蘭姫

 あの日から2日が経った。

 たった2日で、いろいろなことがあった。


 香が、文官の職を辞した。


 あの夜、李潤の指示で医局に行ったらしい香は、そのまま自室に帰ってこなかった。

 どうやら、見舞いに来た李潤に対して、その場で辞職を申し出たらしい。


 李潤に命じられて香の部屋を片付けたが、驚くほど荷物が少なかった。装飾品などは一切なく、寒々しい部屋だった。


 まさしく、寝るために帰る部屋、という雰囲気だ。普段弾けるように明るい香の様子からは、想像していなかった様相だった。


 香の部屋の片づけをするよう命じられた時、李潤に問われた。


「香が女だと知っていて、なぜ黙っていたのか」と。


 具体的に理由があったわけではない。

 ただ、女人禁制の文官という職に、小柄な香が男の装いをして就いたということは、それ相応の理由が彼女にあったということだ。それを邪魔する権利は、僕にはない。あるとすれば、それは当事者たちにあって、僕が関与することじゃない。


 咎められるかと思ったが、李潤は額に手を当てて、ため息をついただけだった。もしかしたら、彼も気づいていたのかもしれない。



 その日の職務を終えて、僕は自室に戻った。

 部屋の外はすっかり暗くなり、鈴虫が鳴いていた。耳をすませば、風の爽やかな音も聞こえてくる。


 今日は、星麗に予告されている日だ。今日、この日に、星麗は王宮の医務室で祓いを行うと言っていた。もしかしたら、もう始まっているかもしれない。


 覚悟を決める時だ。


 鏡台の前に座り、結っていた黒髪をほどいた。ぱさりと肩に髪が落ちてくる。


 随分と、くすんだ色をしていた。ところどころ、きらっと光る髪がある。同僚たちには、「その年でもう白髪かあ~?」とからかわれた。だが、これでいい。


 鏡の前に座っている男は、今から蘭秀ではいられなくなる。だが、あの霊の話を聞いて、放っておくことはできない。


 決意を固めた紫色の瞳を鏡越しに見つめ、僕は液体の入った瓶を手に取った。





 いつもの朱色の打掛を羽織り、私は王宮の医務室に来ていた。部屋には2人の人間が寝かされている。


 1人はまだ年若い少年で、この国の皇太子だ。齢10歳。幼い丸い顔が、荒い息を吐いて汗を流している。


 もう1人は、美しい女性だ。彼女は外戚の姫であり、私が敬愛し、仕える姫だ。彼女のために、自分はこんな王宮まで足を運んだのだ。


 私が仕える姫は、王宮に来ていたその日に、あてがわれた部屋の中で倒れた。付き従っていた彼女の従者が、意識のない姫を発見し、医務室へ運んだのだ。そのまま、原因不明の病として、皇太子と同じ部屋に隔離されることになった。


 そんな姫も、未だ目を覚ます気配はない。


 硬く目を閉じている姫を見下ろして、私はため息をついた。

 その時、医務室の扉が開いた。振り返ると、医術師の中年の男が入ってきたところだった。


 その後ろから、豪華な衣をまとった長身の男が入って来る。袖の先まで金糸で刺繍が施された、藤色の衣だ。人目見ただけで、彼が何者なのか分かった。


 この男は、虎雹国を治める王だ。そして、今ここに横たわっている皇太子の父親。

 自分の息子の容態を確認するために、わざわざ足を運んだのだろうか。随分と足の軽い王さまである。ただ豪華なだけの椅子にふんぞり返って、結果だけ待っていれば良いものを。


 なぜ連れてきたのかと医術師を睨みつけると、彼は委縮したように、しゅんと身を縮めた。もともと小さな身体が、余計小さく見える。身体の小ささに比例して、気も小さく、小心者なのだ。


