人さらい(後編)

「蘭秀さん、大丈夫ですか⁉」


 懐かしい声に、僕は瞼を開いた。

 目の前に、星空が広がっていた。十三夜月が煌々と輝き、星屑がパラパラと散りばめられている。


 一瞬、自分の置かれている状況を忘れて、きれいだなと思った。


 目線をずらすと、朱色の打掛を着た白銀の少女が、僕の顔を覗き込んでいた。いつもは艶やかにまっすぐ整えられている銀色の髪が、四方八方に乱れている。


「せ、星麗、さん…?どうしてここに…」


 鳩尾に、盛大に蹴りを入れられていたようだ。さすがにすぐには立つことが出来ず、腹を抑えてうずくまった。


 少し動くだけで、吐きそうなほど気持ちが悪い。あの男、本当に僕を殺すつもりだったらしい。なんて奴だ。


「蘭秀さんは、そのまま待っていてください。ここはわたしがお相手しますから」

「な、星麗さん、それは無茶だ!」

「大丈夫です。この力は、彪家でも人一倍強いと言われていたんですよ。簡単には負けません」


 よろよろと顔を上げると、いつになく厳しい表情をして、前を見据える星麗がいた。

 

 その強い眼差しは、香によく似ている。香の利発な表情と星麗がだぶり、ハッと辺りを見渡した。


「そういえば、香は⁉香も近くにいるはず…!」

「香なら大丈夫です。蘭秀さんは、そのまま安静にしていてください。…それから」


 ちらりとこちらを見降ろした星麗が、ふっと笑みを見せた。いつもの淑やかな柔らかい笑みではなく、いたずらっ子のような、少しやんちゃな笑みだった。


「隙を作ってくださったこと、感謝します」


 そう言うと、星麗は手に握っていた扇を振って広げた。銀色を基調に、金糸がめぐらされた扇だ。


 いつも、彼女が舞を舞うときに使っている扇。それで、一体何をしようというのだろう。


「あ、あなたは、星麗さま⁉なぜここに…‼」


 香を掴み上げ、僕を蹴った男が、星麗の姿に目を剥いていた。対する星麗は、刃のように鋭く、冷たい目線を投げかけた。


「その質問に答える義理はない。お前の諸行は聞かせてもらった。情状酌量の余地はない」


 温度のない声で告げると、星麗は扇を振り上げた。同時に、彼女の口から音の旋律が紡がれる。それに呼応して、銀の扇が眩い光を放った。


 いや、違う。

 扇だけではない。


 この場のあらゆるものが、彼女の唱に反応していた。月明かりの届く草花、木、土、それら生命あるものが輝き、光を放って、星麗の持つ扇に集結しているのだ。夜空からは星が大地に降り注ぎ、月の光すら、星麗のもとへ引き寄せられていた。


 これほどまでに幻想的な光景があるだろうか。


 月明かりに照らされて煌々と輝く星麗に、僕は声を失くした。

 喚いていた男ですら、その姿に圧倒されて、大きく口をあけて呆けている。


 まさしくこの場は、彼女のために用意された、特別な舞台になった。


 光の粒を纏った扇を、星麗は袖を翻し、大きく横に振り降ろした。シャラシャラと、金の装飾がこすれるような耳障りの良い音と共に、矢に姿を変えた光が、男のもとへ一直線に飛んでいく。


 光の矢は、抵抗しようと突き出した男の腕をすり抜け、深々と胸に突き刺さった。



 地面に崩れるように座り込んだ男が完全に気を失っていることを確認し、星麗はふんと鼻を鳴らした。


 術の開発をしていると大口を叩いていたが、術は開発によってその力を増大させることができるような代物ではない。それが出来ていれば、今頃この世は術師だらけになっている。


 だが、彪家に依頼を受けていたことは間違いないだろう。そうでなければ、貧困層といえど、大量の子どもを同じ場所から誘拐するなんて、そんな大それたことは、いくら何でもできない。


 お咎めがないよう、彪家が裏で手を回していたはずだ。あの家は、それくらいのこと、簡単にしてしまう。それをするだけの力がある。


 この男から聞きたいことは山ほどある。だが、今はそれができない。そもそも、この姿を見られただけでも相当まずい。彪家当主の耳に入りでもすれば、今度こそ自分は消されるだろう。


