覚悟
霊が消えたことで、辺りが静寂に包まれた。
痛いくらいの沈黙が落ちる中、一切口を閉じていた王が、秀の消えた空間を見つめる蘭姫に歩み寄った。
「貴殿と会うのは、これが初めてだな」
王の声に、蘭姫が振り返った。秀に向けていた温かな笑みはなく、氷のように冷たい雰囲気を醸し出していた。
「お初にお目にかかる、蘭姫」
「もう王位継承権はありませんし、そもそもわたしは男です。姫はおやめください」
「失礼。では、蘭。そなたは、私を恨んでいるか」
返答に間があった。
蘭はじっと王を見つめる。何かを見定めるような様子だった。
「いえ、あなたのことを恨んではいませんよ。恨むとすれば、華信国を復興させる力をとうの昔に失ってしまった、自分自身に対して、ですかね」
「では、先ほどそなたが霊に対して発したあの言葉、信じてもよいのだな」
「――なるほど」
蘭がニヤリと、人の悪い笑みを見せた。合点がいったと言わんばかりの様子だ。
「この騒動は、わたしをあぶり出すためにやったのですね。かつての仲間が霊としてこの世に降りてきているなら、それを『真珠の姫君』が見逃せるはずがないと思って。だから、秀の霊を降ろしたのですか。随分と、回りくどいことを」
そう言って、彼は鼻で笑った。
正直、私が蘭姫に対して思い描いていた人物像とは、随分とかけ離れていた。女でなかったという時点でだが、これほど自虐的な人物とは思わなかった。
「5年も音沙汰がないのですから、その時点で、『蘭姫』の意図を察していただかなくては。まあ、あなた方にとっては、たかが5年なのかもしれませんが」
フーとため息をつくと、蘭は王をしっかりと見上げた。
その姿は、王位継承権を持たないと言えど、かつて一国を治めていた王族の風格が備わっていた。
自分の父親ほどの歳の男、それも王を前にして、見劣りしない風貌だった。まだまだ成長期の身体つきで、目の前に立つ男とは比べ物にならないほど華奢だというのに。
「占領した国の民の営みを虎雹国が脅かさない限り、わたしはこのまま姿を消します。あなた方の前に現れることも、二度と無いでしょう。ですが、民を差別し、あまつさえ飢えさせるようなことがあれば、わたしが牙を剥く可能性があるということを、どうぞお忘れなきよう」
『真珠の姫君』の人気は、華信国で絶大だった。今でも、姫のことを心配している者もたくさんいる。
もし、元華信国の領土で姫が生きていると分かれば、そこに生きる民たちは奮起するだろう。そんな中、当の本人が武器を手に取って民に号令を掛ければ、どうなるか。
さすがの王も、無視することはできなくなる。
「そうだな。心得ておこう」
王の返答を聞いて、蘭は満足したように頷いた。
「それでは、わたしはこれにて失礼いたします」
「私が送りましょう」
皇太子と姫の様態は、ザッと見ただけでも大丈夫そうだった。少し熱は高いが、それはもう、近くに控えていた医術師にやらせればいい話だ。霊が成仏した以上、私の役目は終わった。
一刻も早く、この場所から立ち去りたい。
蘭は私の意図が分かったのか、小さく笑って、「ならお願いしようか」と言った。
王宮の医務室を出て、山肌に沿って作られた階段を下りていた。
久しぶりに、群青色の着物を着た。箪笥の奥にひっそりと隠していたのだが、それがまさか、役に立つとは思わなかった。
チラリと視界に映る水銀色の髪をなでつける。こちらも、久しぶりの髪色だ。
戦いから生き延びた後、拾ってくれた老人は、己の身分をすぐに察してくれた。そして、虎雹国の王族に突き出して大金を手にすることもできたというのに、生きる術を叩き込んでくれた。
髪色で身分がバレるだろうからと、染料まで用意してくれたのだ。それからずっと、この髪色に戻ることはなかった。自分もまさか、今になって髪色を戻すことになるとは思わなかった。
「あの」
もくもくと階段を下りていると、背後から声がかかった。星麗が、胸元でギュッと拳を握り、こちらを見つめていた。
「どうかしたか」
「ぶしつけな質問を、失礼いたします」