 舌打ちしたくなるが、グッとこらえる。星麗はそんなことしないのだから。


「お主、祓い屋だそうだが。どこの誰なのか」


 厳かな声音で、王が星麗に問うてきた。私は、流れるような動作で、王に向かって頭を下げた。


「私はただの祓い屋です。国の最上位にあらせられる君主に名乗ることが出来るような名前は、あいにく持ち合わせておりません。ご容赦くださいませ」


 重ねて質問される前に、踵を返した。質問は聞かない。自分の情報は、なるべく相手に教えないのが吉なのだ。


「それでは、始めます」


 胸元から扇を取り出す。要を持って開くと、さらさらと紙の擦れる心地よい音が聞こえた。


 この、扇を開く音が昔から好きだった。特に双子の妹は舞が上手で、この扇を使って良く舞を見せてもらっていた。


 5年前、あんなことが起こらなければ、今も彼女は元気に舞っていたかもしれないのに。


 感傷的になった思いを殺して、扇を皇太子と姫の顔の上にかざした。

 扇からぽうっと光が生まれ、2人の身体に降り注ぐ。黄金の煌めきが2人の身体を包み込むと同時に、彼らの身体から、真っ黒な何かが湧き上がってきた。


 それは、ぐねぐねと身をよじらせながら互いに絡み合い、やがて1つの形を作った。


 まだ10歳くらいに見える、少年の姿だった。その少年の出で立ちを見て、ハッと目を見張った。


 霊の姿を見るのは、これが初めてだった。いつも遠くから舞っていたため、声は聞こえても姿を見ることは叶わなかったのだ。


 少年は、浅黒い肌に、漆黒の髪を持っていた。瞳の色も黒く、利発そうな顔をしている。


 一見、どこにでもいる普通の男の子だ。


 だが、少年の首には、べったりと乾いた血がこびりついていた。頭からも、未だ止まる様子の無い赤い血が滴り落ちている。身に纏っている衣もズタズタに引き裂かれており、この少年がどんな最期を迎えたのかは、想像に難くなかった。


『蘭さま…蘭さまはどこに…。ご無事なのでしょうか…』


 少年の霊が、虚ろな目で辺りを見渡した。ぼんやりと寝台の上に浮かび上がって、青白い光を放つその姿は、どう見ても生きている人間ではない。


 近くにいた医術師がヒッ!と情けない声を上げて、よろよろと後退りした。王は、身じろぎもせず、じっと少年を見つめている。


 私はちらりと扉に目線を向けた。扉は硬く閉じたままで、開く気配はない。

 蘭秀が何かすると思っていたのだが、間に合わなかったのだろうか。

 ならば、仕方がない。この霊には気の毒だが、過剰な術を試すしかない。

 

 仕えている姫が倒れた時、私は姫の屋敷で待機していた。そのため、彼女に付き従った従者から話を聞いて、すぐに舞って、姫に憑いた霊を身体から引き離そうとした。


 だが、できなかった。

 その霊は、何者かによって降ろされ、術によってがんじがらめにされていた。そんな状態では、霊本人の意志で成仏することはできない。祓い屋も、引導を渡すことができない。


 そうなれば、基本的な方法は2つしかない。

 術をかけた人物を殺すか、霊に本懐を遂げさせるか。


 だからこそ、私は蘭姫の消息を探していた。5年前、華信国が滅びた後、彼女がどこに行ったのか、その消息を追った。


 5年前の戦いについての資料も読み漁り、知り合った人たちにそれとなく聞きながら、蘭姫に繋がる手掛かりを探したのだ。


 それでも、見つからなかった。ならば、自分にしかできない最終手段で、霊を引きはがすしかない。


 それは、霊の魂を完全に消滅させる方法だ。浄化されることもなく消えてしまうため、この世とあの世、完全にこの世界から消滅してしまう。これこそが、本当の死と言えるだろう。


 かわいそうだと思うが、自分にとっては、生きている人間の方が大事だ。死者のために、今生きている人間を苦しめることを、容認することはできない。


 霊に注意を向けながら、窓を開いた。欠けることない満月が、煌々と輝いている。 その姿が、ここから良く見えた。


 今夜は月がとてもきれいだ。

 そして、この術を使うには、もってこいの日だ。


 扇を広げ、秘術を使うための唱を歌い出した時だった。


 バンッ!と、少々手荒に扉が開かれた。


 音に驚いて唱を止める。扉を振り向くと、そこにいる人物に目を疑った。


 肩まで下りた丁寧にくしけずられた髪は、水銀色に輝いている。髪と同じ色をしたまつ毛の下では、淡い紫色の瞳が理知的な光を宿していた。


 透き通るように透明な肌は、蝋燭の光を浴びて、自ら光を放っているように見える。そして、上流階級の者しか着ることが許されない群青色の衣を着て、白い袴をはいていた。


 そこに立っている人物が信じられず、私は声を失った。


 まさか、そんな。

 あれだけ探して、見つからなかったのに。


 突然現れたその人物に、医術師と王も声が出なかった。時を忘れたように、呆然とその場に佇んでいる。


 そんな彼らをちらとも見ず、突然の訪問者はしずしずと部屋に入ってきた。


 訪問者は、私のすぐ側まで来た。近くで見ると、ますます眩い光のようで、目が霞みそうだ。

 喉がカラカラに乾いて、自分でも驚くように掠れた声が絞り出た。


「…華信国王位継承者の、蘭姫ですね」

 

「いかにも。ただ、姫ではない」

 

 可憐な容姿からは想像できない声で、返答された。


 それは明らかに、声変わりを終えた男の声だった。


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