蘭と秀
思いがけない声音で、私は思考が停止した。
蘭姫は、かつて「真珠の姫君」と言われていた。深窓の令嬢で、御輿から見た所作が、まだ10歳という年齢にしてはあまりに上品で、国中の人々から尊敬と期待の眼差しを受けていたと聞く。
それなのに、これは一体どういうことだ。
絶句した私を見て、蘭姫はフッと笑みをこぼした。
「驚いただろう。だが、わたしは正真正銘の男だ。華信国が滅びる前、国のしきたりとして、女として育てられていたのだ。まあ、この話はどうでも良い。それより…」
蘭姫はくっと頭を上げて、皇太子と姫の上で浮上している霊を見た。
今、霊はこちらに背を向けている状態で、顔は半分も見えない。蘭姫の姿にも、気付いている様子はなかった。
だが、蘭姫には、あの少年が誰なのか分かったらしい。
「…秀」
ぽつりと呟かれたそれは、少年の名前だろうか。
本当に小さな声だったが、それでも少年に届いた。
霊はくるりとこちらを振り返り、彼女――いや、彼を目に留め、息を吞んだようだった。目を丸くして、蘭姫を凝視している。
やがてその表情は、驚きと喜びに変わった。その姿を蘭姫は静かに、そして目をそらさず見ていた。
ここは、私の出る幕ではないだろう。
そう思い、私は一歩後ろに引き下がった。
蘭姫は下がった私に小さく笑いかけると、再び秀を見上げた。
「久しぶりだな、秀。最後に会ってから、もう5年も経った」
『…蘭さま、ご無事だったのですね。信じておりました。必ず、蘭さまは生きていらっしゃると』
「ああ。あの日、秀たちがわたしを逃がしてくれたおかげだ。だが、…すまない。華信国は滅んだ。今は虎雹国に吸収されている」
『そんな…!では、国王さまは…!』
「もう死んだ。あの戦いを生き残った王族は、わたししかいない」
秀の目が大きく見開かれた。悲しみの色を宿すと、次の瞬間には、血走った眼を吊り上げていた。
突然、少年の纏っていた青白い光が更に強く発光し、部屋の中で嵐が吹き荒れた。 調度品が派手な音を立てて倒れ、衣の袖がバサバサと巻き上げられる。開けっ放しにしていた窓が1枚、風にまかれて吹き飛ばされた。
これはダメだ。霊が怒った。怨霊になってしまう。
自分の髪で視界が遮られる中、それでも静かに佇む蘭姫の姿が見えた。しっかり地に足を着け、凛と気丈に立っている。
『ならば、華信国の仇を、この僕がとります。今の僕なら、何だってできる。虎雹国の王は、あそこにいる者でしょう!僕たちが受けた屈辱を、しっかり味わわせてやらねば!』
「秀。お前、本当にそれをするつもりか」
『当たり前です!蘭さまからご両親を奪い、不幸に至らしめた元凶は、排除しなければなりません。これは、蘭さまの従者として付き従ってきた、僕の責務です!蘭さまを不幸にする者は、断じて許すことはできません!』
「秀!わたしの話を聞け‼」
蘭姫の怒号に、一瞬で嵐が止んだ。怒鳴られたことに驚いたのか、秀はきょとんとした顔で蘭姫を見下ろした。
「秀、頭が高いぞ。主人に見上げさせるとは何事だ」
『も、申し訳ありません』
霊が、皇太子と姫の寝台を離れ、床に膝をついた。身体のほとんどは透き通っており、足元に至ってはほとんど見えない。だがそれは確かに、主を前にひざまずく従者の姿だった。
この機を逃すわけにはいかない。霊が蘭姫に気を取られている間に、私はこっそりと扇を振った。
扇から視認しづらいほど薄い銀色の膜が現れ、皇太子と姫を覆った。まだ2人の身体には、霊に憑かれた後遺症が残っているはずだが、これで、これ以上悪化することは無いだろう。気休め程度の結界だが、役には立つはずだ。
『蘭さま、その…』
「目先のことで物を考えるな、秀。お前は、とても優秀な従者だった。それなら、今ここで王を屠ったとしたら、導を失った国が傾き、たくさんの民が飢えていくことくらい、想像がつくだろう。その民の中には、かつての華信国の民もいる。お前は、彼らを路頭に迷わせたいのか」
『ち、違います!僕はただ、蘭さまにかつての幸せを取り戻していただきたくて…!』
「幸せ、か」
噛みしめるように呟いた後、蘭姫はフッと小さく息をこぼした。
「秀。わたしはあの日、宮の外を出てから、泥沼に落ちたのだ。何とか這い上がって、泥まみれになりながら彷徨っていたら、とある老人に拾われた。そこで、さまざまなことを教わってきた。料理の仕方、掃除の仕方、買い物の仕方、物の作り方、怪我の治し方。宮にあのまま留まっていたら、どれも自分ではできなかったことだ。そして、自分で何もかもできるようになったことが、わたしはとても嬉しかった。宮では、常に誰かが側にいて、自分の手を動かすことはほとんどできなかったから」
蘭姫の身の上話だろうか。部屋の中はシンと静まり返り、ただ蘭姫の落ち着いた心地よい声が響くだけだ。