「あなたは、蘭秀さん…ですよね」
質問ではなく、確信の籠った彼女の言葉に、僕は力を抜いて笑った。
華信国王位継承者・蘭としてではなく。
「正解。良く分かったね、星麗さん」
ただの文官・蘭秀として。
いつも会っていたあの空き地に、僕たちは来ていた。
岩に腰掛け、2人並んでゆっくりと星を見ていた。
こうして星麗と2人きりになるのは1週間ぶりだ。だが、その1週間の間に、随分と変化が起こってしまった。
そもそも、いつもここに来るのは浅黒い肌に漆黒の髪を持った文官であって、間違っても白い肌に水銀色の髪を持った人間ではなかったはずなのだが。
「驚きました。蘭姫が男性だったということもですが、蘭秀さんが蘭姫だったなんて。わたし、ずっと探していたのに、本当は近くにいたのですね」
そう言ってクスクス笑う星麗に、僕は申し訳なくなって頭を下げた。
「正体を言う訳にもいかなかったから…。その、申し訳ない」
「謝らないでください。蘭秀さんの立場なら、仕方のないことでしょう」
「そう言ってもらえると、助かるよ」
星麗の静かな空気が、とても気持ちを落ち着かせた。
秀が死んだことは、5年前に予想していた。王族の関係者のほとんどが死亡したと、国中で噂になっていたのだ。そして、蘭姫の遺体だけは見つかっていない、ということも。
時間が経てば、いずれ噂も風化して消えてしまうと思っていた。同時に、蘭姫のことも忘れ去られるだろうと。
まさか、こんな形で秀と再会し、自分の正体も晒す羽目になるとは、思いもしなかった。
まだ『蘭姫』として生活していた頃は、宮に閉じ込められていることが嫌で、ずっと外を駆け回りたかった。どれだけ侍女たちに頼んでも止められて、いじけていたところに来たのが秀だ。
秀と同い年ということもあり、すぐに打ち解けた。たくさん遊んでたくさん喧嘩して、たくさん笑った。
唯一の友だちだった。
霊の秀は、5年前の姿のままだった。一緒にいた頃はとてもしっかりしていると思っていたが、こうして自分が年上になると、まだまだ子どもの部分があったのだと分かる。
同時に、自分はこれからも歳をとっていくことが出来るが、秀はずっと、10歳の姿のまま時が止まってしまったということも。
一緒に育った友人と今の自分に、大きな隔たりが出来てしまったのだ。
「…友だち、だったんだ」
ぽつりと言葉が零れた。同時に、目元がじわりと熱くなる。視界がみるみるぼやけ、水にたゆんでいるようになった。
「死んで欲しくなかった…!」
予想はしていたが、確信していたわけではなかった。
もしかしたら、どこかで生きているかもしれない。あの戦いを生き残って、自分を探しているのではないか。どこかで会えるのではないか。
そう思って、秀の姿に似せようと、髪を黒くして、肌も褐色にした。蘭姫の印象から遠ざけて正体をバレにくくするという意図もあったが、秀ならば気づいてくれるのではないかと思ったのだ。
だが、その小さな願望も、今夜潰えた。
秀は死んでいた。恐らく、幼い自分を知っている者たちは、もう生き残っていないのだろう。
宮で過ごした時間は、窮屈であったものの、それでも優しい侍女たちがいて、心許せる友人がいて、とても幸せな日々だったのだ。たまにしか会えない両親も、会うたびにたくさん遊んでくれていた。
とても、恵まれた毎日だったのだ。
ぽろぽろと涙が拳の上に落ちた。肩が震えて喉が締まり、息がしづらくなる。しゃくりあげるたびに、胸が熱く、苦しくなっていった。
突然、ふわりと暖かいものに包まれた。
星麗が、何も言わず、僕を優しく抱きしめてくれていた。慈しむように、頭をとんとんと撫でてくれる。
その手つきが、もううっすらとしか覚えていない母を思い起こさせた。
華信国は女性が治める国だ。女王として君臨していた母は、常に忙しくて、あまり僕に構ってくれなかった。
それでも、熱を出した時には顔を出して、頭を優しく撫でてくれていたのだ。
幼子が母にすがるように星麗にしがみつき、僕は声を上げて泣いた。