 それでも、見逃すことなんてできなかった。子どもたちを、蘭秀を、危険な目に遭わせたのだから。


 こんな倒し方、生ぬるいくらいだ。




 座り込んで動きを止めた男の側に立つ星麗から、怒りが湧き出ているのを感じた。それを見て、場違いにも僕は、ああ、彼女も人だったのだなと、変な感慨を覚えた。


 ずっと、森の開けた岩場でしか会っていなかった。そこに行かなければ、星麗には会えなかった。

 現実離れした儚い容姿に、常に絶やさぬ笑み。天女のような舞。


 だからこそ、現実味が薄くて、どこか夢のようにも思っていたのだろう。だが、今の星麗からは、地に足を着ける1人の人間らしさを感じた。


 ぼんやりと彼女の姿を眺めていると、背後が騒々しくなった。


「蘭秀!無事か⁉」


 聞こえてきた声に、僕は驚いて振り返った。いつも冷静沈着で、生きた人形のような李潤が、泡を食った様子でこちらに駆けてきていた。


「李潤さん⁉どうしてここに」

「王宮に香とお前が帰って来なかったからな。全員で探していたんだ。そうしたら、香が俺のところに来たんだよ。ちょうど近くだったみたいだな。どうだ、蘭秀。怪我はないか」


 そう言いながら、李潤は僕を立たせてくれた。いつになく優しい様子の、あまり歳が変わらない上司に、ようやく強張っていた心が安堵を覚えた。肩に入っていた力がふっと抜ける。


 李潤は奉行も呼んでくれていたらしく、桜色の羽織に黒の袴を来た男たちがたくさん来ている。彼らは、項垂れた様子で膝をついている男を縄で拘束していた。


 ようやく、長い1日が終わりそうだ。




 奉行に担がれて連行された男を見送って、僕は隣で佇む星麗を横目で見た。

 星麗はぼんやりとした様子だ。何を見ているのか分からなくて、とりあえず彼女の顔の前で手を振って見せた。


「わっ!」


 すると、ようやく彼女はこちらに戻って来たらしく、目をぱちぱちと瞬かせると、僕を見た。


「ら、蘭秀さん?」

「星麗さん、大丈夫か?だいぶ疲れてるように見えるけど…」

「へ、平気です!それより、蘭秀さんこそ大丈夫なんですか?随分ひどく蹴られていたように見えましたが…」

「もう平気だよ。ありがとう」


 ポンポンと軽く腹を叩いて見せると、星麗はようやくふわりとした笑顔を見せてくれた。

 

 やはり、星麗は笑った顔の方が良い。薄暗くもどす黒い空気は似合わない。


 5日ぶりの彼女との再会だが、何を話したら良いのか分からなかった。星麗もそうなのか、おのずと僕たちの間に沈黙が落ちる。

 

「あの…」


 気まずい空気が続くかと思ったが、そうではなかった。星麗がおずおずと僕の衣の袖を引いた。


「蘭秀さん、前お会いしたとき、言いましたよね。約1週間後に、霊を鎮めることができるかもしれない、と。一体、あれはどういう意味なのでしょうか」


 丸い月のような黄金の瞳が、僕をじっと見つめていた。

 その真剣な眼差しを向けられても、僕は口を割ることができない。今この場で事の真相を伝えては、僕の人生が終わってしまう。


 良くて投獄、悪くて死刑だ。

 僕は死にたくない。だから、星麗の質問に軽率に答えることはできない。


 僕の考えを感じ取ったのだろう。星麗は扇をギュッと握りしめた。


「そう、ですよね…。簡単に教えていただけるなら、まずあんな言い方しませんよね…」


 星麗は眉を下げると、諦めたように首を横に振った。そして、顔を上げて僕を見た時には、星麗から落胆の色は消えていた。


「2日後の夜、王宮の医務室で祓いを行います。もし蘭姫に関する何かをお持ちなのであれば、その日に持って来てください」

「2日後?」

「2日後は満月ですから。都合が良いのです」


 突如もたらされた情報についていけないが、なんとか心の中で書き記す。

 2日後は確かに満月だが、都合が良いというのはどういうことなのだろう。

 他にも聞きたいことはたくさんある。


 彪家とはいったい何なのか。香が家から追い出されたというのは、どういうことなのか。


 だが、星麗の質問に答えることが出来なかった僕が、聞いていいことではない。彼女の求めるものを差し出すことができないのだから、自分ばかりもらっては、公平じゃないからだ。


 対等でなくなる。人との関わりで、公平を保てなくなったらおしまいだ。


 その時、気が付いた。


 僕は、香に対して、本当に公平に接することが出来ていたのだろうか、と。

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