「しばらくして老人が死に、わたしは人さらいに攫われた。地方豪族に売り飛ばされて、そこが没落して、わたしは自由になった。その頃には、14歳になっていた。ある程度のことは、自分で面倒をみることができるようになっていたのだ。それから、わたしは自分のやりたいことをしようと思い、文官の試験を受けて、ここに来たのだ」
『蘭さま…そのようなことが…』
「だが、わたしはこの人生を恨んでいない。少し、不謹慎なことを言うが…。わたしは、恵まれていたのだ。あの戦いを生き延びただけでなく、わたしを助けて、今後生きていく術を叩き込んでくれた人がいた。生活する場所があった。何より、たくさん外を駆け回ることができた。わたしは十分、幸せだ」
『蘭さま、何をおっしゃいますか!ご両親を殺されたのですよ!国も滅ぼされて、王位継承者としての華々しい未来も、全て奪われてしまったのですよ‼』
秀が泣きそうな顔で、蘭姫に詰め寄った。幼い顔が必死の形相で歪み、幸せだと口にする主人を信じられないと言わんばかりに見つめている。
「確かに、最初の頃は、虎雹国が憎かった。なぜ、華信国が滅ぼされなければならなかったのか、分からなかった。復讐したいとも思った。だがな、秀。お前、かつての華信国が、今どうなっているか知らないだろう」
『は…?』
「華信国に住んでいた民は、今もそこで生活をしている。華信国の王族は解体されたが、かの国の文化は、細々とだが続いている。民たちも、虎雹国の生活になじみ、今では虎雹国出身の者と華信国出身の者が、婚姻関係を結ぶことも出来ている。みんな、穏やかに暮らしているのだ。そんな中に、5年も前に滅んだ国の王位継承者が、己の私情のために再び国を戦火に包み、民の生活を貶めて良いと思うか?それが、王族のすることか?答えろ!」
『そ、れは…』
秀は、答えに臆したようだった。無理もないだろう。5年ぶりに再会した主に、これだけつのられれば、腰も引ける。
「わたしは、自分の私情でこの国の王を弑することは絶対にしない。華信国の民が、今平和に暮らすことが出来ているというのなら、なおさら。余計な火種を蒔かず、民の今の穏やかな営みを守ることが、滅んだ国の王族としてできる最後の責務だ」
そう、はっきり言い切った蘭姫に、秀はしょんぼりと肩を落とした。
『蘭さま…。僕は、間違っていたのでしょうか…?』
年相応に、幼い子どもが迷子になったような声だった。それを聞いて、蘭姫は鋭く尖っていた瞳を緩ませた。うっすらと透けているかつての従者の手に、自分の手を重ねる。
「いいや。わたしたち王族のことを、ずっと憂いていてくれたこと、嬉しく思う。ありがとう、秀」
蘭姫の言葉に、秀はぱっ顔を上げた。そして、本当に嬉しそうに、明るく笑った。
首に張り付いていた血糊や流れ落ちていた血が消えて、ボロボロの衣も身ぎれいなものに変わる。
『昔の蘭さまは、お転婆で手が付けられないほどの方だったというのに、随分立派になられたんですね』
「言ってくれるな、秀。今のわたしは、お前より年上だぞ」
立て。
そう言って、蘭姫は秀の手を引いて立たせた。実際には触れることができないので身振りだけになるが、それでも秀は、蘭姫に導かれるように立ち上がった。
蘭姫は、自分の腰ほどの背丈の少年を見つめ、膝をついた。蘭姫と少年の目線の高さが同じになる。
『蘭さま⁉一体何を…!』
「こうして話をすることが出来るのは、後少しなのだろう。ならば、主と従者として話を終わらせたくない」
蘭姫は、秀の瞳をまっすぐに見つめた。
「わたしは、秀に感謝している。宮に閉じ込められてつまらなかったわたしに、たくさん話しかけて、たくさん遊んでくれた。軽口もたくさん叩いたな。それが、わたしはとても楽しかった」
蘭姫が言葉を紡ぐたびに、秀の瞳に雫が溜まっていった。それを、蘭姫は柔らかな笑みで見つめていた。
「わたしと友達になってくれて、ありがとう、秀」
秀の目から、大粒の涙が零れ落ちた。それはぽろぽろと零れ続け、留まることを知らない。
秀は乱暴に袖で目をこすった。あどけない目元が、うっすらと赤くなっていた。
『こちらこそ、蘭さまと一緒に居られて、本当に幸せでした。ありがとう、蘭さま』
秀が、ぱっと晴れやかに笑った。秀の周りから、金色の光の玉があふれ出す。
泡のようなそれは秀の小さな身体を包み込み、やがて金色の柱となった。天井高くまで金の泡の柱は高くなり、やがて消えていった。
――どうか、これからも幸せに、長生きしてください。
秀が残した最期の言葉が、光の粒と共に降り注いだ。
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