、瞬きの間に偽物の姿は消えていた。


 そしてその場には、香の2周り以上背丈のある、細身の優男が立っていた。前に立つ香と似た銀色の髪を、長く後ろに流している。虫も殺せないような、柔和な笑みを浮かべていた。


「久しぶりだねぇ、香麗。元気そうで安心したよ」


 ねっとりとした声音に、心なしかゾッとする。この男、全身に纏わりつくような、粘着質な話し方をするようだ。


「安心?はっ!笑わせないでください。本当は、私を殺しに来たんですよね?5年前のあの日、私を殺しそこなったって気付いたから」

「そんなことはないよ。娘の無事を確認できて、本当に嬉しいんだ。娘に元気でいてほしいと思うのは、親として当然だろう?」

「なら、よく平気な顔して星麗の姿になれましたね」

「そういう香麗も、星麗のふりをしてあの少年と密会していたんだろう?なら、お互いさまじゃあないか」


 朗らかに笑う男に、香がぐっと唇を噛みしめたのが分かった。


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