しばらく泣くと、随分と落ち着いた。
柄にもなく人にしがみついて泣いてしまって気恥ずかしいが、おかげで少しすっきりもしたようだ。
「…ごめん、その、衣を濡らしてしまったかも…」
「かまいませんよ。大切な人を亡くして平然としている方が、無理な話ですから」
ふと、星麗が遠くの方に目線を投げた。その姿は何かを思い、偲んでいるようにも見えた。
「…本当に、あなたはこの国に復讐がしたい、というわけではなかったんですね」
ぽつりと落ちた言葉に、僕は苦笑してしまう。
「まあ、考えたことがなかったと言われたら、嘘になるけど…。もう、あんな思いはしたくないし、自分の指示で誰かが死ぬのは、もっと嫌だ。…王位継承者としては、失格かもしれないな」
虎雹国の王を前に、ああは言ったが、正直、自分にはもう王族の力はない。華信国王位継承者として名乗りを上げても、命を懸けて追従してくれるような者はいないだろう。
それだけの年月が、過ぎたのだ。
だから、あの言葉は脅しにすらならない。それでも、それくらいの覚悟を持ってこの国で生きているのだということを、示したかった。
「それにしても、よく蘭姫の姿で医務室に来ましたね。王が来たことはわたしも想定外でしたが、蘭姫になるだけで相当な賭けだったでしょうに」
「星麗さんから話を聞いて、すぐに霊が秀だと分かったんだ。秀だけが唯一、僕のことを『姫』と呼ばなかったから。だから、どうしても、呪縛から解放してやりたかった」
そのためだけに随分な賭けになったが、それでも収穫はあった。
秀を成仏させることもできたし、何より、王直々に顔を合わせることもできた。
「にしても、随分の足の軽い王さまなんだな。ご自分の息子だから、心配だったのかな。あまり親子仲は良くないって、聞いたことがあったんだけど」
いくら親子仲が悪くても、子が病に臥せれば親として心配だったのだろうか。
にしては、王が皇太子を気遣う様子をほとんど見せていなかったことが気になる。
いの一番に息子のもとへ駆け寄るならいざ知らず、王は目線を向けることすらしなかった気がする。
頭を捻っていると、星麗が朱色の衣をギュッと握りしめた。
「…あれは、王ではありません。形だけの王、偽物です」
「…え?」
耳を疑った。
偽物?しかし、あの藤色の衣に豪華な飾りは、明らかに王の身分を示していた。どんな人物であろうと、あの衣装を着ることは許されない。
それに、あの厳かな声音には、明らかに国を治める権力者としての風格があった。女王の補佐についていた父と似た空気を感じて、懐かしくなったくらいだ。
それなのに、偽物?
「今の王政は、腐敗しています。いえ…昔から、と言った方が良いでしょうね」
「…どういうことだ?」
「表向きは、先ほど会った王さまが国を治めています。ですが本当は、あの王は傀儡です」
息が止まった。
「舞台を覚えていますか?この国の建国神話を題材にした舞台です」
「あ、ああ」
白い月から白銀の虎がこの地に降り立ち、人間の姿になってこの国を創り上げた話だ。そして、彼は苦楽を共にした1人の人間に治世を任せ、月に帰ったという結末だったはずだ。
「はい。ですが、本当にその男は、月に帰ったのでしょうか」
「え…」
「表舞台から姿を消した、と言われているだけです。人々の目に入らなくなっただけ」
星麗がひょいっと身軽に岩から降りた。煌々と輝く白い月を背景に、こちらを振り返る。
白銀の髪が風になびき、揺れている。
白銀。
建国神話に出てくる、白銀の毛並みを持った虎。
背筋が凍った。
「蘭秀さん」
星麗の声にハッと顔を上げると、彼女は寂しそうな顔で笑っていた。
「もう、お別れです。わたしは役目を果たしました。帰らなければなりません」
「帰るって、どこに…」
「本当はわたし、ここにいてはいけない存在なんです。幽霊…とまではいきませんが、似たようなものです」
「星麗は、5年前に死んでいるんです」
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